逃げられない。私の左には突き刺さったナイフ、右にはザラザラとした鱗が鈍く光る大きな手。
試合が始まり少し隠れた後、近くにあった暗号機を解読していた。突如として影が上空から降ってきて、今回のハンターは魔トカゲである事を理解する。弾かれるように暗号機から離れ、私は少しでも時間を稼げるようにと走り出した。
背後を気にしながら逃げていた私は、そいつがナイフを大きく振りかぶっている事に気付く。咄嗟に身体を捻り、どうにか脅威から逃げられた……そう思った。いつもなら彼らの重い一撃は簡単に壁を瓦礫へと変えてしまう。それなのに何故かそいつのナイフは壁を壊す事なく、私を閉じ込める檻になってしまった。逃げ道も手で塞がれ、どうにも出来なくて怯える私を更に追い詰めたいのか、魔トカゲは突き刺したナイフにわざとらしく力を込めた。どうすればここから逃げられるの? いっそ一思いにしてくれないだろうか。
「あの、壁に閉じ込めるような動作って、女性がドキッとする動作なんですって」
人は追い詰められると本性が出ると言うが、私は随分と馬鹿だったようだ。逃げる事を諦めた私に出来る事は、目の前の男の様子が過去に盛り上がった話に出てきたポーズと同じだと現実逃避する事だけだった。だけど言うつもりはなかった。それなのに思考を飛ばし過ぎて、勝手に口から出てしまった。
「……何故それを言うんだ」
「いえ……」
「はぁ……何だ? 君は今私にドキッとしたとでも?」
「違う意味でドキドキしてますよ」
これは今まででされた事がないくらい酷く痛めつけられるだろうと覚悟していたが、そいつは呆れを滲ませつつからかうような言葉を返すだけだった。まさかこんな男にドキッとする筈がない。大人しく黙っていればいいのに、否定の言葉が口をつき慌てて目を逸らした。
「えっ、ちょ……」
「……」
ふいに首にひやっとした感覚が纏ったと思うと、優しく顎を掬われ彼の方へと顔を固定される。私が視線を逸らした事が気に食わなかったのか。好き勝手するなと文句の一つも言いたかったが、急所を彼の手足のような尻尾で捕われていればどうする事も出来ない。このまま縊り殺されてしまうのだろうか。そう思ったが一向に力を込める気配はなく、真剣な表情で私を見つめてくる。
何が、したいの……? あまりにも私の事を熱心に見る彼に羞恥心が芽生えてきた。熱が集まってきた顔を見られたくなくて逸らした私を、そいつは逃さないように器用に捕らえる。時折尻尾の先で確かめるかのように、首筋や頬を撫でられおかしな気分になってくる。
「し、試合! 続けないと!! だから……それ、やめてください……」
このままだと駄目。他のサバイバーのみんなが真面目に臨んでいるのに、私は訳も分からないままハンターに心を奪われそうになっている。こんな事今まで誰にもされた事がない。優しく触られて、真剣な眼差しで見つめられて。いくら相手がハンターとは言え、男の人に耐性がない私には耐えられない。
ふと最後の暗号機の解読が終わったと知らせる音が鳴り響く。その音に今が試合中だと思い出し、私はやっとのことで声を絞り出した。
「ん、成る程な。もう今回の試合は私の負けでいいさ」
「どうして?」
先程までの執拗さが嘘のように、私のお願いを聞いた彼はスッと尻尾を下ろした。それだけでなく己の負けだと私を囲っていた手を離す。いくら暗号機の解読が終わったからといって、目の前の私まで逃す必要はないのに。疑問を口にした私に、魔トカゲはゆっくりと口角を上げる。チラリと覗いた舌が唇を舐めるのが、どうにも色っぽく見えてしまう。何とか視線を戻した私の目に飛び込んできたのは、まるで捕食者のような表情をした彼だった。
「いいものを見させてもらったからな。他の奴らにはそんな顔見せるなよ」
「……!?」
彼の言葉の真意は分からない。だけどここにいてはいけない事は分かる。私は彼の脇を慌てて通り抜け、みんなが待つゲートへと一目散に走り出した。
ゲート内で「ナイス牽制!」と称賛してくれる彼らの言葉が右から左へと流れていく。私の頭中に占めるのは、最後に見た獲物を前に舌舐めずりするような彼の表情だ。きっと彼に捕まってしまった、もう逃げる事は出来ないのだろう。恐ろしいその予感はおそらく事実へとなってしまう、そう感じるのだ。
