一度気になると、どうやらずっと意識してしまうらしい。そのキッカケは些細な事だった。
「ごめん、忘れ物した!」
先程までデミ達と談話室で試合や生活、果てには恋愛のことまで…随分と話が盛り上がった。まあ、恋なんてこんな場所じゃするはずもないのだけれど。しかし、話に夢中になって忘れ物をするなんて。それも時間があれば書こうと思っていた日記帳を! 誰かに見られたら堪ったもんじゃないと、私は大急ぎで談話室へと踵を返す。
ようやく着いた談話室の扉に手を掛け、開こうとした瞬間、思っていたより軽い感触。私が手を掛けて扉を押そうとしたのと同タイミングで、向こうへ引かれたようだ。転ぶ! 思わず目を瞑り、衝撃に備える。
「っあ!!」
「おっと」
重力に引かれるように倒れると思ったが、地面とキスをする事はなかった。少し硬くてそして心地の良い温かさ…しばらくその体勢のまま止まっていたが、自身の背中に手が回されている感触にハッとする。これって誰かに受け止めてもらっているんじゃ…。
「大丈夫かね?」
「っ! だ、大丈夫です!」
受け止めてもらっているのではない。完全に抱き締められている。そう気がついた時、目の前の相手から声を掛けられ慌てて返事をする。私を受け止めてくれたのは、教授…ルキノさんだった。心地の良い温かさなんて、なんて事を考えてしまったのだろう。相手は親切心から受け止めてくれたのに、男の人に抱き締められているという事にドキドキしてしまう。
「すみません、今離れ…痛っ!」
「どうした。……ああ、髪が」
「私の髪、引っ張って切っちゃってください」
ずっとルキノさんに引っ付いたままでは、はしたない女だと思われてしまう。彼の胸元を見ないように視線を逸らしつつ、身を引こうとした時、頭に痛みが走る。どうやらルキノさんのシャツのボタンに髪が絡まってしまったみたいだ。無理に引っ張るとかなり痛そうなので、どうしようか悩んだけれど、髪が解けない限りルキノさんから離れられない。人の髪を触らすなんて申し訳ないの思いつつ、私は彼にお願いする。
「いや、私のボタンを切ればいい」
「そんな! 髪で平気…」
「もう取ってしまった。髪は大丈夫だと思うが……痛くないか?」
「ぅ…痛くないです…。その、ありがとうございます」
ルキノさんは私の髪ではなく、ボタンを取ってくれた。あまりにスマートな行動で、私が口を挟む暇もなかった。私の髪はルキノさんのボタンから解放された訳だが、依然として私自身は彼の腕の中だ。どうして彼は私を離さないのだろうか? ルキノさんの考えを知りたくて、チラッと様子見た。すると、今まで見た事のない柔らかな色を眼に宿していた。まるで私の事を、慈しむみたいな。
ルキノさんが私の髪を触る。手も思っていたよりゴツくて、男の人だ。ルキノさんの手が私の髪を滑る度、身体が震えそうになるのを必死で抑える。彼は私の髪が切れていないか確認してくれているだけなのに、やっぱり意識してしまう。
「此方こそすまない。緊急とはいえ怖かっただろう」
「怖い? ルキノさんに受け止めてもらったので大丈夫ですよ」
「気を遣わなくていい。それじゃあ私は行かせてもらうよ」
「ありがとうございました、ルキノさん」
確認が終わったらしいルキノさんは、手を離しスッと身を引いた。その後、自身の手に一瞬視線を落とし、軽く拳を握る。随分と私の身を気にかけてくれる彼に少しの疑問を抱きながらも、感謝を口にする。私の言葉を聞いたルキノさんは、目を細めると何かに納得するように頷く。そして軽く手を上げて、ルキノさんは談話室を出て行った。
ドアが閉まり、足音が離れていくのを確認した瞬間、身体の力がフッと抜けた。そのままふらふらとソファへ歩いていき、身を預けた。机の上には日記帳がちゃんとあったが、正直それよりも大切な事がある。身体をソファに沈めながら、先程の出来事を思い出す。ルキノさん…男の人、だったなあ…なんて。ああ、顔が熱い。
