※ヤパロ


 紙を弾くペラリという音と、指が紙と擦れる音と、それからくゆる紫煙と。朝はきっちりオールバックだった髪は少し乱れて、前髪がゆるく垂れている。仕事疲れが加味されたその表情にどことなくアンニュイさも混じって、色香も漂うというものだ。回収したであろうお金を淡々と数えている甚爾さんをうっとりと見つめながら、私はほう、と色付いた溜息をついた。
「なんでそんなにかっこいいんですか」
 最後のお札を弾いて数え終わった気だるげな双眸が私に向けられる。幾度となく口にしたこの問いかけに答えは求めていないし、甚爾さんにもその気はない。好きな人のスーツ姿というのは、なぜこうも心をかき乱すほどに魅力を引き立てるのか。広い肩を覆うフォーマルベストはより一層、彼の鍛えられた体躯を引き締めて逞しく見せている。赤いシャツも肌に映えとてもよく似合っているし、写真に収めて待ち受け画面にしたいくらいだった。無断で撮るのは気が引けたため、試しに聞いてみるとやはり「ダメだ」の一言で一刀両断された。
 仕事柄もあるのだろうか。それとも彼と関わり合いがあることが知れて、私が危険な目に合わないよう心配してくれているのだろうか。事務所に出入りしている時点で意味は無さそうだが。
 それに甚爾さんと出会った瞬間に、私の後ろにあったはずの何気ない日常は消え去ってしまったからもう足跡を辿ることもできない。

 彼の組の息がかかったキャバクラで働くようになって半年と少し。友人の連帯保証人になっていた私は、臓器を売り飛ばされそうになっていたところを助けてもらったのだ。友人の代わりに私がお金を返済しなければならない状況は変わらないが、こうして命があるだけでも有難いことである。
 顔に似合わず存外女性には優しいらしい甚爾さんのことを好きにならないわけがなく、ライバルもとても多い。だが、たまにこうして事務所に出入りすることを許してもらえているため、私は優越感に浸りながら彼の精悍な顔立ちに魅入るという日々を過ごしている。
 先輩方からは、それはもうやっかみという名の嫌がらせがすごいのだけれど、こうして甚爾さんと過ごせる時間のことを思えば、なんのこれしき、であった。
「何かお手伝いできることはありますか?」
「請求書に目通して、あとそこにあるデータまとめといてくれ」
 また組員の人たちが何かやらかしたのだろうか、と勘繰りながらパソコンの前に座る。甚爾さんはこう言ったことはからっきしなのだそうで、以前たまたま手伝った際に私が役に立つとわかってからは、こうして雑用を頼まれるようになった。組内部の情報をもらせば首が即座に飛ぶからな、という念書を書かされているため、私が裏切るような行為を働くとは誰も思っていない。信用されているのかいないのか、複雑な心境ではあるけれど。
 不思議なのは、先輩方の中には私よりもずっと事務処理能力に長けている人がいるのに私を選んでくれたこと。作業をしつつ「私で本当に良かったんですか?」と、革張りの高そうなソファの背もたれに両腕をそれぞれかけて天井を仰いでいる彼に問う。
「オマエも他の女も俺目当てなのはわかってる」
「……まあ、好きですから」
「他の女のゴールは、この事務所に入るのを許可されることだ。そうしたら俺の女になれたも同然だと勘違いする。だから、頼んだ仕事に対してすぐ手を抜く。そして俺以外の組員に対して嘗めた態度を取る。あと、香水くせぇ」
「なるほど……?」
 甚爾さんにしては珍しく結論を引き伸ばした物言いに、何が言いたいのか私にもさっぱりだった。相槌を打ってから彼へ視線を送るとちょうど顔を正面に戻しているところで、真意をくみ取ろうとしている私の固い思考を溶かすようにじっと見つめてくる。瞬きも出来ずにいると、灰皿に煙草を押し付け、おもむろに腰を上げた甚爾さんがこちらへやって来る。私が座っているキャスター付きの椅子を回転させ、座席部分をぐっと引き寄せると首元の髪の毛を手で退けてからスンスンと匂いを嗅いだのだった。
「オマエは、頼んだ仕事は今まで一度も手を抜いたこともなければ、ついでで色々こなすし、組員に対してもちゃんと接してるだろ。あと、くさくねぇ。……はずだったんだがな……? なんでオマエがこの匂いをプンプンさせてやがる」
