危険に満ちた日々の間隙を縫いながらツェッド・オブライエンが自分なりに考え披露したパフォーマンスは、幸いなことに多くの人々の間に笑顔の花を咲かせることが出来た。蝶に見立てた紙片が今日も空を各々自由に舞っている。そこここで上がる歓声に心の中で謝意を述べながら、ツェッドは観衆を見回した。初めての顔ぶれもあれば、毎回足繫く通ってくれている者の姿もある。
 こうして芸を披露する大体の時間は決めていた。風編みで操っている蝶たちをひとしきり遊ばせると、店仕舞いだというように手元の方へ集合させ始める。
 和気あいあいとした陽の声に誘われるようにして周囲へ巡らせていた視線が、ある一か所で留まった。噴水から少し離れたところに根を下ろしている木の根元で女性が微動だにせずうずくまっている。気分でも悪いのだろうか、と手を止めて様子を窺おうとしたとき、女性は億劫そうに顔を上げた。暗闇に慣れ切った目には沁みるのだろう、眩しさに目を細めている。少々意識がぼんやりしているようだ。もしかしたらあの体制で仮眠でも取っていたのだろうか。大方手元に収まった蝶たちに視線を落としてから、ツェッドは再度顔を上げる。そして、まだ空中に残存していた蝶のひとつを女性の方へ向かわせてみた。さして理由はなかったが、強いて言えば双肩に倦怠感を滲ませていた女性に少しでも元気を出してほしかったのかもしれない。
 ヒラリ、と蝶が舞うのを女性の瞳が捉えたのが分かった。喜んでもらえればいいが、と思っていると次の瞬間、女性の両目からは涙が溢れていた。
「なっ……!」
 ツェッドは血相を変えながら手元の蝶をトランクケースへサッと仕舞うと取っ手を握って女性の元へと馳せ参じる。よほど驚かせてしまったのか、もしくは蝶――虫の類が苦手だったのかも。とにかく謝罪を、と思い女性の目の前まで来るとツェッドは目線を合わせるように膝をつき、頭を垂れた。
「あの、驚かせてしまい申し訳ありません」
「えっと、」
「この蝶です。僕があなたの元へ誘導してしまいましたので」
「これあなたが?」
 充血して赤くなっているその目が蝶から己へと向けられる。だがしかし、驚きに驚きを重ねた女性の表情には当初ツェッドが予想していた懸念事項は感じられなかった。丸く見開かれた目にじっと射抜かれて居心地の悪さを感じ始めたころ、それを誤魔化すようにツェッドは握りしめていたものを差し出した。
「どうぞ」
「いえそんな、大丈夫です!」
 ツェッドが差し出したハンカチに戸惑った女性が声を高くする。「お気遣いありがとうございます」と言いながら羞恥を隠そうと目元に残った涙を指で慌ててぬぐおうとする。ただでさえ赤いのにそれ以上擦らない方がいいと思った。とっさに蝶を女性の目線近くに誘導する。自身の顔の周りを焦ったようにヒラヒラと飛び交う蝶を見て、女性がまたも目を瞬かせる。ツェッドと蝶の間を行ったり来たりと振り子のように揺れる視線に苦笑を漏らしながら驚かせてばかりで申し訳ない、と思いつつツェッドは再度ハンカチを差し出した。
 今度は素直に受け取った女性は、それで目元を軽く押さえながら柔らかく微笑む。
「謝られるようなことは何も。とても驚きましたが励まされているみたいに感じて……疲れやストレスが溜まると涙腺が緩くなっていけませんね」
 遠目からでも感じていた倦怠感はやはり間違っていなかったらしい。夜勤明けだという女性は医療に携わっているようだった。帰りがけに患者が大量に運び込まれてきたため、対応に追われ帰るに帰れなかったという。役目を終えた蝶がツェッドの手の上で大人しくしているのを不思議そうに見ながら、女性は弱々しい声音でそう言った。
「ここ数日はそこまで忙しいという程でもなかったんです。だけど誰かがついポロっと『今日は落ち着いてますね』って言ってしまって。そうしたら途端に……という塩梅です」
「落ち着いているというのは良いことではないのですか?」
「ジンクスがあるんですよ。たまたまだとしても、そういうことを何回も経験すれば単なるジンクスだと思えなくなります。職場では暗黙のルールになってますね」
 迂闊に口にしてしまえば反作用でも起こしたかのように、その場の流れが一変してしまうことがままあるという。そういえば、とツェッドにも身に覚えがあった。珍しく事件が何も起きずに穏やかな日があった。レオが何気なく口にした「今日は何も起こらないですね」の一言にツェッドもザップも頷き、今日はどこへランチに行こうかなどと呑気に相談していた。そしていざ外出する段になるとどこからともなく爆発音が聞こえてきて、つかの間の休息をひったくられお昼を食べ損ねたのだ。その状況ととてもよく似ている。
