見える傷は時間が経てばきれいに消えてしまうのに、見えない傷は時間をかけて化膿していく。まるで自我を持っているように。そうして化膿した傷は、夏油に本音を選ばせるに至った。
 今にして思えばそれは、蛹の状態だったのかもしれない。教祖という立場で猿の前に立つ自分は羽化した蝶なのではないか。これが本来の自分の姿だと。心のままに生きるというのは、不自由だけれど、選ぶのは本人の自由でもある。
 あの時、盤星教で放った「意味がない」という自分の言葉に、五条は「意味が必要か?」と問うた。殺すか?の問いに首を縦に降っていれば、大勢の猿どもは消えて手間が省けた筈だ。
 だからあの瞬間だけは、五条が正しかったと思わざるを得ない、と今でもときどき考えることがある。
 扉の向こうから微かに聞こえる、新しい家族たちの楽しげな談笑に、夏油は口元に笑みを乗せた。




 
 二〇〇七年八月。蝉のけたたましい命の叫びを聴きながら、夏油は暑さから少しでも逃れるようにして、木陰から蜃気楼のちらつく中庭を眺めていた。
 つぎはぎの幸福を、どうにか毎日つなぎとめている。そんな詩の一節のような文言が脳裏に浮かんでは、熱さにやられた蝋燭のように溶けて消えていく。
 星漿体――天内理子の護衛に失敗したあの日から、自分の中で何かが変容し始めているのを認めたくないみたいに、己の心の内に非術師に対する嫌悪感が湧き上がってくる度、夏油は幸福な記憶と感情を探しては、蓋をするように歪な形をさらに歪にさせていった。
 自分しか知らない呪霊の味に、思考がどうしたって沈んでいくのがわかる。美味しさを求めてはいないが、どうせならば無味であってほしいとは常々思っていた。
 少なからず精神を削る、この取り込むという行為に対しての見返りはない。むしろ、塵のように積もっていくばかりで、呪霊を祓うのとは違い、こちらはそう易々と払えるものでもなかったのだ。
 二人で最強だった日々は容易く瓦解してしまい、五条は一人で最強と成った。
 加えて災害による呪霊の大量発生と、九十九から聞いた事実が、陰鬱な思考にさらに拍車をかけていく。
 中庭の蜃気楼から視線を外し、自分の手のひらを見つめる。木の幹に背を預けて目を閉じると、つい先日の任務での出来事が甦った。
「あっ、ぐ、……」
「‼」
 ハッとした。意識を目の前に戻せば、首を思い切り掴まれ、地面に足がつかないほど上に持ち上げられている男の姿があったからだ。その首を掴んでいるのは紛れもなく夏油自身の手だった。
 泡を吹いている、気絶寸前の男の首から手を離す。どさりと重い音と共に男の体が地面へと転がった。その隣には息絶えた女性の姿があった。遺体から微かに感じる呪力。
 どうして、呪力を持つ者が虐げられなければならない。呪力をコントロールする素質があったかもしれない、そのあたら若い命が失われていく様に、やり切れない思いが募る。色々な負の要素が重なったばかりに訪れた、仕方の無い悲運だと言うのだろうか。そんなものは詭弁だと吐き捨てたかった。
 弱きを助け強きをくじく。当たり前のように、己の力を非術師を守るために奮ってきた。けれど、非術師は生きていて何の利益を生み出すと言うのだろう。むしろ呪いを大量生産していくではないか。
 寄ってたかって自分らの理解の範疇を越えると途端に醜悪さを全面に出し、排他的になる。
 一度首をもたげた疑念、嫌悪、焦燥はしとしとと降り続く雨のように、心の中に暗い影を落としてはその面積を着実に広げていっていた。
 瞼を押し上げると、まぶしさのあまり目が眩んだ。酷暑とも言えるこの季節が、全てを焼き尽くしてくれたらいいのに。
 とりとめのないことを思いながら、夏油は木陰から抜け出し、教室へと戻ったのだった。





