chapter1 05

例えば、毎日誰かが作ってくれる美味しいご飯があって、いつも誰かが洗ってくれている柔らかくて良い匂いのする布団もあって、誰かが作ってくれる素敵なドレスもあって――そんな、衣食住に全く困ることはない、何不自由のない贅沢な暮らしをしていたとして。その生活に不満を持つなど、なんとわがままな人だろうかと思われても、仕方のないことなのかもしれない。
蝶よ花よと大切に大切に育てられてきた深窓の令嬢アイーシャの目に映るのは、煌びやかな貴族社会などではなく、それよりも更に外側に存在する冒険の世界だった。
きっかけは、幼い頃に読んだ物語。勇者様が仲間達と共に世界を救うべく魔王を打ち倒すという、そんな夢と希望、努力、仲間達との絆を綴った冒険譚だ。勇敢な勇者様も格好良いけれど、アイーシャが何よりも憧れたのは、魔法使いだった。魔法を自在に操り、時には攻撃をしかけ、時には仲間の補助に回る、冒険の頼もしい仲間――自分も、こんな風になれたらと。
しかし、その想いは心の中にひっそりこっそりと閉じ込めて、周囲に悟られないようにしてきた。今のアイーシャに求められているのは魔法の才能でも、冒険するための知識でもなく、貴族の令嬢として完璧なレディになることだった。
幼い頃から、令嬢のお手本のような振る舞いを心掛けてきた。おそらく、友人、知人、そして親でさえも、アイーシャが冒険に出てみたいと考えているだなんて、露ほどにも思っていないことだろう。
それで良い。
これからもきっと、現実を受け入れて生きていく。だから時々、そっと宝箱を開けるように幼い日の憧憬を取り出しては懐かしむ。そして、諦めにも似た心境で、これからも両親が用意した道の上を決められた通りに歩いていくのだ。
けれど、もしも、万が一に、冒険に出るチャンスが巡ってきたとしたら。その時は。


「アイーシャ様、そろそろお着替えを……」


メイドの声に、物思いに沈んでいた思考が急浮上する。
今日はセントシュタインの王女――フィオーネ姫とお茶をする約束をしていた。相手が王女ともなると、それなりの準備が必要だ。メイドが用意した衣装もなかなか気合いの入ったものだった。動かなくても疲れそうなほど、キラキラときらびやかなドレスは、まるで貴族としての矜持や意地のようなものをそのまま表現しているかのようだ。
アイーシャはもう少し落ち着いたシンプルなものが好みだが、流行と言われてしまえば仕方がない。


「ごめんなさい、すぐに着替えるわ」


窓の外に向けていた視線を戻し、メイドに曖昧に微笑んだ。




「フィオーネ様、お茶が入りましたわ」


貴族の娘が手ずからお茶を淹れるのは珍しいかもしれない。それでも、今は――フィオーネとお茶をする時だけは、どうしてもアイーシャがお茶を淹れたかった。これだけは譲れない。
アイーシャとフィオーネの付き合いは長く、幼馴染みと言っても良い。とはいえ、アイーシャは貴族の令嬢でフィオーネは一国の姫。自分達の立場を理解出来ない年齢でもない。長年の友人を敬称で呼ぶのは少し距離を置いている感じがして寂しくもあるが、アイーシャはフィオーネのことを「様」をつけて呼ぶようにしていた。――少なくとも人目のあるところでは。


「アイーシャ、今はいつも通りに話しても大丈夫よ」


ここはフィオーネの私室。公共の場ではないし、部屋にいるのも気心の知れたメイドだけだ。とある事情により、部屋の入り口には数人の兵士が控えているようだが、あくまで部屋の外である。


「ふふ、ではお言葉に甘えまして……フィオーネとお茶なんて久しぶりですね。黒騎士のこともありますから仕方ありませんけど、なかなか会えなくて寂しかったわ」


紅茶にミルクを注ぎながら、アイーシャは口を開く。丁寧な物言いはそのままに、口調だけは親しげなものに変わった。その変化にフィオーネはどこか安堵したようだったが、現在の自分の置かれた状況を思い出し、表情を曇らせる。


