01

「空は青い」


少女の幼い声が森の中へ溶けるように響く。
詩(うた)を歌いながら、少女は螺旋状に続く道を弾むように歩いていた。


「大地は赤い。森は緑。太陽は眩しく、月は冴えるような輝きを放つ」


見上げると、木々の隙間から零れるように太陽の光が差し込んでいた。淡い光が少女の翡翠色の瞳に吸い込まれてキラキラと輝く。
詩を口ずさみながら、少女――フェンは背中に背負った荷物を背負い直した。同時に、最近伸ばし始めた髪のみつ編みが大きく揺れた。
この場所――封印の地には、恐ろしい魔物が眠っている。今は封じている力のおかげで、その魔物が出てくることはないけれど。
少女は、封印の施された杭の打たれた最下部へと到達しようとしていた。


「女神の残した遺産、この世界を、最も知りたるは流浪の民。世界を見守るため地上に残りし女神の使命を持つ者よ……」


ふと、詩が途切れる。そこで足音も止まった。目をパチクリと瞬かせて黒い杭の辺りを見つめる。
そこには、見知らぬ者の存在があった。


(どちら様……?)


フェンはそっと様子を伺う。

誰か知らないが――何か知らないが、踊ってた。

黒い杭の周りで鼻歌まじりに不思議な振り付けで踊る人物。フェンは思わず黙って見入ってしまった。こんなところでどうして踊っているのだろうか、と。
奇妙な踊りを眺めること約数十秒。ピタリと踊りを止めた誰かは不機嫌そうにフン、と鼻を鳴らして呟く。


「実に忌々しいね」


あんなに愉快そうな踊りを踊っていたにも関わらず、心中穏やかでなかったらしい。
この人物は一体何者なのだろう。男の人らしいことはすぐに分かったが、地上で暮らす人間は滅多にいない。ついでに言えば、この封印の地を訪れる者も滅多にいない。フェンは男の後ろ姿を眺めながらそんなことを考えていたが、男はそんなフェンを知ってか知らずか振り向きもせず一言。


「……で、君はこのワタシに何か用でもあるのかい」


「はっ……バレてた?!」


バレてないとでも思っていたのかね、と男は不機嫌さを隠しもせず呆れながら振り向いた。確かに周りには隠れられる物陰なんてものはないので、バレバレであっただろう。ただ、男がずっと後ろを向いて踊っていたから気付いていないものと思っていたのに。
やっと見ることが出来た男の顔は、白く長い前髪によってその左側を隠してしまっていた。そのせいか、右に覗く吸い込まれるような黒い瞳がやけに印象的だ。


「あのぅ……どちら様ですか?」


「人に聞く前に自分から名乗るのが礼儀だと思うがね」


前髪をかき上げながら皮肉たっぷりに男が言う。


「あ……すみません。私はフェンと言います」


「フェン……ふぅん、容姿を裏切らない平凡な名前だね」


「はぁ……」


「仕方がない、こちらも名乗ってあげよう。ワタシはなんて寛大で慈悲深く親切なんだろうね」


自画自賛というか自分に酔っているとしか思えない男の言葉に何て答えれば良いのか分からない。戸惑うフェンは首を傾げて曖昧な返事をするだけだった。男はそんなフェンには気付いていないのか、もったいぶってため息をつき腕を組む。


「ワタシの名はギラヒム。気さくにギラヒム様と呼んでくれて構わないよ」


「……えっと、」


――それは気さくと言えるのか。
雰囲気的に突っ込むことも出来ず、ただ戸惑いの視線をギラヒムに向ける。


「ご丁寧にありがとうございました、それでは私はこれで……」


「まぁ待ちたまえ」


これ以上関わっているとロクなことにならない気がする。フェンの勘がそう告げているような気がして、そそくさと退散しようとすれば、後ろからがしっと肩を捕まれた。いつの間に距離をつめたのか、足音もしなかったのにフェンのすぐ後ろにギラヒムが立っている。驚きのあまり「ひぇっ」とフェンの口から小さな悲鳴が漏れれば、何が面白いのかギラヒムが喉を鳴らす。


「な、何か……?」


最初にそれを言ったのはこちらだが、とギラヒムは目標を定めた猛獣のような目でフェンを捉える。


「ワタシはね、今とてつもなく気分が悪いのだよ」


「そうですか……」


見れば分かります。
何があったかは知らないが、得体が知れない上ものすごく機嫌が悪いらしい人物と関わり合いたい人はいないと思う。


「気晴らしに、少々付き合いたまえ」


「気晴らし……って、」


それはどの程度付き合うことを言っているのでしょうか。
疑問を口に出す前に、なぜか目の前の風景がぼやけた。かと思えば、ガラリと光景が変わる。木々に囲まれた森とは対照的に、辺り一面砂に覆われた砂漠。
目の前に広がる風景をぽかんと眺めていたフェンだったが、この場所がどこなのか把握すると、ハッとしてきょろきょろと辺りを見渡す。一瞬で移動したなんて信じられないが間違いない。