*****
一体どうしたものか、私は考えあぐね溜息と共に眼下を見下ろした。私の視線の先には怯えからか身体を小さく震わす女がいる。そんな女はとりあえず無視をして、壁に突き刺さった手持ちのナイフに力を込め引き抜こうと……先程から試みているが、まるで無駄だと言うが如く少しも動く気配を見せない。いつもなら一振りで簡単に崩れ落ちる壁なのに、今日はどんな運命の悪戯か。
「あの、壁に閉じ込めるような動作って、女性がドキッとする動作なんですって」
「……何故それを言うんだ」
私のナイフとの格闘を知ってか知らずか、今まで無言を貫いていた女がポツリと呟いた。何をふざけた事を抜かすのかと思ったが、この状況を見て言っているのであれば大した度胸である。確かにこの女は私と壁に挟まれている格好となっている。だが全くもって意図が読めない。
先程まで怯えていたとは思えないような発言に、私の口から交わすつもりもなかった言葉が溢れる。女も女でよもや反応があるまいと思っていたのか、私の言葉に目をパチパチさせこちらをじっと見つめてきた。
「いえ……」
「はぁ……何だ? 君は今私にドキッとしたとでも?」
「違う意味でドキドキしてますよ」
女は私の問いに特段深い意味はなかったと、目を伏せ首を軽く振った。そんな女の行動が理解出来ない私の口からは、他のハンターに聞かれたら数日は笑いの種にされそうな馬鹿らしい台詞が飛び出した。其れ程までに女の言葉は図りかねないものであったのだ。
時間も労力も無駄にする意味を持たない行動は、実に不合理で必要のない事だろう? だからこそ、女の言葉に意味を見出したかったのかもしれない。女は私の質問に答え、ふいと視線を外してしまった。待て、視線を外すな。
「えっ、ちょ……」
「……」
違うと言った胸の高鳴りはやはり恐怖か? どんな表情をしている? 分からないのだ、それならば観察するしかない。俯いてしまった女の顔をどうにか見たくて、私は閉じ込めた腕はそのままに尻尾で女の顎を救い上げる。瞬間、女の身体がビクッと震え強張るのを感じだ。何だ、尻尾の冷たさにでも驚いたのか。
特に気にせず不躾な程ジロジロと観察していたが、段々と体温が上がり焦りの声を女が出し始めた事に気付く。またもやその変化の切っ掛けが分からぬ私は、必死に逃れようとするのを捕え私へと向けさせる。
「し、試合! 続けないと!! だから……それ、やめてください……」
逃れられぬと悟ったのか大人しくなった女を観察してどれくらい経ったのか、突如顔を上げ大きく叫ぶように声を出した。勢いよく話し出したものの、徐々に尻すぼみしていく語気に笑いそうになる。ジロジロと見られる事に不満を覚え訴えてみたが、私を見て尻込みしたのか。やめてくれと言われても、わざわざやめてやる筋合いはない。だが女が言う”それ”とは何を指している? やはり観察される事か、それとも……。
「ん、成る程な。もう今回の試合は私の負けでいいさ」
「どうして?」
体温の上昇は恐怖によるものと思っていたが、実際は至極単純。あり得ぬと選択肢から除外していた事……こいつは照れている。こんなバケモノのような見た目をした私に対して、恥じらう乙女のように頬を染めるとは!どれ程までにウブな娘なのだ。その結論へと至った瞬間、えも言われぬ達成感のようなものが心を満たす。
嗚呼、実に面白いじゃあないか。最初は確かに恐怖に支配されていたはずだが、切っ掛けを与えればこうも簡単に塗り替える事が出来るのか。もっと見せてくれないだろうか、人の気色の変わる瞬間を。一種の研究対象として興味を持った。自分自身でも口角が上がっているのが分かる。今の私は随分と悪い顔をしているのだろう。
「いいものを見させてもらったからな。他の奴らにはそんな顔見せるなよ」
「……!?」
私の負けでいいと言ったのは、最後の暗号機が解読された音が鳴り響いたから。それが一番の理由であったが、敢えて私はもう一つの理由を口に出した。頭に叩き込め、君はもう私の研究対象だ。
どんな要因でどのように変化するのか、私はそれが知りたい。他の奴らに今の表情のまま会ったらどうなると思う? きっと指摘され、いや何かされるかもしれないが……こいつはそれに対して私が知らない表情をするのだろう。それは駄目だ。私は全てを把握しておきたいし、単純に面白くない。だからこそ、釘を刺しておいたのだ。顔を真っ赤に走り去っていった女を見つめながら、ようやく壁から抜けたナイフを私はくるりと回した。