 いきなり近づかれたにも関わらず悲鳴を飲み込んで、必死に熱さをごまかしている私に不機嫌丸出しの甚爾さんが顔を寄せてくる。好きな人からの突然のスキンシップは嬉しいのに、なんだかお説教をされている気分になるのは何故なのだろうか。いつもと違うことといえば。と、そこで浮かんできたとある男性の含みのある笑顔に、これはもしかしなくても嵌められたのでは?という一つの結論が脳内を駆け巡った。
「直哉さんが……この香水良い匂いだからどうぞって」
 思い当たる節を告げればさらに声が低くなる。ここまで彼が怒る理由がわからない。
「男物なのになんの疑問も持たずにつけたのか? しかもこれアイツと同じもんだぞ」
「えっ! そ、そうなんですか⁉ 私、そういうの疎くて……その」
「直哉に気があんのかよ」
「違うに決まってるじゃないですか!」
「……」
「直哉さんが、甚爾さんこの匂い好きだからつけたら喜ぶよって教えてくれたんです!」
「……チッ、アイツ覚えとけよ」
 彼は「一番嫌いな匂いだ」、と眉間に深いシワを寄せながら吐き捨てるようにそう言った。冷や汗どころではない。水分が出るというよりも体のどこかにそれらが吸い込まれて蒸発してしまったみたいだった。そうだ。甚爾さんと直哉さんは仲が悪いのを失念していた。どうりであれだけの怒りをあらわにするはずである。ごめんなさい、と伝えれば彼は「あー、もういい……俺も悪かったな」と苦虫を嚙み潰したような顔をする。
 私が直哉さんに対して気がある、と言われたのはなかなかにショックだったわけで、日頃からそれなりに気持ちを伝えていたつもりだったのだが……と心が鉛のように重くなった。誤解も解けたことだし、とりあえず仕事を片付けようと椅子を回転させたのだが、また甚爾さんの方へと向き直されてしまう。困惑気味に彼の顔を見上げると「恰好つかねぇな、変なこと口走っちまった」と前髪を大雑把にかきあげながら言うその色気にあてられて、私はまたもぼう、としてしまった。
「仕事は後でいい。先にその匂いを落としてやる」
「ど、どういう意味でしょうか……?」
「そのままの意味に決まってんだろ。それから香水のつけ方も教えてやるよ。へたくそすぎだ」
「いえ! それは遠慮します……!」
 ネクタイに人差し指をかけて、左右に引っ張り首元を緩める甚爾さんはどんな男の人よりも色っぽくてかっこいい。シャツから覗く太い首筋と鎖骨がとてつもなく扇情的である。口元が緩やかな弧を描くのを見つめながら、どうやってやり過ごそうか考えていたのに、逃げ場も理由もなんなく封じてくる彼に、私は思考を放棄せざるを得なかった。
「俺の気が変わらないうちに、大人しく抱かれとけ」
 甚爾さんの吐息に混じった煙草の味が、一気に口中を支配していき粘膜を刺激する。苦味にしかめっ面をしながらも、私からの好意を再確認して自信に満ちた振る舞いをする彼の唇の感触や、余裕綽々な表情ひとつひとつを脳に刻みつける。
 私はこの匂いと味を知っていた。事務所に足を踏み入れた時からまさかと思ってはいたけれど、デスクにあるパッケージを見て確信したのだ。甚爾さんは別段銘柄にこだわりがない。置いてあった煙草は、私が味や匂い、パッケージから彼を連想して伝えたものだった。まさか本当に吸ってくれているなんて。
 彼の甘い毒牙にかかるのは、私で一体何人目なのだろう。私が最後の女になれたらさぞかし光栄だろうが、そこまで調子に乗れるわけもない。甚爾さんにとって、私は雑用をこなしてくれるちょうどよい存在に過ぎないから。でも、これは、こんな嫉妬まがいの怒りをぶつけられて「似合いますよ」、という他意のない呟きを己に当てはめてくれているのだ、そりゃあ勘違いしてしまいたくもなるというものだった。
「俺の女になるチャンスをみすみす逃すのか? 本望だろ?」
 自分のベストのボタンを外し終えると、今度は私のシャツに彼の手がかかる。どうやらこのまま勘違いしてもいいらしい。雑用から彼の女になれるとは大出世もいいところだ。
 一応、まんまと嵌めてくれた直哉さんには感謝しておくべきだろうか。