しばらくそのまま脱力していた私の耳に、こちらへ向かってくる足音が入ってきた。もしかして戻ってきたのかと身構えたが、聞こえてきたのは軽やかな足音だった。これはルキノさんではない。
「あっ、まだここにいた!」
「デミ…」
私の予想通り、ドアを開けたのは彼ではなかった。入ってきたのはデミ。きっと優しい彼女の事だ、忘れ物を取りに戻った私の事を待っていてくれたに違いない。それでなかなか戻らない私を心配して、談話室まで来てくれたのだろう。
私を見つけた瞬間パッと顔色を明るくしたデミは、こちらへと歩いてくる。そして、私の顔を覗き込み、怪訝そうな表情を浮かべた。
「どうしたの、ナマエ。まるで酔ったみたいに真っ赤じゃないの?」
「恋、しちゃったかも」
それから、ルキノさんのことがまともに見れない。今まで何とも思っていなかったのに、何処にいても彼のことが目に飛び込んでくる。それでいて、彼と話すことがあれば挙動不審になってしまう。
ルキノさんの思ったよりがっしりとした胸板の感触や手の大きさを思い出してしまって、恥ずかしくて一緒に居られない。ルキノさんは何も悪くないのに、彼を避けているような形になっている。このままじゃ駄目だ。ルキノさんも私の想いに薄々気がついているかもしれない。どうすればいいんだろう、私はため息と共に自問した。
***
そして現在、あの日と同じようにドアを開けるとルキノさんがいた。談話室には他に誰もいなくて二人きりだ。そう分かると緊張で、視線が不自然に泳いでしまう。ルキノさんは私が入ってきた事に気がつき、僅かに目を見開く。
「そんなに警戒しないでくれ。すぐに出ていくさ」
「えっ、警戒…?」
ソファに座っていたルキノさんは、私がその場で硬直してしまったのを見て、目を伏せて立ち上がりそう述べた。私は彼が言った警戒の意味が分からず、思わず聞き返す。
「警戒しているからといって、別に怒らないさ。私が怖いのだろう?」
「誰がルキノさんのことを怖がっているんですか?」
ルキノさんは首の後ろを擦りながら、淡々と私に告げる。私はルキノさんと二人きりという事、そして彼の眼差しに若干のきまり悪さを感じてしまう。ただ、それを表に出してしまうなんてあまりに失礼な事は出来ない。いくら気まずさを感じていようとも、それは私自身の問題なのだから。
そして、ルキノさんが尋ねた事柄は、一体誰が言っている事なのだろう。あれ程まで優しくて真面目な彼を、そう評する者がいるなんて到底思えず、私は疑問を口にした。
「惚けなくてもいい。ナマエ、君が私を、だ」
「怖くないです!!」
「だから、責めたりなどしないと」
「ルキノさん、何か勘違いしてますよ!」
私の問いにルキノさんは僅かに険しい表情をし、やんわりと首を横に振る。そして、ゆっくりと息を吐き出し一言。彼の言葉に私は衝撃を覚えた。どういう経緯が分からないが、ルキノさんは思い違いをしている。慌てて否定した言葉も、ルキノさんには恐れを隠すために伝えたのだと、そう捉えられてしまった。どうしよう! 焦る私を見たルキノさんは、一歩足を下げた。
「勘違いの訳あるものか。あの日から私を避けているじゃないか」
「! そ、それは…」
「やはり、な。私の爪があまりにも凶悪で驚いたか? 髪を触った時、君の身体が強張ったから」
ルキノさんの言う“あの日”が、つまり転びそうになり受け止めてもらった日ならば……やっぱりとんでもない勘違いだ。ただ、その誤解を解くという事は、つまり私の恥ずかしい心の中を伝えなければいけない。話すべきなのは分かっているが、あまりに恥ずかしく声にならない。何も話さない私に、ルキノさんはやはりなと呟き目を逸らした。
「気にしない。それじゃあ」
「待って! 本当に勘違いなんです!」
「では、何故?」
「あの時、私はルキノさんに…」
「私に?」