 夏油のそんなささいな変化に気付いていたのが、後輩であるナマエだった。
 灰原同様、先輩として自分を慕ってくれる彼女のことを夏油はずっと好ましく思っていた。
 だが、特にアクションを起こすようなことはしなかった。それは尊敬の類であったし、この関係性が崩れるのも惜しかったのだ。
 先輩としてではなく、異性として好ましいと思ってくれているのだと気付いたのは、彼女の視線に潜む恋慕を見つけたからだった。平静を装うことはこんなに難しかっただろうか、と疑問を呈するくらいには、夏油は浮かれていたと思う。
「私は利己的で自分が一番可愛いんだ」
 人との距離感を間違えない彼女の傍は、正直言ってとても心地が良い。
 五条のようにズカズカと遠慮なしに入ってくるでもなく、家入のように全く興味を示さない訳でもなく。
 だから、並んで腰を下ろしている彼女に対して、つい本音に限りなく近い弱音とも取れる言葉が零れてしまった。
「良いじゃないですか、それだけ必死なんですから。そんな執着も生き物らしくて良いのではないかと」
 隣に座る彼女が立ち上がり、項垂れる夏油を見下ろす。
 生き物だから、人間だから。とても大きな枠でおおらかに捉えてくれる、自分の中でぐらつく天秤の存在を蔑ろにすることの無いその言葉が、今の夏油にとってはとても有難かった。
「わたしにはわかります。夏油さんは自分が思っている程、冷たい人間ではないって事」
 今まで関わってきた非術師すべてがそうとは限らない。両親だって、夏油のことを大切に思い育ててくれたはずだ。
 冷たい人間だと、心のうちで己を責めていたから、こうも彼女の言葉が響いてくるのだろう。
 思い出せ。幸福な記憶と感情を。そうしてそれらで塗り潰してしまえ。天秤が傾かないように、本音を選びとってしまわぬように。
 立っていた彼女は膝を折ると、夏油の洗いざらしたままの髪に優しく触れる。顔を覆う髪をそっと両耳にかけ、これでよし、とでも言うように嬉しそうに微笑んだ。
「ねえ、夏油さん。両親から大量にリンゴが送られてきたんです。一緒に食べませんか?」
 美味しいものを食べると元気になりますよ、と念押しするように、ね? と首を傾げるその仕草に、夏油は自然、うんと頷いていた。
 手を繋いでいるわけではないが、手を引かれているような感覚を持ちながら、夏油はナマエの後を着いていく。
 寮の共有スペースに着くと、手早く髪を纏めた。キッチンにはすでに何個かリンゴが置いてある。恐らく夏油と食べるためにあらかじめ用意しておいたのだろう。
 自分がその誘いを断らないことも、彼女は承知していた。もし断ったのなら、それはそれで夏油の様子がおかしいのだと、判断する材料にもなり得た。
 そそくさとキッチンへと移動した彼女は手を洗ってから包丁を持ち、リンゴを切り分けていく。
 その様子を夏油は横で眺めていた。誰かがこうして作業するのを見ているのは、意外と面白いものだ。
 鬱々としていた思考が晴れていくようだった。
「はい、どうぞ! うさぎです!」
「器用だね」
「母がよくこうして切ってくれて、わたしもたくさん練習してやっと出来るようになりました」
 彼女の手の中にあるのは、飾り切りをしたうさぎを模したリンゴだった。それらを並べた皿を夏油の方へと差し出す。
 一つ取ってリンゴを齧ると、酸味と甘味が口中に広がって、唾液腺を刺激する。舌の上で堪能していれば、彼女がまたもや笑顔を向けてきた。
「ふふ、美味しいもの食べると幸せですよね」
「……ああ、そうだね」
「あ! 夏油さんも切ってみませんか? そんなに難しくないですよ」
「君、たくさん練習したってさっき言ってなかった?」
「気のせいです!」
「こらこら」