「ごめんなさい、こんな時にお城にお呼びだししてしまって。でも、どうしてもあなたとお話をしたいと思ったの」


「ええ、わたくしもお話したいと思っていましたわ。……何か、あったのですか?」


いつもとは逆ね、と思いながらアイーシャは尋ねる。アイーシャがフィオーネに相談に乗ってもらうことはあっても、その逆はあまりなかった。それは自分が頼りないからかもしれない、とアイーシャは思っていたが、だからこそフィオーネが頼ってきてくれた時は絶対に力になろうと決めていた。
フィオーネの顔色からは、憂いや哀しみ、そして切羽詰まったような焦りが窺える。清楚で可憐な容姿と振る舞いで白百合に例えられる彼女だが、今にもしおれてしまいそうな落ち込みぶりである。
彼女をそこまで思い詰めさせるものに、アイーシャは一つだけ心当たりがあった。


「もしかして……黒騎士のことですか?」


アイーシャがおそるおそる口にすると、フィオーネはこくりと頷いた。
やはり、とアイーシャは合点しながら、数日前に城へ現れた黒い鎧を纏った騎士のことを思い出す。

あの日はアイーシャもとある用事があって城を訪れていた。にわかに騒がしくなった城内が気になって広間に出てみると、そこには黒い馬に乗った、黒騎士が昂然と佇んでいたのだ。その堂々とした姿にあっけにとられているうちに、黒騎士は多くの兵士をなぎ倒すようにしてどんどん城内へと侵入する。
そして、圧倒的な実力をもって広間にいる兵士を全員地に伏した後、広間に響き渡るほどの声を張り上げた。


『姫、我が麗しの姫君よ、どちらにいらっしゃるのですか!』


姫、と黒騎士が呼ぶ声に、アイーシャの脳裏にはフィオーネの姿がよぎる。


(あの方の狙いは、まさか……)


この城で姫と呼ばれる存在はただ一人、幼馴染みであり親友のフィオーネ姫だけだ。
きびすを返して、アイーシャは一目散にフィオーネの元へと向かう。あの黒い騎士よりも早く、フィオーネを見つけなければと、そう思って――。


「不安になるなと言う方が難しいかもしれませんけど、」


結局、多くの兵達に守られたフィオーネを連れ去ることは難しいと判断したのか、あるいは城の兵士達など相手にもならないという余裕の現れか――混乱に見舞われた城にて、黒騎士は「満月の夜、シュタイン湖で待つ」と言い残し、去って行った。シュタイン湖で姫君、つまりフィオーネを差し出せということだろう。さもなくば、再び城に乗り込んでくるに違いない。
次の満月まで、もう日がない。王は黒騎士を退治してくれる者を探しているが、志願者はなかなか現れない。当然だ、日頃から鍛錬を重ねる城の兵士達ですら歯が立たないのだ。
――普通の令嬢ならば、この状況で不安にならないわけがないのだ。そして、フィオーネと付き合いの長いアイーシャには、もう一つの懸念があった。
フィオーネは沈んだ表情でかぶりを振る。


「いいえ、いいえ……違うのよ、そうではないの。わたくしは、わたくしのせいで誰かが傷つくくらいならばこの身を差し出したって構いません」


「フィオーネ……」


フィオーネは、自分が王族であることを鼻にかけない。自分のせいで争いが起こることを悲しみ、それくらいならばと自分を犠牲にすることも厭わない、優しい姫君だった。
だから、アイーシャは心配だったのだ。フィオーネが、自ら黒騎士の元へ行くと言い出すのではないかと。


「そんなことを、言わないでください。あなたに何かあったらわたくしも、あなたのご両親だって悲しむわ……」


「アイーシャ……ごめんなさい。そういうつもりで言ったわけではないのよ。わたくしには……あの黒騎士がそんなに悪い方だとは思えないの」


「え……?」


黒騎士が、悪い人ではない――。
そんなことを考えたことすらなかったアイーシャは、呆然とフィオーネを見た。大切な友人をさらおうとする者にそんな可能性を見出せるわけもなかったが、フィオーネは本気で疑問を抱いているようだった。
手元の紅茶に視線を落としていたフィオーネは、思い切ったようにアイーシャの方を見つめる。


「何か事情があるのかもしれません。わたくしは黒騎士に会って、直接話を聞きたい……だから、お父様にはわたくしがシュタイン湖へ行くと言うつもりです」


「フィオーネ……」


アイーシャと同じように普段は大人しいフィオーネがここまで強く主張するなんて珍しい。そんな、彼女の固い決意と意志に満ちた発言を聞き、アイーシャは目を見開いた。

prev | menu | next
[ 8 ]
ALICE+