 不可思議なこともあるものだ。女性は蝶をよほど気に入ったのだろう、親しみのこもった視線を注いでいる。トランクケースへ片付けようにも気が引けた。ツェッドにとっては蝶を模しただけの大量の紙のうちの一枚だが、そのたった一枚が特別という重みを得たように感じた。女性の視線や仕草、感情がそれに意味を与えている。無機質な紙が温かみを帯びる。
「よろしければこちら差し上げます」
 トランクケースを開け予備として置いてある分から一枚取り出す。実際に女性の元へ遣わせたこの蝶をあげるのが自然な流れなのかもしれないけれど、パフォーマンス用の物には自分の血液を吸着させている。傍から見ても分からないだろうが、それはツェッドの良心が許さない。それに贈るのならば新しい方がいいだろう。
「いいんですか? お仕事道具では……」
「驚かせてしまったお詫びもありますが、僕の自惚れでなければ、気に入っていただけたようなので」
「ありがとうございます。今日の記念にぜひとも頂戴します」
 一直線に押し寄せる大多数からの賛辞はもちろん、女性から向けられる静々とした慎ましやかな笑顔を見ていると、なんでもないことのように通りすぎていくこのひとときが平穏であたたかさに満ちていることをより実感させてくれるような気がして嬉しくなる。明確な理由などなくツェッドの起こした行動に、意味が宿った瞬間だった。

・・・

 アンダンタル広場に行くたび、弱々しくうなだれ疲労を背負っていた名も知らぬ彼女は元気に過ごしているだろうか、と思いを馳せる。あの紙の蝶がまだ、彼女にとってほんの僅かでも心を奮起させるものであればいいのだけれど。あそこまで喜んでくれた彼女の笑顔が脳裏にちらついていた。お気に入りのシーンは何度でも再生したくなるように、笑顔には力があると思う。
 ライブラの仕事もあるので頻繁にパフォーマンスを披露できるわけではない。彼女がこの前いたのはまったくの偶然だったかもしれず、この広場をよく利用しているのであれば、再会する可能性も高いだろうが、漠然とそうではないような気がしていた。
 そろそろ違った趣向をこらしてみてもいいかもしれないと思いながらトランクケースに蝶を仕舞っていると、パタパタと走ってくる足音が聞こえてきた。こちらに向かっているらしいその足音の主を確認しようと顔を上げる。
「こ、こんにちは……!」
「あなたは……」
 視線を上げた先には、先日はどうも、と息を切らした彼女がいた。前髪が少し乱れている。以前のときよりも覇気が戻っていて、くたびれたシャツをアイロンがけしたみたいに、今の彼女の雰囲気には暗い要素ひとつない。目の下にうっすらとあるクマの濃さは以前とあまり変わらないように思う。彼女の努力が垣間見えた。胸元には紙袋が二つ抱きかかえられている。
「元気づけていただいたので」
 お礼だと言って差し出された片方のそれには労いの意味もこもっているだろうから遠慮するのは失礼でもあるし、正直言うと空腹も感じていたため、ツェッドは有難く受け取った。
 今日も仕事帰りなのだろう、一度広場を覗いたらツェッドがいたから慌てて引き返し、美味しいと評判のサンドイッチを買って来たのだという。アンダンタル広場はめったに利用しないそうだが、彼女もまた仕事の日々のところどころでツェッドに会えるタイミングを計っていたようだ。
 二度目ましてがもしあれば自己紹介すると決めていた。名前を名乗るために吸った空気は名前をかたどることはなく、噴水の水音がしばし二人の無言の間を埋め尽くす。同時に口を開いたため半開きになっていた口を先に閉じたのは彼女だった。控えめな笑声が耳をくすぐる。
 日にちが開いてしまったのもあるけれど、記憶の中の名も知らぬ彼女の姿はどこか線が薄かった。だが名前を知ったことで確かな線を得た彼女はツェッドの記憶へしっかりと刻まれる。くすんだ空に虹が差すように彼女の表情が鮮やかに彩度を増す。あのときの弱々しさは蝶が引き受け、空へ持ち去ったかのようだった。
「一人困った患者さんがいて……ってすみません、愚痴なんて」