 とぼけたあと、物は試しに、ね? とまた嬉しそうに首を傾げられては、断ることも出来ず夏油は片手に包丁、片手にリンゴを持つ羽目になった。
 恐る恐る包丁でリンゴを切っていく。隣で楽しそうに彼女が指示を出してくれるから、夏油も何だか楽しくなってきて、いつの間にか手元のリンゴに夢中になっていた。夢中になっていたから、やってきた人の気配に気付くのが遅れてしまった。
「オマエら何やってんのー?」
「げっ! 五条さん!」
「あ゛? オマエ今、げっ、つったろ」
「言ってないです」
「あんまりナマエをいじめるなよ」
「硝子さん……!」
「まじコイツ、ムカつくな」
 そこにいたのは、五条と家入だった。五条は任務帰り、家入も用事を済ませて戻ってきたところだろう。
 不思議そうにこちらを見遣る二人に手元を見せると、夏油の手に握られたリンゴを見て五条が吹き出した。
「傑、何だよそれ」
「うさぎリンゴだけど?」
「ちょ、ぶはっ、嘘つくなよ、くくっ」
「初めてにしてはとても上手です! 自分は出来ないのに、人を馬鹿にするのは良くないと思います!」
「食えれば何でもいいだろ」
「そういうところですよ、五条さん」
 五条と一対一であったのなら、多少はムッとしていたかもしれない。だが、五条と彼女のやり取りを見ていたら、馬鹿にされた苛立ちも怒りも湧いてはこなかった。
 手元にある、お世辞にもうさぎとは言えない代物を見れば、五条の言うことも一理あると納得出来るからだ。
「俺も腹減った」
「……」
「ナマエ、私にもリンゴ切ってくれるか?」
「はい! 硝子さん!」
「ぶっ飛ばす」
 彼女は何かと揚げ足取りをしてからかってくる五条に対していつもこうである。かと言って嫌いというわけでもなさそうで、一応先輩としては尊敬しているのだろう。
 椅子に腰を下ろした五条と家入に続くか、キッチンへと戻った彼女に続くか。コンマ一秒にも満たない逡巡ののち、彼女の方へ向かう。
「夏油さんも、座ってて大丈夫ですよ」
「いや、私も手伝うよ。四等分に切り分けるくらいなら出来るしね」
「ありがとうございます」
 何だかんだと五条の分もうさぎの飾り切りをしているあたり、彼女も優しいのだと思う。
 テレビから流れてくるバラエティ番組、五条の笑い声、包丁がまな板を叩く音、リンゴの皮を剥く音。色々な音が混じり合って、この空間を平和そのものに彩っている。
 自分が術師であることを、一瞬忘れてしまいそうになるほどのあたたかみのある優しい空気だ。
「いっ、」
 そんな空気を震わすかのような、悲鳴とまでは行かない声が隣から聞こえてくる。
 彼女の声に手元を見遣れば、人差し指の先から鮮血がつ、と指を伝っていた。深く切ってしまったようだ。
「大丈夫かい?」
「平気です! 気を付けてたのになあ」
「ちょっと見せて」
「え、あ、」
 有無を言わさず彼女の手を取ると、戸惑いを隠せない彼女の瞳をじっと見つめながら、夏油は目の前にある人差し指をそっと口に含んだ。
 嫌なら振り払ってくれ、と視線に言葉を絡めながら。
 彼女の黒い瞳がみるみる見開かれて、頬が淡く染まっていく。そうして五条たちの様子を伺うように横を向いた。
 二人は今テレビに集中しているから、こちらを見ることはない。さすがに堂々とこんなことは出来なかった。
 犬猿の仲と言われていたって、五条と彼女の応酬を黙って見ていられるわけでもない。嫉妬も少しは混じっているだろうが、羨望のほうが大きい気がする。
 私も少しだけ、先輩としての距離を越えてみようか。そう思った。
「っ、」
 彼女は恥じらいながらも、夏油から視線を外すことはなかった。
 舌の先で人差し指の腹をなぞる度、彼女の表情が甘く色付いていく。切り傷の上もなぞり、たまに甘噛みすれば、今度は擽ったさに加え痛みにも表情が歪んだ。
