砂糖漬けの呪詛 閑話


(賢者視点)

ㅤ魔法舎はクックロビンさんとカナリアさんが来てからというもの、活気づいていた。自分たちを信用している人間が少なからずいるという事実が、城を追い出された魔法使いたちにとっては救いになっているのかもしれない。不可思議な傷について未だにわかっていない魔法使いが数人いると言えど、初対面の時よりはいくらか雰囲気もいい。なんだかんだでネロはリケを気にかけているし、わかりづらいがオズはアーサーを心配している。なんでも、そういう積み重ねだ。少しずつ重ねて、増やしていけばきっと私も彼らの友達になれる。
ㅤそう思っていた矢先のことだった。真夜中に目覚めた私の目に淡い紫色の花びらが映る。ふよふよと、雪のように舞うそれはいつの間にか粉雪に変わって消え行った。美しく幻想的な光景だった。けれど、言いようのない恐ろしさと悲しさを孕んでいるようにも思えて不安が顔を出す。

「あの部屋は確か……ファウストの部屋……」

ㅤ花びらから粉雪へと変わりゆく奇妙なものは、扉の下から流れ出ているようだ。何かの魔法だったとしたら、私だけでは対処できない。誰かを呼んだほうが──「賢者様」
ㅤ背後から聞こえた声にびくりと肩が震える。それでも彼は、レノックスは心配そうに私を見つめてどうしたのかと問うた。すい、と動いた赤の瞳が雪を捉える。その顔色は愕然としているようにも、困惑しているようにも見えた。床に落ちていく粉雪は爆ぜる火の粉にやがて変わり、赤い火花が弾けていく。夜の暗闇に慣れている目には眩しいほどの閃光が、残像だけを残して消えた。

「……これは何かの魔法ですか? レノックスは見たことがありますか?」
「いえ……」

ㅤファウストの身に何かあったのか、なんらかの魔法が発動しているのか。この世界で長いこと生きているレノックスにもこの雪の正体がわからないならば、私にできることはほとんど残されていなかった。
ㅤファウストの名前を呼び、ノックを試みる。けれどやはり、物音ひとつ返ってこない。

「結界を張っているのかもしれません。ファウスト様は用心深い方ですから」

ㅤレノックスの声も固かった。扉の隙間から絶え間なく姿を現す、赤い炎に不安がふくれあがる。もしも、もしも彼に何かあったら。この世界に来てから、得体の知れない未知のものに触れる機会はそれなりに多かった。けれど、そのすべてを簡単に受け入れて怖がらないなんて不可能だ。だから、目の前の炎を前に恐れと焦りを胸に抱くのも仕方のないことだった。

「どうしたんだ、二人とも」

ㅤ階下から聞こえてきたフィガロの落ち着き払った声に、無意識にも胸を撫で下ろしたのは私だけではなかった。

ㅤ私はきっと、その先で見た光景を一生忘れないだろう。


***


ㅤ寝台を取り囲む炎、窓際に映る処刑台の丘、天井に浮かぶ人々──アーサーによく似た少年やレノックス、フィガロの姿。あれはファウスト本人が見ている夢だとレノックスは言う。
ㅤフィガロやレノックスから聞くかつての物語は色褪せることのないフィルムのように生々しく、温度と色を伴って蘇ってくるようだった。勝利を前にフィガロが立ち去ったこと、ファウストの幼馴染であるアレクさんが側近に唆されて魔法使いを処刑したこと、ファウストは最後までアレクさんを信じていたこと──そのすべてが終わりに向かう悲劇のために作り出されたフィクションみたいで、残酷で悲惨な結末に思わず手を握りしめた。

「何から、話そうか」

ㅤ中庭のベンチに腰かけ、細長い指を組んでいるフィガロは大きな月を見上げて皮肉っぽく笑った。口の端が静かに歪むのが、薄暗がりの中でもわかる。

「ナナは身ごもってた」

ㅤ誰が、なんだって?
ㅤ私が聞き返す前に、口調やその性格からは想像できないような速さでフィガロに目を向けたレノックスは口元を手のひらで抑え、絶望に満ちた声色で囁いた。そんな、と。月の光が冴える、冷たい夜はあまりにも静かでどんな声もはっきりと耳に届いた。

「俺は知ってるよ。今、魔法舎ここにいるナナはファウストの恋人だった魔女だ」
「ですが、ナナはあの時確かに──」
「死んだよ。そう、死んだ。きみが命からがらファウストを連れて逃げた時にはもう、石になってたろう」