 近くのベンチへ腰を落ち着け、ツェッドとナマエは談笑に勤しんでいた。ナマエはツェッドに対しておよそ警戒心というものを持っていない。弱っているところに付け込んだわけでもないのに、純粋培養の好意を向けられるとどこか心が落ち着かなかった。ツェッドの丁寧な言葉遣いや物腰柔らかなところもナマエに安心感を与えている一因だろう。
 すっかり元気を取り戻したナマエから出る愚痴もどこか明るい調子を含んでいる。手を焼いているようだが悪質な人物ではないのだろう。枝葉を広げていく会話の中でツェッド自身のことを尋ねられたけれど、ライブラに関しては徹底して情報を秘匿しなければならない。これは彼女を守ることにも繋がる。それとなく躱すと察してくれたのか追及しようとはしてこなかった。
 サンドイッチが美味しかったので彼女にお店の名前と場所を教えてもらう。リピート決定だ。レオやザップにも教えよう。レオは間違いなく喜んでくれそうだけれど、捻くれている兄弟子はそう素直に喜びはすまい。
「本当はあの日、仕事を辞めるつもりでいたんです。でも、もう少し頑張ってみようって思いました。顔を上げるのもキツかったんですけど、頑張って顔を上げて良かった」
 歩む力もないままに、かろうじて背を預けていたあの木の根元でナマエは絶望のただなかにいた。命を扱う現場の重圧を想像できないわけではないが、同じ土俵に立たなければ完全には理解できない。ツェッドたちはどちらかといえば命を傷つける側だろう。やらなければやられるのだ。世界の均衡を守るための暴力。暴力にはさらに圧倒的暴力で蓋をするしかない。ツェッドとナマエそれぞれの世界は完全に相容れないのかといえばそうでもない。ライブラは世界を脅かす悪意を持った存在に対してのみ力を行使するし、無関係な人々に被害が及びそうになれば被害を未然に防ぐべく尽力する。そして自分たちが怪我をすれば医療機関へ世話にもなる。ツェッド自身も今後絶対世話にならないとは言い切れないし、彼女の手当てを受けることもあるかもしれない。
 ナマエの心の琴線に触れることができたあのたった一枚の蝶を遣わせたのはツェッドだけれど、実はこうしてナマエとの縁へ導かれたのは自分なのかもしれなかった。無秩序と混沌にまみれたこの世界で、偶然では片づけられない説明のできない事象があっても不思議ではない。
 彼女が胸の内を惜しげもなく明かしてくれるから、例え会うのが二回目の浅い関係でも、自分に出来る範囲でツェッドも真摯に向き合いたいと思う。
「命を救うということは、その瞬間だけではなくてその人の過去現在未来も救ったことと同義ではないでしょうか。ナマエさんだから救えた人も、救われた人もきっといると僕は思います」
 命があるからにはどんな形だとしても人生を歩まなければならない。それが茨でも棘のない道でも。生きていれば自分の未来をいかようにも出来る。命を救うことは希望を繋ぐことだ。光を絶やさないことは簡単なようでいて難しく尊い。
 ツェッドだから出来ることがある。悲観も卑下も必要ない。ライブラにいれば皆が当たり前のように自分を認めてくれる。ありきたりな言葉でもツェッドはそれが一番シンプルで強いのだと分かっていた。人間は様々な思考回路を持つ。持てる力も着眼点だって違う。ナマエなりの強みをもっと自覚できればいい。
「もちろん無理は禁物ですよ」
「ふふ、はい。ツェッドさんの言葉はまっすぐで、過剰で下手な慰めもお世辞もないから、全然みじめな気持ちにならないなぁ。傷口に塩を塗るんじゃなくて、水で優しく洗い流してくれる、そんな感じがします」
 その場しのぎに飾り立てた言葉を並べても、相手にとって不快なら意味がない。本心には本心でこたえるのが筋だろう。一時間ほどの会話でも彼女の人柄は伝わってくる。仕事に真摯に向き合っていること。義理堅いこと。他人に対してあまり壁がないこと。感情を素直に表せること。ツェッドの芸に心を動かしてくれたこと。
「あの公園に足を運んでへこたれていなかったら、ツェッドさんに出会えてないんだって考えると私が経験した苦しさも辛さも意味があったんだと思えます。現にいま、私は辞めずにまた前を向けてますしね!」
 自分に出会えたことを喜んでくれている。その事実はツェッドにとって衝撃でもあった。師匠からは罵詈雑言と厳しすぎる叱咤のみ、ライブラに身を置くようになってからは自分も力になれているということと、信頼されているということは感じている。それとはまた違った言葉の響きだ。兄弟子とのファーストコンタクト時のことは思い出すと今でも胸糞悪い。失礼極まりない態度と言葉で愚弄してきた兄弟子の顔が浮かんできたので脳内から追い払う。
