葡萄酒に溶ける

目が覚めると廊下に立っていた。確かにベッドで寝ていた筈なのに、もしや気が衰弱し睡眠時遊行症にでもなってしまったのだろうか。早く自室へ戻らなければ、そう思い周りを見た私は気がつく。ここは一体何処だ。記憶にない造りの廊下、そして何処にも見当たらない扉。不安が心に影を落とした瞬間、喧騒が耳に届いた。声のする方へ顔を向けると、仄かに光が漏れる扉があった。
どう考えても怪しい。しかし、何処にも進めない私は仕方なく、光の方へ足を進める。扉の前まで辿り着くと、先程までの喧騒が嘘のように静まっている事に気がついた。引き返そうかと思ったが、きっとここ以外進める場所はないだろう。私は恐る恐る目の前の扉へ手をかけ、ゆっくりと開く。
扉を開けた途端、頬を撫でる薄らと湿った風……そして鼻腔をくすぐる甘い香りが漂ってきた。一瞬だけ眩しさに眩んだ目を開くと、温かな湯気が揺らめく豪華な食事が並んだ机があった。そしてそこに座っていたのは、古きローマの時代の人々が身につけていたような緩やかな衣を纏った男性だった。見知らぬ男性の食事を邪魔したと思い、足を半歩下げた時、目の前の人物が自分がよく見知った者に似ている事に気がつく。

「ルキノ、さん……?」

同じサバイバーで、適度に交流を深めていた教授。確かにその人に似ていた。私の声にその男性は顔をこちらに向ける。無言でこちらを見る彼の口元は薄らと弧を描いていたが、嫌らしい笑みではなくまるで絵画を見ているようだった。

「あの、」
「嗚呼、ナマエがそう望むのであれば…私は『ルキノ』だ」

何も言わない彼に再び声をかけると、一度頷くとゆっくり口を開いた。耳触りの良い声で答えた彼は、思った通りルキノさんだったらしい。しかし、彼の返答にえも言われぬ違和感を覚える。彼の言葉だと、まるで自分がルキノではないように聞こえてしまう。

「そんな所で立ったまま……君は此処が何処か分からないのか?」
「すみません…」

私が立ち尽くして動かない事に痺れを切らしたのか、ルキノさんは鋭い口調で話す。いつものルキノさんからは考えられない話し振りに、思わず眉間に皺が寄る。今日の彼は一体どうしたのだろうか。再び思考の海に沈みそうになる意識を頭を振って覚醒させる。普段ならそれくらいで起こらないと思うが、今のルキノさんはいつもと少し違う。またとやかく言われると嫌なので、室内の様子を見渡し答えた。

「ダイニング?」
「そうだ、此処はトリクリニウム。さあ、座って」

トリクリニウムだなんて。わざわざ古きローマの名称で呼ばなくても。ルキノさんに抱いていた違和感は、ただ彼が研究か何かの一環で古ローマ人になり切っている…そう思うとおかしな事ではない気がする。学者さまの考えは凡人には分からないことかもしれない。
一つの疑問はなくなったが、今私がいる場所が一体何処かという問題は依然としてあるままだ。仮にルキノさんが研究か何かで、普段と異なる格好でダイニングにいるのはいい。だけど先程の廊下は?何故この部屋へと通じる扉しかなかったのだろうか。

「ここは一体何処なんでしょうか?」
「先程伝えた筈だ」

ルキノさんは抑揚のない声で答える。彼は長い爪でテーブルをコツコツと叩き、ただこちらを見つめている。

「いえ、この部屋の事ではなくて…この屋敷のことです。知らない場所だったので……」
「此処が何処かなんて、些細な事だろう?」

笑みを浮かべているはずなのに、目が…笑っていない。逸らしてしまいそうになるのをグッと堪え、目を見つめ返す。

「失礼します」

暫くそのまま立っていたが、ルキノさんの有無を言わせぬ視線に根負けし、私は席に着いた。席に着いた時、先程までの場の緊張感がふっと溶ける。ルキノさんの雰囲気も幾分和らいだように感じた。

「好きな物を」

ルキノさんが手を広げると、豪華絢爛な食事の数々がテーブルの上から宙へ浮き、私の前へ並ぶ。その時私は理解した。これは夢なのだと。それならば今まで起こった事も全て説明がつく。
目の前を漂う食事を目で追っていると、ルキノさんが何処からかワインを取り出していた事に気がついた。私の視線に気がついたルキノさんは、手にしたワインを軽く掲げ、黄金に輝くグラスに注ぎ込む。そして私に一つのグラスを差し出した。

