朝から大変痛ましいことです
「えー、今日から君達は中学生になるわけですが――」
転ばなかった。私が。走って転ばない、なんて。大きな衝撃だった。それから、助けてくれた――あの人のことも。
掴まれた腕をぼんやりと見つめ、担任になる先生の話を耳に入れることもなく、1時間前の出来事を繰り返し思い返す。びっくりするくらいの早さで現れた男の子。掴まれた腕。目があった時の不思議な感覚。全部、初めてだった。
それが昨日の話。
そして、翌日の朝。
昨日遅刻したことを考えて、今日は早めに家を出ることにした。ちなみに我が家のお弁当も朝ご飯も全て、「ついでだから」と兄さんが作ってくれている。
台所に立つ兄さんに挨拶して食卓につけば、既にトーストとサラダ、牛乳が用意されていた。自分も部活の朝練があるだろうに。
「弁当はそこに置いておく。今日は遅れないようにな」
「うん」
兄を見送り、トーストをかじる。友達が私の兄の話を聞いて羨ましがる気持ちもわかる。だいたいのことは人並み以上にできる兄は、私にとっても自慢だ。
友達は、今くらいの年齢の兄妹は仲良くないのが普通だと言ったけど、言い争いがあっても喧嘩になることはほとんどないし、私も兄の助けになれることがあれば出来る限りのことをしている。要するに、普通に兄が好きだった。兄もそうだと思う。(別にブラコン、シスコンってわけじゃない。あくまで普通にだ。)
そんな兄が、昨日から落ち込んだ表情のままでいて。珍しいことだから少し心配だか、私なんかが考えて解決するものではない。とりあえずその心配は頭の隅に置いて、使った食器を片付けた。
側に置いておいた鞄を肩に掛け、玄関で靴を履いた。この時点でケータイの時計は七時半、余裕で間に合う。昨日は残念なことに、ケータイでなく部屋の掛け時計を見ていたために遅刻した。寿命だったらしく、昨日、朝の八時十六分で止まってしまったのだ。まあ、それに気付かず本を読んでいた私自身が一番の原因ではあるが。
家から歩くこと十五分、河川敷の近くまでやってきた。近所のおじさん曰わく、ここはかの有名な円堂守率いる雷門サッカー部がよく練習していた場所らしい。
犬の散歩をしてる男の子、ランニング中のおばさん、私と同じように、少し早めな通学途中の人もちらほら。当たり前だけど、その中に昨日の男の子はいなかった。
目つきの鋭い男の子。
昨日のあの瞬間のことは、まだまだ記憶に新しい。まるで焼き付けられたみたいにはっきり思い出せる。少ししかめたような表情、僅かに細められた目を見た時の、なんだかよくわからない、感覚。あれは――というか、あの人のことを考え始めた途端に感じるこれは、一体なんなのだろう。
河川敷を通り過ぎてから約十分。学校の入り口に到着。八時少し前だった。下駄箱に向かう途中、昨日の場所が目に入った。あの人は助けてくれた後、確か今私が立ってる方…要するに、一年生の下駄箱がある方に歩いて行ったような。けれど昨日のあの時間、新入生は皆体育館にいたと先生も言っていた。ならやっぱり先輩だろうか。
新しく浮かんできた疑問に頭を悩ませつつ、靴を履き替え、上履きを履き、一歩を踏み出そうとした――のだが。
自分のことなのに、すっかり忘れていた。確かに走れば必ず転ぶが、だからって走らなければ転ばないわけでもなく、自分が常人よりも遥かに鈍臭いことを。そんな自分がぼんやりしながら靴を履き替えて、無事なはずがない。
あろうことか自分で自分の足に足を引っ掛けた。
「…お前、昨日も転んでなかったか」
「――え」
――この声は。
綺麗にすっころんだ私の視線の先。
規定ではない制服の裾。今まさに履き替え途中らしい上履き。ここ、一年の下駄箱。
「本当に鈍臭えヤツ」
昨日と変わらないしかめ面と鋭い目。
どうやら、彼は同じ学年だったようだ。