「ここのサンドイッチも美味しいんですけど、本当におすすめしたいのはカレーなんです! テイクアウトでも良かったんですが冷めてしまうし、外でこうして食べるにはちょっと難儀だなって断念して……だから今度、もしよければそのカレーを食べに行きませんか?」
 色々な味のカレーが食べられるのだと身振り手振りも交えながら語っているナマエは楽しそうに瞳を輝かせている。その感情がツェッドにも伝わってくる。好きな物を共有したい性格でもあるようだ。
 外界へ出ることがなければ、ライブラのメンバーはもちろん、ナマエとこうして出会うこともなかった。培っていく経験と感情は、知識とは違った意味でツェッドの心をより豊かにしていく。レオから「ツェッドさんて優しいですよね」と言われたことがあったけれど、自分では全くもってピンと来ていなかった。
 レオがそう評してくれたように、ツェッドの起こしたあの行動が優しさと呼ばれるものならば、その優しさは相手に伝わって心を修復するし、また別の相手へと沁み渡っていく。
「ええ、ぜひ。ナマエさんおすすめのカレー、食べてみたいです」
 ツェッドの返事を聞き、顔いっぱいに喜色をたたえたナマエは携帯を取り出した。互いに連絡先を交換する。ツェッドもナマエも多忙な身ゆえ、食事の日程は追々擦り合わせることにした。
 明後日はレオとともに、負傷して入院中の兄弟子の様子を見に行く予定だ。思うように動けない苛立ちをぶつけられるのかと思うと気が重いが致し方あるまい。問題を起こしていなければいいが。尻拭いをさせられるこちらの身にもなってほしい。だがザップに抗議したところで一蹴されるだけなのが余計に腹立たしかった。
 兄弟子の悪癖には困ったものだ。ふとツェッドは先ほどナマエが愚痴をこぼしていた患者のことに思い至った。あの病院に入院している患者は膨大だ。まさかとは思うが、いやそんな。数奇な縁がここにもあるというのだろうか。当たらないでほしいことほど当たる。想像した最悪の出来事はほぼほぼ起こりえない。両者がツェッドの中で拮抗している。
「ナマエさん、差し支えなければで構わないのですが、どちらの病院にお勤めなんですか?」
「セント・アラニアド中央病院です」
 躊躇う様子も見せず、彼女は勤務先を口にした。他にも病院は点在しているものの、人類のための医療施設と言えば、セント・アラニアド中央病院の名が真っ先にあがる。どうしてこの可能性にすぐ思い至らなかったのだろう。
「先ほど困った患者さんがいると仰っていたかと思うんですが、その方は男性ですか?」
「はい、そうですけど……」
「……その男性、銀髪で褐色の肌をしていますか?」
「ええ、しています」
「品性の欠片もない言動をしませんか」
「言動は、ええとそうですね、うーん……」
 列挙した特徴に当てはまる時点で十中八九ザップだろう。言動に関してはナマエの前だとまだ本性を出していないのだろうが、彼女の反応を見るに怪しいところではある。
「いいんですよ、正直に仰っても。その人物はザップ・レンフロという名ではありませんか?」
「そうです、ザップさんです! お知り合いだったんですね! すごい偶然……」
「やはりそうでしたか……困っているというのは具体的にどういったことでしょう?」
「嫌われているよりは良いかなと思うんですが、……連絡先を聞かれたり、たまに手を握られることがありまして」
「安心してください。明後日病院へ伺う予定ですので、僕が責任を持ってその男を処分します」
「処分⁉」
 直感が当たったことに対しては複雑極まりない。すでに問題を起こしていたか、と頭を抱えたくなった。ナマエに申し訳ない、と心からの謝罪をすると彼女は別段気分を害したふうもなく、笑って許してくれる。
「ツェッドさんのお知り合いと聞いてなんだか安心しました。お見舞いにいらっしゃるくらいだから、多少困ったところがあっても根は良い方なのかなと思ったんですけど」
 洞察力に長けている。現場で培われたのか、生来のものか分からないが、にこやかな表情でそう言うナマエの顔を思わず見つめてしまった。周囲から人間性に問題ありと烙印を押されているザップは確かに自堕落奔放で、いい加減なところがある。だが斗流血法の使い手としては天才でもあったし、仲間思いの面も見て取れる。すべてが破綻しているわけではない。実際共闘してみると驚くほど息が合ったのだ。
