緩やかに解ける

随分と遅くなってしまった。帰ろうとしたところに仕事を振られてしまい週明けにすると伝えたにも関わらず、むしろそれを理由に対応を強く押されてしまった。彼女には遅くなる事と夕食はいらないという事を伝えたが、いくらなんでも遅すぎる。針が12時を過ぎそうな時間に自然と溜息が溢れる。さっさと帰って寝たい、と文句を垂れながら家路を急いだ。
きっと寝ているであろう彼女を起こさぬようにそっと家へ入る。シャワーだけサッと浴びて寝ようと考えながら、リビングのドアを開けた。電気が点いている事が気になっていたが、その原因はすぐに分かった。ソファの上に影が一つ、膝を抱えて座っている彼女だ。

「……ナマエさん?」
「…う、ん? あ、アオキさん……おかえりなさい」
「ただいま帰りました。こんな所でどうしたんです、風邪を引きますよ」

声を掛けると頭を揺らしながら彼女は顔を上げた。ぼんやりとした様子に先程まで此処で寝ていたか、もしくは舟を漕いでいた事が見て取れる。ブランケットを掛けてはいるが冷えていないか心配だ。眠り眼を擦りながら意識を覚醒させようとする彼女にそう伝えると、気の抜けた柔らかな表情ではにかんだ。

「ええと、夕飯もいらないって連絡してくれたって事は寝ていいって事なのは分かってたんですけど……私がアオキさんを待ちたくて」
「っ! あ…その、ありがとうございます」

あんまり可愛らしい事を言わんでください、思わずそう言いそうになって何とか抑える。普段そういった言葉をあまり伝えてこなかった弊害だろうか、言いたい言葉を素直に伝えられない。彼女のいじらしい思いに胸の内が暖かくなって、自分も彼女のように素直になれれば…と独り言ちる。思考はそこそこに目の前の彼女に意識を戻した。自分の帰りを待っていてくれたのは非常に嬉しいが……。

「ですが貴女に風邪を引かれるのは嫌なので、今後は大丈夫ですよ」
「子供じゃないから自己管理くらい出来ますよ! でもありがとう、アオキさん」
「風呂入ってくるんで、先に寝といてください」
「え! 待ってますよ」
「そうは言っても風呂入ってから大分時間経っているでしょう?」

自分を待つと言った彼女だったが、しばらく考える素振りを見せた。もうすでに日も変わっているし、いつもの彼女の事を考えると身体も冷えてきているだろう。自分のために待っていて、それで彼女が体調を崩してしまうのはいただけない。動く気配のない彼女に一つ咳払いし、再び寝床へ行くように伝えようとした時だった。

「それなら、もう風呂入らずに寝ちゃいません?」
「えっ」

パッと顔を上げた彼女が名案だと言わんばかりの笑顔でそう告げる。彼女が待つ待たないといった話だったはずなのに、いつの間にか自分の風呂の話になっている。話の飛躍に着いて行けずに目を白黒させる自分に、彼女は不思議そうに首を傾げた。その仕草をしたいのは自分の方ですよという言葉をぐっと飲み込む。

「明日休みですよね? 今日くらい別にいいじゃないですか。それにアオキさんとっても疲れた顔してますし」
「明日は休みですが……汚いですよ」
「シーツなら洗うので大丈夫!」
「シーツではなく、あの、一緒に寝るんですよね? ナマエさん嫌じゃないんですか」

自分で言っておいて、もしここで嫌ですと言われたら落ち込むだろうと思う。しばらく彼女の近くに寄るのも躊躇するし、嫌な休日出勤にも喜んで出るかもしれない。随分と面倒な男だと心の中で自嘲し、彼女の答えを待った。

「嫌……? え、どうして」
「一日働いてきた男の汚れや臭い…ですよ」
「アオキさんが頑張ってきた証拠でしょう。それに好きな人の匂いって良い香りなんですよ」

あっけらかんと言う彼女に念押しして確認してしまう。そんな自分の声にも彼女は考え直す様子もなく、頑張った証などと口にする。その言葉がどれほど自分を喜ばせるか彼女は気付いていないだろう。それに好きだから良い香りとは、とんだ誘い文句だ。ドクドクと激しく鳴り始める己の鼓動が耳につく。相性の良い人の体臭は良い香りに思える、なんて文言が頭をよぎってしまう始末だ。

「……貴女には負けました」

仕方ないから諦めたように聞こえただろうか。それならそれでいい。彼女に認められた、求められたと煩い声を無視して、二人で寝室へ向かった。

「何だか悪い事をしている気分です」
「気にしなくてもいいのに」

寝巻に腕を通しながらぼやく自分に、彼女はくすくすと笑う。そうは言ってもやはり一人で寝るのなら兎も角、彼女と寝床を共にするのにシャワーすら浴びないのは如何なものかと思ってしまう自分がいる。しかし、ここまで来たのなら彼女の厚意に甘えさせてもらうしかない。電気を消してすでに布団に潜った彼女の横へ身体を滑り込ませた。

「本当に大丈夫でしょうか」
「全然大丈夫です!」

身体が温かな感触に包まれる。身体が変に跳ねてしまう。顔だけゆっくりと横に動かすと、すぐ傍に彼女の小さな頭があった。いつもはこんな距離ではないのにどうしてこんな日にという感情と、良い匂いがする抱き締めたいという思春期さながらの感情が頭の中を駆け巡った。

「ナマエさん……」
「どうしちゃったのですか。緊張? 大丈夫だから力を抜いて…ゆっくり休んでください」

情けない自分の声に彼女は笑う事なく緩やかな手付きで頭を撫でる。汚いからと止める気持ちすら湧かず、彼女にされるがままだ。優しげな手付きに身体の強張りが解けていく。

「ありがとうございます……」
「アオキさん…おやすみなさい」
「ええ…おやすみなさい」

目を閉じた彼女の額に一つ口付けを落とし、自分も目を閉じた。今日は良い夢が見れる気がする。