不謹慎にも高鳴る胸は、砂糖がたっぷり入ったホットココアのようにほのあたたかく甘い水位で満たされていた。今日の任務に同行してくれるのが夏油くんだからだ。
 一級への推薦を受けることが出来た私は、準一級へと昇格するために任務をこなしている真っ最中である。いつもは一級術師が付き添ってくれるのだが、生憎と誰も手が空いておらず、たまたま任務のなかった夏油くんが、申し出てくれたのだった。
 一級よりもさらに上の特級に位置している彼と、こうして任務にあたることが出来るのはとても珍しいことだ。彼とこうして一緒の任務に就ける日が、こんなに早く来るとは思ってもみなかった。
 だから、この任務が決まってからの数日間、地に足が着いていないかのように、ずっと心が逸って仕方がない。
 走り出す前、スターターピストルが合図を告げるのを今か今かと待っているみたいに。

 いつもより一時間早く起きた私は、櫛とヘアゴムも両手に持ちながら、絶賛鏡とにらめっこ状態である。器用ではないと思っていたが、それほど不器用だとも思っていなくて、上手く出来ない自分にがっかりしてしまった。何度やり直しをしたことだろうか。ぶっつけ本番はよくない。
 時計に目をやると、もうそろそろ待ち合わせの時間が迫っていた。待たせるわけにはいかないため、早く起きた努力も虚しく、私は意気消沈しながら、寮の共有スペースへと足を向けたのだった。

「おはよう、夏油くん!」
「おはよう……って髪、どうしたんだい?」
「あ、えと、これは……その」

 約束の時間まであと十分はあったけれど、そこにはすでに、脚を組みながら、ソファにゆったりと体を沈めている彼の姿があった。
 指摘された髪を慌てて直す。部屋を出る前に櫛くらい通してくるべきだったと、手櫛で大雑把に直していると、夏油くんが組んでいた脚をといて、私の方へ近付いてきた。

「まさか寝起き、じゃないよね?」
「違うよ!」
「……」
「うっ、髪の毛が上手く出来なくて……夏油くんみたいにお団子にしたかったの……」

 寝起きで髪も整えない、だらしのない女だと思われたくなかったのと、彼の無言の圧力に耐えかねた私は、蚊の鳴くような声で白状した。
 お揃いにしたかった、本当はそう言ってしまいたかったが、あまりにも好意が露骨すぎるだろうかと、躊躇したのだ。結果、言い方が違うだけであまり変わらなかったけれど。
 私の情けない声量の白状に、夏油くんからの反応がない。目を見て話す勇気が出ず、彼の制服の胸元に固定していた視線を、ゆっくり上げる。
 いつも凪いでいて形の変わらない、常に状況を吟味しているかのような細い目が驚いたように見開かれ、次いでどこかよそよそしさを含んでから視線が横に逸らされた。
 咳払いでもするみたいに作られた握りこぶしが、口元に宛てがわれている。
 こんなことを言われて、気持ちが悪かったのかもしれない、と思った私は慌てて口を開いた。

「い、いきなり変なこと言ってごめんね!!」

 忘れて、と言おうとしたのに、出来なかったのは、拳で隠されていた口元が、微笑によって彩られていたからだ。
 くす、と笑みをこぼした夏油くんに私はしばし呆気に取られてしまう。
 気分を害したわけではないらしい彼は、よそよそしい視線を仕舞って、親しみと好奇のこもった眼差しを私へと寄越しながら、なんとも甘美な提案をしてきたのだった。

「私がやってあげようか」

 今度は私が思いきり目を見開く番だった。彼の手を煩わせてしまうという申し訳なさと、彼に髪を結ってもらえるという夢のような状況を天秤にかける。
 答えは天秤にかけずとも端から分かっていたようなものだけれど、一応は建前として感情がせめぎ合った。

「おねがい、します……」

 もう一度出した蚊の鳴くような声には、嬉しさと気恥ずかさが存分に含まれていて、今にも溢れて滴り落ちてしまいそうだ。
 夏油くんは、なんなくそれを拾い上げて、おいで、と手招きする。私は彼の誘導に素直に従い、先程彼が身を沈めていたソファに腰を下ろした。
 まだ、ほのかに夏油くんのぬくみが残っている。まるで彼の膝の上にでも座っているかのような――そんな馬鹿げたことを思ってしまって、にやにやと緩みそうになる口元に力を込める。彼が後ろに立ってくれていて良かったと、このときばかりは視界にいないことに感謝した。

