純黒の悪夢/後編

 その後、程なくして残務処理が完全消化された。苗字は怪我をしていたということもあり、もう暫くの休みが許された。――松田にとってもそれはありがたいことであった。
 幸い入院するほど重症というわけではなかったため、療養は自宅で行われた。怪我が効いたのか、苗字は家でゆっくりしていた。
「…俺の言いたいことは分かるか」
 今回の一件やその間に起きた細々とした事件を全て片付け、松田は漸く苗字とゆっくり話す時間を確保した。嗚呼ついにこの時が来てしまったかと言わんばかりの表情をした彼女は、うむんとよく分からない相槌を打って視線を彷徨わせた。
「あー…キミの怒りは分からなくもないが、今回は本当に拙かったんだよ。ただでさえ私と距離が近いのに、自ら組織に近づくような真似は……」
 無言で睨みつけていれば、苗字はおずおずと口を閉ざした。「…全然分かってねえ」溜息混じりに切り出せば、彼女は薄桃色の唇を噛んだ。気まずいと思っている証拠だ。
「仕方のないことだとは思ってた」
 そう続ければ、苗字はおそるおそるといった感じにこちらを窺う。
「立場が違うし、経験も違う。抱え込んでるモンの大きさも、きっと違う。お前が自分から危険に飛び込むだろうってことは、お前のことを知った時から予想はしてた」
「………」
「でもそうじゃねえだろ。そんな理屈、全部すっ飛ばして……俺は、お前の傍にいたい。ただ、それだけなんだ」
 ひくり、一瞬だけ眉が動いた。松田は苗字の頬に貼られたガーゼを指でなぞる。
「――何で、心配さえもさせてくれねえんだ」
 薄氷の瞳が揺らいだ。
 暫しの間見つめ合っていたが、やがて苗字はふいと顔を背けた。それが気に入らなくて「名前…!」と少し語気を強めて彼女を呼ぶ。しかし彼女がこちらを向く気配はない。焦れったくなって無理やり振り向かせようと手を伸ばしたその時、松田は苗字の耳が赤くなっていることに気がついた。
 今、苗字は、照れているのだ。
「……………なあ、こっち向けよ」
「…嫌だ」
 己の口端が緩んでいるのが分かる。だって仕方がないじゃないか。こんなに可愛いことをしてくるなんて、誰が予想できるだろう。不意打ちにも程がある。
 彼女の細い肩を掴んで振り向かせる。「ちょっと!」苗字はギッと睨みを利かせてきたが、頬が紅潮しているのでまったく怖くない。堪らなく愛しくなり、いまだ文句を垂れている彼女のその口を己のそれで塞いだ。角度を変え、舌を絡ませ、深く――。
「好きだ」
 そう告げた時には苗字の息は上がっていた。潤んだ瞳が松田を射貫く。「…観覧車を…」やがて、静かに語りだす。
「観覧車を止める為に突っ込んだ時…キミを思い出した…」
「!」
「…、済まない。その、私は……さっきのような言葉をかけられたことがなくて…私も、キミを大切にしたいと思うけど、どうしてか上手くいかないんだ」
「っ…」
 今度は松田が頬を染める番だった。
「…くそっ」
「わっ!」
 感情の赴くまま彼女を掻き抱いた。「ど、とうしたの」と当惑の声を上げる苗字に答えることなく、腕の力を強める。少し苦しそうにしていたが彼女は抵抗しなかった。
 ――いつか、こんな事件よりももっと大変な、彼女との繋がりそのものを切りかねない出来事が、きっと起こるだろう。その時自分は苗字を守りきれるのか、支えきれるのか、今現在では断言はできない。
 それでも。
「お前が振り払ったとしても、追いかけるから」
 きっと、松田は手を伸ばさずにはいられないだろう。たとえ苗字に嫌われたとしても、必ず、彼女を迎えに行くだろう。
 具体的な出来事が想像できているわけではない。だがなんとなく、松田はそんな予見をした。

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