 言葉に窮したツェッドは「女性関係については全く良い話を聞かないので気を許さない方が良いです」と伝えるのがやっとだった。褒めるべき点がとっさに出てこなかったのは、ザップの日ごろの行いの賜物だろう。「肝に銘じます」と言ってナマエは砕けた笑顔を見せた。
 食事に行くよりも先に病院で会うことになりそうだ。ザップの見舞い中に鉢合わせは避けた方がいい。下世話な勘繰りをされてはたまったものではない。
 ナマエに気づかれないよう小さく溜息をこぼす。隣に座る彼女へ視線を向けると笑顔を引っ込めて、今度は小さな子どものように好奇心に満ち溢れた表情をしていた。その視線の行く先はツェッドの手である。
「どうされました? 何か気になることでも?」
「水かきは手を繋ぐとき痛くないんですか?」
 藪から棒になにを、と質問を遮ろうとしたが、彼女は気になることがあれば猪突猛進な性格なのかもしれないと思えば気にならなくなった。気にしていたらキリがないと半ば諦めも入っていたけれど。そういえば女性は話がどんどん切り替わるからついていくのが大変だとスティーブンがごちていたような。
「特に意識したことはないですが、恐らく痛みはないと思います」
「そうなんですね。柔らかいからかな」
「……ナマエさんが嫌でなければ触ってみますか?」
「え!? むしろ私から触られるのツェッドさんの方が嫌じゃないです?」
「僕にとって苦痛を伴うことでしたら、こうしてご提案しませんよ」
 提案せざるを得ない強すぎる好奇心に負けたと言った方が正しいだろうか。人である自分とは体のつくりが異なることに違和感を覚えるのではなく、探究心の方がくすぐられるところはナマエらしい。
 どうぞ、と言って差し出した手に彼女の手がそっと触れる。「ひんやりしてる……体表面は半透明なんですね」手をひっくり返したり、親指と人差し指の間の水かきをつまんでみたりと熱心に観察している。色々な感情を集約させたナマエの顔を見ながら、ツェッドも思ったままを口にした。
「あなたは全く物怖じしませんね」
「ここで生きていると毎日が命がけですし、何もしないで後悔するよりはやって後悔が良いかなって思ってます。だから物怖じしてる暇もないんです。毎日を、この瞬間ひとつひとつを大切にしたいから」
 満足したのだろう、ツェッドの手から彼女の手が離れていく。少しくすぐったい気もしたが嫌悪は全く感じなかった。
「怖くないんですか?」
 不可視の混沌が支配している、理不尽を理不尽だと突きつけることさえできない非現実が現実と化しているこの地、ヘルサレムズ・ロットに住んでいることが。抽象的なツェッドの質問を吟味しながらナマエはゆっくりと言葉を選ぶ。
「死ぬ瞬間はきっと、とても恐ろしいでしょうね。でも『志半ばで死ぬのは悔しい』という気持ちの方が大きいかもしれません。まだまだやりたいことが沢山ありますから。それに今はツェッドさんともっと仲良くなるという目標もありますので!」
「僕自身、と言ってもいいんでしょうか。生態についても気になっているのでは」
「どっちもです!」
「正直な人ですね」
 ライブラのメンバーも癖の強い人が多いけれど、ナマエもなかなか変わっている。カレーを食べながら談笑している自分たちの姿がありありと浮かんだ。といっても楽しそうに笑みを浮かべているのは彼女だけだ。ツェッドは生真面目な性格ゆえに笑うことがほぼ無いに等しい。
 伯爵と話したことのひとつに幸福についての哲学があった。哲学者の数だけ解釈があり、理屈は分かるけれど、経験や感情の掛け合わせで心がどういった動きをするのかまるで理解できずにいた。
 哲学者の中には幸福を蝶に例えた者もいたのだったか。 追えば追うほど遠くへ去ってしまうが、他のことに意識を割いていれば、いつの間にか優しく肩に止まって羽を休めているのだと。
 ツェッドは隣で「ハンカチ忘れました! 今度持ってきます……」と自身の失敗に眉を下げている喜怒哀楽のせわしないナマエを宥めながら、こういう人の傍にいたら幸せとはなんなのか、心から笑うというのがどういうことなのかわかるかもしれないと思った。
 せっかく繋がった縁を軽んじることはしたくない。彼女というレンズ越しに見る世界はいったいどんな姿をしているだろう。
 ナマエから躊躇なく触れられた手をしげしげと眺めてから、ツェッドはとりあえず明後日を無事に乗り切ろうと拳を握り締めた。