「あまり、上手くは出来ないかもしれないよ」
「夏油くんは、私より絶対上手だと思う」

 彼の大きな手が、私の髪を優しく梳いてくれるのがとても心地よい。誰かに髪を触られるという行為自体が快いものであるから、それが好きな人であれば尚更だ。
 時計の秒針の音がやけに大きく聞こえる。私と夏油くんの呼吸音、衣擦れの音、たまに私が身じろぎして沈むソファの鳴く音。普段は気にも留めない日常の音色に耳を澄ました。
 夏油くんの左手が私の髪を束ねて、右手で髪を整えていく。首のあたりの後れ毛を掬い取るとき、掠める指先のくすぐったさに肩が跳ねないよう、必死で気を張った。
 髪に触れられたのは、これで二度目だ。髪の間に差し込まれる指先はいたわるように、なめらかに滑り落ちて私の心のみなもを揺らす。
 目を閉じながら、気を紛らわせる意味も含めて、私は夏油くんと初めてあった日のことを思い出していた。



 三人よりも二週間ほど遅れて、私は呪術高専へと入学した。その際、迎えに来てくれたのが、夏油くんと五条くんだった。

「何やってんだよ、お前」
「こら、悟」

 遅咲きの桜が風に舞い、視界が桜色で染められてゆく。花弁が地面に落ちる前に捕まえると願いが叶う――根拠の無い迷信を実行していた私へと、五条くんはとても面倒くさそうな表情で、至極当然の問いを口にした。
 初対面にしてはあまりにも粗野な言葉だったけれど、待ち合わせ場所から少し離れた桜並木で夢中になっていた私に、非難する資格はない。それに対して私が申し訳なさそうな態度で返していると、夏油くんが五条くんを窘めてくれる。

「いいじゃないか、こうして季節と戯れるのも一興だ。そうだろう?」
「は、はい!」
「私は夏油傑」
「あ、えっと私は、ミョウジナマエ――」

 春一番とも言える、一際強い風が私たちと桜の木に体当たりしてきて、花弁がザアッという唸りと共に舞い上がる。先程の比ではない、視界が一瞬にして桜色に埋め尽くされていく。
 反射で閉じてしまった目を恐る恐る開けると、夏油くんも同じタイミングで目を開けたところだった。
 私の名前はきちんと彼の耳に届いただろうか。

「君、頭がすごいことになってるよ」
「え?」
「少しじっとしててくれるかい」

 微苦笑を浮かべながら、夏油くんが目の前まで来て、私の髪を軽く直しながら、何かを取るような動作をしている。
 こちらが慌てる隙も、照れる素振りを見せる間もない、軽やかな手つきで。
 乱暴な風たちは、まだ暴れ足りないとでも言うように、強弱をつけて暴れる前準備でもしているかのようだ。
 頭に付くとしたらなんだろう、と答えを探してみると、案外すぐに見つかった。ああ、もしかして。

「はい、取れた。願い事、たくさん叶うといいね」
「わあ……こんなに……あ、夏油くんも花弁付いてるよ」

 私の手のひらに乗せられた数枚の花弁。確か条件は地面に着く前に、だったはずだから、効力は失われていない。彼もまた、この根拠無しの迷信を知っているんだろう。
 信じていないけれど、頭ごなしに否定もしない、むしろ背中を押してさえくれるような、鷹揚さを持ち併せている。
 初対面の私の突飛な行動も、"季節と戯れる"だなんて表現で、たちどころに風物詩にしてくれる人。
 私が額に近いところを指差すと、彼も自分の頭に手を置いて、花弁の在処を即座に見つけた。

「夏油くんのお願い事も、叶うといいね」
「願い、か。そうだな、考えておくよ」

 お揃いだね、とお互いに笑い合う。これからよろしく、ナマエ。桜の花弁がハラハラと舞う、まるで一枚の絵画の中にでもいるような世界で、風に攫われることなく届いていた自分の名前を呼ばれる。私は生まれて初めて一目惚れというものをした。
 一人外野で、鬱陶しそうな表情をこちらに向けてくる五条くんにも挨拶をして、私は今度こそ高専へと向かったのだった。
 あの時の情景がまなうらに焼き付いて、今もずっと私の心の中にある。呪術師は死に際を選べない。後悔しないで死ぬこともほぼほぼ有り得ない。
 だからもし、下手を打って死ぬようなことがあったとしたら、最期に思い出すのは彼がいい。



 どれくらい目を閉じていたのか。あまりの心地良さに、私はどうやら、意識を夢の中に紛れ込ませてしまっていたらしい。早起きして眠さが取れていなかったのも一因だろう。

「よし出来た、……どうかな?」
「ありがとう!」

 伺うような夏油くんの声にお礼を言いながら、携帯を取り出しカメラを立ち上げインカメにして確認する。私の髪の毛は夏油くんと同じお団子になっていた。
 このままシャッター押したらツーショットなのになあ、とまた馬鹿げたことを恥ずかしげもなく考えてしまう。けれど、電源ボタンを押して画面を消そうとした私より早く、長い指がシャッターを押したので、思考も身体も思わず固まるしかなかった。