「葡萄酒はお好きかね?」
「ええ、まあ…」

夢と分かっていても、いつもと違う様子のルキノさんに戸惑いを隠せない。目を細めて笑う様子に、何故か心臓を掴まれたような気分になる。彼はこんな笑い方はしなかった。こんな獲物を見定めるような…。
私がワインを受け取ったまま飲まない事を、毒を心配してと勘違いしたらしいルキノさんは溜息を一つ、そのまま自身のグラスに口付けた。その瞬間、視界に少しノイズが走る。少しばかりの疑問を抱いた私に、彼は顎をしゃくった。自分も飲んだから飲めと言う事のようだ。

「私に一人で飲ませるつもりかな?」

確かに出してもらったワインに口を付けないのは失礼だ。それに夢の中でここまで用心する意味はあるのだろうか。意を決して恐る恐る口付けた私を、飲み終わったらしいルキノさんはじっと見つめていた。そんなに見なくてもいいのに。それか私の夢だから、私がルキノさんの事を意識しているのだろうか?なんて恥ずかしい夢……そんな事を考えながら飲んでいたが、ワインの味が素晴らしい事に気がつく。
一口飲めば、芳醇でコクがある香りが鼻腔を抜ける。そして厚みがあり、ねっとりとした甘味が心に染み込んでいくようだ。つまり、とても美味しい。

「おいしい」
「ふふ、そうだろう」

溢れた私の言葉に、ルキノさんはクスクスと笑った。その彼の様子に警戒していたのが馬鹿らしくなった私は、一口、また一口とワインを飲む。身体中が熱くなり、ふわふわと浮ついた高揚感が頭を支配していく。美味しい、もっと欲しい。
空になったグラスに、ルキノさんが再びワインを注ぐ。これは夢だから、好きなだけ飲んでいいと自分に言い聞かせる。目の前のルキノさんも楽しそうにこちらを見ている。ふと、ルキノさんが何かを呟いたように見えた。

「えっ、あ……」
「抗わなくていい」

身体に力が入らない。グラスが手から離れ、床へと落ちる。転がるグラスを目で追い、溢れてしまったワインを勿体ないと……? 動かなくなっていく身体よりも、溢れたワインの事を気にするだなんて。霞がかった頭は思考する事を放棄しようとする。ぼんやりと転がったグラスを見つめる事しか出来ない。
ふいにルキノさんが立ち上がった気配を感じる。そして、コツコツと床を叩く音が聞こえ、気配が隣で止まった。

「与えられる享楽を受け入れたら、何も考えなくて良くなる」

自力で椅子に座っていれない。弛緩していく身体が、椅子から滑り落ちる。床へと倒れる前に、ルキノさんに掬い上げられた。ルキノさんは私を椅子へと戻すわけでもなく、そのまま私を後ろから腕の中へと閉じ込める。言う事を聞かない身体で、どうにか顔を彼へと向けた。そして私の口から漏れたルキノさんへの批難の声は、まるで消える寸前の蝋燭のようにか細いものだった。

「…ど、して……?」
「いいじゃないか、時間は沢山ある。ナマエが望むモノは何でも与えよう」

ルキノさんは器用にも片手で私の身体を支えるように抱き、空いている手で私の顎を掴みクイと自身へと引っ張った。顎を彼に引かれる事で、喉がさらけ出されてしまう。動物としての本能か、急所である喉元が無防備になっている事に血の気が引いていくのを感じる。
自由の利かない身体を必死に捩り、ルキノさんからの拘束から抜け出そうともがく。しかし、それは無駄な足掻きだった。ルキノさんは手を下へ滑らせ、私の首をツ…と指の腹で撫でる。そんな彼の行動を、私はただ受け入れるしかない。早く、夢から醒めてほしい。

「はは! ナマエの欲望を見せてくれ! 私は君が束縛から解放された姿が見たいのだから」

私を覗き込んだルキノさんの目は獲物を前にしたような鋭さがあった。私の口から声にならない音が漏れる。それを見た彼は舌舐めずりをし、にんまりと笑った。そして、妖しく輝く青い光を最後に、私の意識は闇へと落ちていった。




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本来は古代ローマではなく、ギリシアが舞台だと思います
古代ギリシアの食堂の名称が分かり次第、訂正させていただきます