ㅤレノックスが唇を噛んだ。その当時のことを思い出しているのか、苦々しさや悔恨が混じっている瞳は伏せられている。フィガロはまったく理解できていない私を見下ろし、そして一息つくように長い長い深呼吸をした。まるで、今からとんでもなく壮大な話をする冒険者のように、世界の常識が覆るような重大な発表をする学者のように、長くて重い呼気だった。

「むかしむかし、あるところに100歳の魔女と年若い魔法使いがいた。中央の国で生まれた魔女は心優しい、綺麗な魔女だった。彼女はある時、二人の少年に出会うんだ。人間と魔法使いが共にある、そんな世界を造ろうとしている少年二人に」

ㅤフィガロの口から紡がれる物語は、寝物語にするにはあまりにも仄暗くて、夢物語にするにはあまりにも切実すぎた。言葉を失い黙り込む私とレノックスはただ、胸が詰まるほどに切ない御伽噺に聞き入った。
ㅤナナの声が駆け巡る。夢で出会うかつての恋人以外を愛してはいけない気がすると、儚く笑っていた彼女の姿が蘇る。

「魔法使いの少年は魔女に恋をした。人間よりも人間らしくて、優しい魔女に。魔法使いの少年は魔女を愛した。同じように愛情を返してくれた魔女を」
「……」
「だけど二人は死に別れることになるんだ。いっそ、ロマンチックなほど残酷にね」

ㅤ御伽噺はもうおしまい。そんな声が聞こえてきそうだった。ロミオとジュリエットが悲劇を辿ったように、人間の王子様に恋をした人魚姫が海の泡沫うたかたとなって命を散らしたように、唐突に終わりを告げる幸福の結末を、知りたくなかった。

「ナナが妊娠していたのはファウストとの子だ。当時は20を迎える前に子に恵まれるのは別におかしなことじゃなかった。いつかは結婚して、子どもをもうけるものだと──二人の関係を知ってた奴らはみんなそう思ってたよ。もちろん、俺も、レノも」
「ファウスト様との子が……」
「あの時は戦乱のさなかだった。医者に診せる余裕なんてない。それでも二人は『もしかしたら』って思ってたんだろう。妊娠初期の兆候はあったみたいだから」
「だから、だからファウスト様はナナを最前線に置かなかったのですか……」
「守りたかったんだよ。自分の子を身ごもっているかもしれない女性を、ファウストが連れていくわけがない。レノも、そうするだろ?」

ㅤ月明かりも相まって、二人の顔色はひどく悪く見えた。「でも、俺にはわかったよ」と、俯いたフィガロがのたまう。

「ナナのお腹には確かに他の命が息づいてた。まだ、人間の形にもなってないような小さな命がね」

ㅤ勝利は目前だったんだ。フィガロは数分前と同じ台詞を呟いた。冷たい響きを持って横たわる、彼の知る過去はもの悲しくて目を背けたくなるようなものだった。不意に、うなぞこのように深い瞳が私を見つめる。

「賢者様。ナナを最初に呪ったのは、どっちだと思う?」
「どっち、とは……」
「アルマンは100年想って、100年嫉妬して、100年愛した。誰を、とは言わないけど……ファウストと出会うために生まれてきた魔女を、愛してしまった」

ㅤ俺は永遠の愛なんて信じてないけど、と付け足した彼はけれども確かに、悲しそうに両目を眇めた。

「ナナを呪ったのは、ファウストが先だったんだよ。ファウストが、人間を信じられなくなってから一番最初に呪ったのがナナだった」
「どういう……」
「愛してたから呪ったんだ。消えてほしくなかった。死んでほしくなかった。多分、死にかけているナナを抱きしめながら強い思念を抱いたんじゃないかな。嫌だ、死ぬな、置いていくな──あらゆる言葉で、ナナをこの世に引き留めようとした。無意識であれ、ファウストの呪いに縛られてどこにも行けなくなったナナの魂は留まって、どういうわけかまた生まれ直した」

ㅤそれが呪いになったというのか。だからナナは、アルマンを愛せなかったのか。だったらナナは、ファウストを夢の中でずっと探し続けていたのか? 愕然とする私たちを置いてけぼりにしたまま、フィガロは淡々と続けていく。今夜の彼はいつになく饒舌だった。

「ファウストは気づき始めてる頃だろうね。ナナがあのナナで、かつて愛した魔女だって」

ㅤ大きすぎる月が雲に隠れ、フィガロの目だけが爛々と光っている。それから彼はまた、そっと囁くのだ。

「愛したゆえに生まれた呪いなんて、甘ったるいと思わない?」

ㅤ砂糖漬けにされて、呪いか祝福かもわからなくなった呪詛はナナの魂に絡みついている。


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