目が泳ぐ。緊張から過剰に出てくる唾を飲み込む。腕を組み私の言葉を待つルキノさんの視線から、どうしても逃れたくなってしまうのを何とか抑え込んだ。意を決して、震えそうになる身体を叱咤し、私はようやく白状した。
「その、ルキノさんの手が…お、男の人だなあって」
「は」
「ただ! 私がルキノさんにドキドキして、意識していただけです!! 怖くなんてありません!!」
言った。私の恥ずかしい想いも伝えた。これで嫌われてしまったら悲しいが、ルキノさんの事を恐れているのだと思われているよりマシだ。
何も言葉を発さなくなったルキノさんが、私に手を伸ばす。あの日のように、ルキノさんは私の髪にするりと指を通した。やはり緊張で身体が強張る。でも、怖さからじゃない。それを知ってもらうためにも、ルキノさんの目をしっかりと見つめる。
「ふふ、ははははは!」
暫くの沈黙の後、ルキノさんは突如笑い声を上げた。今まで聞いた事のない声色に、先程とは異なる理由で身体が跳ねた。ひとしきり笑ったルキノさんは、私の髪から手をするりと放す。
「どうしました?」
「いや、気にしないでくれ。……ナマエ、君は私に照れていた、そうだね?」
「は、はい!」
声色からして、ルキノさんに嫌われたようではないみたいだが、彼の本心がどこにあるのか分からず、おずおずと問い掛ける。私の声に反応したルキノさんの雰囲気は、落ち着きを示す柔らかなものに変わっていた。状況が把握出来ない私と比べて、ルキノさんは何かに納得したかのように頷いている。そして、私の言葉が嘘でないのか確認するかのように、しっかりした口調で聞きただした。
「つまり、私は自分の思い込みで悩んでいたという事だ」
「はい?」
「く、はは、悩んで損をした!」
一人で話を進めるルキノさんに、私は目を白黒させる事しか出来ない。片手で顔を覆い隠すように笑う彼を、私は口を開けて見ていた。人は理解出来ない事が起きると、考える事を放棄するのかもしれない。笑っている姿も素敵だとぼんやりと思っていたが、このままでは今どのような状況なのか分からないままだ。
「えっと、つまり?」
「気になる女性が、私の事を嫌っていた…そんな事はなかったという訳さ」
「気に、なる」
「君の気持ちも分かった事だ。今からは私も好きにやらせてもらう」
この場の状況を理解するための問いは、私を余計に混乱させるだけだった。今ルキノさんは、気になる女性と言った? 誰の事だろうなんてとぼける程、私は初心ではない。この状況で、その女性が誰を指しているなんて明白な事だった。それを理解すると同時に、心臓の鼓動が早まり、熱が身体を巡っていく。ルキノさんはフッと笑うと、ゆっくりと口を開いた。
「さあ、手を貸して」
「手を? ……どうぞ」
彼の思惑を理解出来ないまま、私は言われた通りに手を差し出した。ルキノさんはその手を恭しく取る。ルキノさんの手の感触に心臓が跳ねたが、流れるように救い上げられた手を振り払う事など出来ない。そして彼は私の目を見つめたまま、手の甲へ口を寄せた。
「これくらいで驚いていたら、君の心臓はすぐに止まってしまうぞ」
そう告げるとルキノさんは目を細め、いたずらっぽく笑う。何が起きたのか分からず、固まる私にルキノさんはグイッと顔を近づけた。彼の目の奥に燃えるような光が宿っているように思える。私は思わず目をぎゅっと閉じた。ルキノさんの息が側で感じられる。私の激しく鳴る鼓動も彼に聞こえているのかもしれない。
「私を悩ませた罰だ。君を覚悟しておくように」
耳元でルキノさんの声が聞こえて、そして気配が離れていくのが分かる。目を開けると、随分と愉しそうに笑うルキノさんが見えた。私は囁かれた方の耳を抑えながら、震える声で「はい」と返事をする事しか出来なかった。もう既にルキノさんに落ちている私は、これ以上何を覚悟すればいいのだろうか。満足気に頷く彼を見て、これ以上の覚悟を想像し熱くなる頬を抑えた。