「お揃いの記念に」
「ま、待って! 今変な顔してた……!」
「そうかな? 私は可愛いと思うけど」

 さらり、と平気で褒め言葉を口にする。それと共に、さりげなく贈り物までもらった気分だ。写真を消させないための常套句であったとしても、心が弾むのを抑えることは難しかった。
 削除を押そうとした私の指をさりげなく掴んでいるのだが、心臓が爆発でもしてしまうんじゃないか、というくらい耳の内側で鼓動音がけたたましい。

「ねぇ、どうして私と同じ髪型にしたかったの?」

 突然、核心を着く彼の声が右耳のすぐ傍で聞こえて、吐息が耳たぶをじんわりと湿らせていく。相変わらず心臓は走り回って落ち着く気配など微塵もない。むしろどんどん加速しているようだ。
 どうしてって、そんなの……どう答えても言い繕っても、きっともう彼にはお見通しなのだろう。それでも、あえて聞いてくる辺りが夏油くんらしい、と思ってしまった。

「首元が涼しくて良さそう、だなって」
「それだけ?」
「動く時、髪が邪魔じゃないし、」
「それから?」
「それ、から……」

 湿った耳たぶがいよいよ熱を持つ。こっちを向いてナマエ、と丁寧に名前を呼ばれ、磁力にでも引き寄せられるように顔を向ければ、夏油くんの顔が目と鼻の先にあった。
 少しでも動けば、鼻先が触れてしまいそうな――当たり前のようにしている、酸素を吸い込むことも躊躇われる距離。自然、呼吸が浅くなる。

「好きな子が、自分と同じ髪型にしたいだなんて、それってさ」

 耳たぶを掠めていた吐息が、驚きで薄く開いている私の唇を舐める。"好きな人"という言葉が脳内に響き渡って反響した。それは、つまり、まさか。本質を理解して、信じられないと打ち消して、その先にある答えへと手を伸ばす。
 息をする度に、彼が喜色の滲んだ言葉を象る度に、互いの吐息が混じり合う。キスをしているわけではないのに、キスをしていると錯覚してしまう。

「期待してもいいってこと?」

 今は吟味ではなく、確信を持ったようにうっとりと目が細められている。瞳に灯される艶かしいぬるさが私の視線を絡め取って、逸らすことを禁じていた。

「期待しても、いいよ……」

 "好き"という単語以外にも、この気持ちを伝える術があるのだと、今このときほど思ったことはない。
 もう、恥ずかしいだとか、照れだとかそんなものを感じている余裕がないほどに、私は目の前のこの人のことでいっぱいいっぱいだった。高熱が出た時とは違う体温の上昇に、背中がじっとりと汗ばんでいる。
 私の言葉を聞き終えた瞬間、呼気が再び混じり合った。確かな形と、先程の提案と同じ甘美さを含んだ湿っぽい熱と共に。離れ難い柔らかさだと思った。
 桜の花弁に私が願ったこと。この殺伐とした世界で好きな人と両想いになれますように。一枚じゃきっと足りないから、全部に同じ想いを込めたのだ。

「あっ、髪……」
「男心ってやつも、中々に複雑なものでね」

 しゅるり、とリボンでもほどけるみたいに、纏められていた私の髪がはらりと落ちる。
 私は意外と図々しいのかもしれない。実力的にはまだまだ弱いくせに、死を恐れていないから。死にたくないと願う前に、自分の恋心を優先してしまったから。

「見せびらかしたい気持ちと、自分だけの特権にしたい気持ち、」

 夏油くんの瞳が艶めいて、私を試すように問いを落とした。

「今は、どっちだと思う?」

 元々勉強が得意な方ではないから、基本的に問われることは苦手だ。正解を導き出さなければと肩肘を張ってしまって、分かっていることでも結局、答えられないことがある。
 でも、今は。この問いは。どちらを選択したとしても、私にとっては日々を頑張っているご褒美のような、これからだって、どんな呪霊にも立ち向かっていけるよう奮い立たせてくれるような、嬉しさに満ちた言霊だ。
 私が彼のものなのだと、言外に告げている。

「ねえ、夏油くん」
「ん?」
「今度ふたりでどこか行きたい。その時にまた、髪の毛結んでくれる?」
「もちろん、喜んで」

 間接的に伝えた答えに、彼が気付かないわけがないのだ。
 ようやくスターターピストルの合図が鳴った気がした。この恋を手放したくない。失いたくない。そのためには、彼との実力差を少しでも埋めなければならない。彼を悲しませるようなことをしたくないから、私は強くなる。
 さあ行こうか、と声を掛けてくれる彼は、優しさはそのままに、同行者の表情に切り替わった。
 まずは今日の任務を無事に完遂させることだ。一級への道のりはそう甘くない。彼と一緒の嬉しさに足元を掬われてしまわぬよう、気を引き締める。

 今度、ふたりで出かけた時にでも、彼が花弁に託した願いを聞いてみようか。