「どうしてラネール砂漠にいるんですか……」


「おや、案外頭は回る方らしい」


少し意外そうなギラヒムだったが、フェンとしては平然としていられない。パニックを起こしかける頭を必死に動かし、考える。
封印の地からラネール砂漠へは遥かに遠い。この目の前の男が何かしたとしか思えない。


「どうしてこんなところに……」


呟いて、はたと気付く。見知らぬ人物に無理矢理(というか勝手に)どこぞへと連れてこられることを何と言ったか。
青ざめた顔でフェンはギラヒムを振り返る。


「まさかこれって誘拐ですか?!」


「そうだと言ったらどうする?」


意地の悪そうな顔をするギラヒムにフェンが後ずさる。警戒するような眼差しは、しかし何かに気付いたようで「あれ?」と首を傾かせた。


「誘拐したところで意味ありませんよ。私には戻る家なんてありませんから」


先程までいた封印の地だって、フェンの帰る場所ではない。フェンの居場所はとっくになくなってしまっていた。


「ふぅん……まぁいずれにせよ、私には君みたいなみずぼらしいガキを誘拐する趣味はないけれどね」


フェンを貶すことに容赦のないギラヒムは誘拐を呆気なく否定した。だったらなぜここへ連れて来られたのか。フェンが聞くよりも先にギラヒムが口を開いた。


「ところで、先程君の歌っていた詩だが」


誰もいないと思って歌っていたのに。ギラヒムはざっくりと感想を一言残す。


「美しさの欠片もない歌だね」


それは詩自体を貶しているのかフェンの歌声を貶しているのか。


「ただ、どこかで聞いたことがある気がしたんだが、」


その言葉に、フェンは弾かれたようにフェンは顔を上げる。その目は期待に輝いているようだった。


「もしかして、クロワ族をご存じですか?!」


勢いよく話に食いついてきたフェンに、ギラヒムは片方の眉を上げてフェンの額を小突いた。


「気安く近寄るんじゃないよ」


「いたっ、」


軽く弾かれただけだったのに、なぜだかものすごく痛かった。若干涙目になりながらギラヒムを見上げればギラヒムは少し楽しそうに見えた。いじめっ子だ、と口に出せばまた小突かれそうなことをフェンは思う。先に、フェンに近付いて肩を掴んだのはギラヒムなのに。挙げ句ラネール砂漠にまで連れて来られて、やることなすこと理不尽である。
そんなこと意にも介さない風にギラヒムは顎の先に手を添えて考え込む。


「クロワ族……そんな一族もいたかもねぇ」


フェンを一瞥し、ギラヒムはなるほど、と呟く。


「君はその一族の末裔というわけか」


なぜかは分からないが、愉快そうな、興味深いような、そんな視線を向けられた。それが何を意味するのかフェンには分からない。


「クロワ族、人間でありながら地上に残った奇特な一族。だが今では君一人だけ」


そう、クロワ族はフェンを残して滅んだ。フェンが息絶えれば、この世からクロワ族は消える。そういう、運命なのかもしれなかった。
ギラヒムから目を反らし、ラネールの砂海を眺める。


「女神様の言葉を退けてまで地上に残ったのです。これも、報いなのかもしれません」


フェンは空を仰いだ。厚い雲で覆われている。この空の上には、どんな世界が広がっているのだろう。想像もつかない。
どんなに素晴らしくても、どんなに豊かであっても、フェンに地上を離れる気はさらさらなかった。一族の血が、そう思わせるのだろうか。


(私達、間違っていたの?)


女神の言う通り、空の上へ行けば一族が滅ぶことはなかったのかもしれない。それでも、地上に残ることを選んだ、フェンの祖先。
それをどう思ったのか、ギラヒムは相も変わらずフェンを面白そうに眺める。


「目的のためなら手段も選べず、か。女神もなかなか酷なことをする」


どういう意味だろうかとフェンはギラヒムに顔を向ける。しかし、ギラヒムはそれ以上何か言うことはなく、砂漠に吹く風がギラヒムのマントをはためかせた。


「さて、ワタシはそろそろ失礼するよ」


「え?」


「じゃあね、流浪の子。機会があったらまた暇潰しにしてあげる」


パチン、と音が鳴ったかと思えばギラヒムの姿があっという間に消えた。赤く煌めく菱形をした光の残滓が瞬いたかと思えば、それもぱっと消えてしまう。


「行っちゃった……」


呟きが、砂漠に空しく響いて溶けていった。呆然と先程までギラヒムのいた場所を見ていたフェンだったが、はっとして「あ!」と大きな声を上げる。


「元の場所に戻してもらってないですが……!!」


ギラヒムは、どこまでも自分勝手な人だった。何日もかけて封印の地に戻らなければならないのかと思うと、さすがに肩を落としそうになる。今度会えたら文句を少しつけるのくらい許される、はずだ。……ただ、次はどんな理不尽なことをされるかと思うと会いたくないような気もする。ギラヒムは結局、何に対して怒っていたのだろう。
フェンは封印の地を目指して仕方なく歩き出した。

――この出会いが、運命を大きく揺るがすことになるとも知らず。
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