 リンゴの甘酸っぱさと彼女の血の味が舌の上で混じり合う。触れ合っている手から伝わる体温が熱くて、境目が分からなくなりそうになりながら、みぞおちの辺りがなんとも言えない感覚に陥った。
 まだ互いに気持ちを伝え合ってさえいない、互いに好意を期待して自覚する直前の戯れに、夏油もナマエも確かに夢中になっていた。
 五条がこちらを振り返る気配がする。見つかる前にと夏油は、彼女の指から口を離した。
「リンゴまだかよ?」
「い、今持っていきます……!」
 予想通りこちらに意識を向けた五条の言葉に、彼女は慌ててリンゴを乗せた皿を持って行く。
 先輩と後輩の関係性を脱した僅かな時間。それが尾を引く小さなその背にクスリと笑みを送り、夏油はリンゴの皮を捨て、包丁とまな板を洗ったのだった。
 結局、自分と彼女が恋人同士になることはなかった。会うのが気まずいのか避けられていたからだ。
 やりすぎたと、頭を抱えたがほとぼりが冷めるまではそっとしておいて、いい加減気持ちを伝えようと思っていた。
 けれど、その思いを伝える日も、結局はやって来なかったのだから、とんだお笑い草である。
 やはり、つぎはぎはつぎはぎでしかなかった。塗り固めていた壁のなんと脆いこと。下地がしっかりしていなかったのだから、時間の問題でもあっただろうけれど。
 トリガーになりうる出来事なんて、きっといくらでもあった。もう踏ん張りも抑えも効かなかった。
 幸福な記憶と感情も、彼女への想いも、非術師に対する嫌悪感には遠く及ばなかった。ただ、それだけのことだ。
 血塗れの両手を見つめながら、誰にも聞こえるはずもないのに「さようなら」と夏油は己の気持ちを供養でもするかのように呟いたのだった。





 手のひらに収まっている、血を思わせる真紅の色をしたリンゴを眺めながら、夏油は懐かしい記憶から意識を浮上させた。
「ねえ夏油さま! うさぎさんのリンゴ食べたい!」
「私も食べたいです」
 美々子と菜々子は、時々こうしてねだってくる。二人を家族として迎え入れてから日が浅いうちは、緊張を和らげるためにも、たまにリンゴを切っておやつとして食べさせていた。
 なんという皮肉だろうと、リンゴを剥きながら毎回思う。彼女に隠れてこっそり練習した飾り切りがこんなところで役に立つとは。
 成就しなかった夏油とナマエの思い。自分のことなど忘れて幸せになってほしいと願うのと同時に、消えない鎖で縛り付けてしまえば良かったとも思う。
 高専で過ごした日々が、その日々の中で一際輝いていた彼女の存在が、夏油の心に未だしぶとくあたたかな根を張っている。温度を奪って、枯らすのもなかなか至難の業だ。
「二人とも、これでうさぎの飾り切りは最後だよ」
「えーかわいいのに……」
「わかりました…」
「ありがとう、すまないね」
 己の歩む道と彼女の歩む道が交わることは決してない。だからこそ、この根は枯らさねばならない。
 彼女といる心地良さ、もらった優しさとぬくもりを、非術師に対する嫌悪と懐疑で塗り潰そうとする日が来るなんて。まるであの時と逆である。
 彼女に自分の存在を忘れて欲しくないのも、縛られているのも夏油の方かもしれなかった。
 これほどの皮肉があるだろうか。
 また相見えることがあったとしたら、夏油からの愛撫を甘んじて受けていた――震わせていたあの唇に口付けてみるのも面白いだろう。
 そうしたら、このリンゴのように愛らしい赤を見せてくれるだろうか。
 リンゴをにこにこと頬張る二人を見ながら、「美味しいものを食べると幸せだろう」と、いつかの彼女の言葉を口にする。
 冷たい人間ではない、と、雲間を晴らすように、髪を耳にかけ言ってくれたあの言葉も、彼女の血の甘さも、きっと自分の中に傷痕として、生涯残るに違いないのだ。