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「お前って諸伏と会う前はどこにいたんだ?」
 そんな質問をしたのは、家主である諸伏が不在の時だった。突然の質問に河南は暫く松田の顔を眺めていた。
「…別に。どこでも良いだろう」
「いやいや…良くねえだろ」
 彼女が一般人ではないことも、この世界の常識の枠組みに入らないことも理解していたが、それでも聞かずにはいられない。
「お前にだって帰る家とかあるだろ」
 そうなのである。松田はずっとそれが気に掛かっていた。どういう仕組みなのかは不明だが、松田たちの元に河南が“来た”のなら当然の帰結として河南には“帰る”ところがあるわけである。そして家があるのなら彼女を取り巻く環境――例えば友人など――があってもおかしくない。
「気に掛からねえのか」
 きっと萩原ならもっと上手く言葉にできただろうに。素直に寂しくないのかと問えないことに自己嫌悪する。
 河南は松田のそんな心境など露ほども知らぬ顔で口を開く。
「生憎根無し草なもんでな…特に何も」
 思わぬ返答だった。この、恐らく自分たちよりも歳下の女は、帰る家がないと平然と宣う。本当に何も感じていないらしく、声はあまりにも平坦なものだった。
「それに」
 だが意外なことに言葉を続けた。
「生きてさえいればなんとかなるだろう」
 前向きな発言だった。家がないとか、それでなくとも故郷に帰れないかもしれないとか、そんなものは大したことではないと言いたげな声色だ。
 そういえば以前、河南から喝を入れられたと諸伏が言っていた。

『…別に、自由なわけではない。昔も今もな』
『ただ、気に食わんもんは気に食わんと言うようにしただけだ』

 そう言っていたと、彼から聞かされた。
 多分自分が考えているほど河南は単純な生き方をしていないし、楽な人生を歩んでこなかったのだろう。腕っ節が異常に良いことが分かりやすい例だ。意地を張らねば、生に執着せねば生き延びることができなかった――そんな強い意思を感じる。
「前いたところは楽しかったか」
 気づけばそんな疑問が口から零れていた。河南は先程質問を受けた時と同じ顔をした。
「……楽しいかは分からんが、飽きはしなかった」
「そうか」
「あそこは癖の強い連中が多かったからな」
 何も感じないと言っていた割に懐かしそうな顔をする河南。
 ――んだよ、そういう顔もできるのかよ。
 少しだけつまらなく感じた。
「ここは甘っちょろい奴らばかりで張り合いがないが…」
 そこで目が合い、思わずどきっとする。
「まあ、お前たちはお前たちなりに意地を通しているから良いんじゃないのか」
 傷やタコのある彼女の掌は、どう見ても普通の生活を送ってきた女性のそれではない。一体河南は、どれだけの覚悟を持って地面に足をつけて生きてきたのだろう。最初から、そしてこれからも両の手に溢れるほどものがある自分などでは想像もつかない。
「なあ、ケーキ食いに行かねえか」
「は」
「駅前に新しいケーキ屋が出来たらしい」
「何だ急に」
「お前に食わせたくなった」
 そう述べて笑えば、河南は変な奴だなと呟いた。