砂糖漬けの呪詛 08
ㅤ──知ってると言ったら、きみはどうする。
ㅤ答えあぐねて口を噤んでいるあいだも、ファウストの真剣な眦に射抜かれている。彼は、意味もなく落ちるわたしの涙を悲しそうに見下ろしていた。
「……僕は何も知らないよ。僕はきみと会ったこともない。ただ、あの男が……フィガロが、きみを襲っていたから助けようとしただけだ」
「フィガロ様はそんな方では……」
「は?」
ㅤ突然声が低くなった。心なしか、わたしを見つめる目に宿る感情も悲しみよりも怒りのほうに比重が傾いている気がする。けれど、フィガロ様にわたしを襲うつもりなど微塵もなかったのは事実だろう。
「フィガロ様はお優しい方で……」
「は? お優しい方が無抵抗の女性を押し倒すと思っているのか」
「……」
ㅤ反論なんて許さないと言わんばかりの強い口調に黙り込んだわたしを、彼は呆れたように見つめた。ややあって「余計なお世話だったなら謝るよ」とすげなく言い放った彼の表情は不機嫌そのもので、不愉快そうに見える。
「きみは女性だろう。用心したほうがいい」
ㅤファウストがわたしの身を案じてくれていることはわかる。かなりわかりづらいけれど、多分そうだ。ヒースクリフの先生役をしていたとも聞いているから、実際は真面目で誠実な人なのだろう。
ㅤ彼は眼鏡を指先で押し上げて長い溜息をついたあと、ぶっきらぼうに謝った。
「嘘をついた。僕はきみの恋人だった魔法使いについて知っている。あいつはもう死んだんだ」
「嘘でしょう? 嘘だってわかりやすいもの」
「うるさい。遺言なら預かってる」
ㅤ居心地が悪そうに、棒読みで一息に告げたファウストはわたしの目を一切見ることなく続けた。彼がこんな嘘をつく理由はないはずだ。わかりやすい嘘をつくメリットがあるとも思えなくて耳を傾ければ、さっきまでの棒読みが信じられなくなるような切実な声が鼓膜を震わせた。
「自分のことは忘れて幸せになってほしい」
「そんなの……」
ㅤ有り得ない。そもそも、本当に亡くなっているという証拠はどこにもない。ファウストの言葉はどうにも嘘くさい。だというのに、記憶の中のあの人ならば言いそうな台詞だとも思ってしまった。
ㅤフィガロ様は、先生ではなくわたしの恋人だったあの人がわたしを呪ったのだとおっしゃった。それが真実だとしたら、あの人は何かの呪いでわたしを縛っておきながら「幸せになってほしい」と言ったことになる。
「許さないって言ってたわ。あの人は、わたしを恨んだでしょう」
「有り得ない」
「どうして言いきれるの? わたしを呪ったなら、勝手にいなくなったわたしが憎かったはずだわ。それに、それに……」
ㅤ言葉に詰まったわたしの異変に気づいたらしいファウストが、わたしの肩を掴んだ。
ㅤこれがきっと、一番忘れてしまいたかった記憶だった。自分が死にゆく間際の光景よりもずっと遥かに、無惨で冷酷な記憶は鋭い棘となって心のやわらかい部分に深く突き刺さっている。あの人と焚き火を囲む夢を見た時、彼はわたしの体調をしきりに気にしていた。落ち着いたら医者に診てもらおうとまで言っていた。些細な怪我や病ならば、魔法で治療できたはずなのにそうしなかったのは、あの人がわたしの前では酒を飲もうとしなかったのは──そこから導かれる答えはひとつしかない。
ㅤもう、気づかないふりを、わからないふりをし続けるなんて不可能だった。
「わたしが、あの子を守れなかったから」
ㅤファウストは息を呑んだ。わたしが何を言っているのかも理解できていないだろうに、彼は随分と動揺している。初対面もいいところの相手に何を言っているのかと呆れたって一人で悩むのはもう限界で、消えてしまいたくなるほど苦しかった。
「違う」
「守れなかった」
「ナナ、違う、違うんだ」
「何が違うの」
ㅤ罪のない命を奪ったのは人間だった。けれど守れなかったのはわたしだった。
「一人にして」
「……待ってくれ」
「あの人の遺言なら聞いたわ。もう用はないでしょう。先生にだって呪われていないってわかった。今の騒ぎが落ち着いたら出ていくわ」
ㅤ肩に乗っているファウストの手を振りほどいて階段を駆け上がると、大して走ってもいないのに胸が苦しくって仕方なかった。自分のことのように悲しんでいるようなファウストの顔が頭から離れない。
ㅤ出ていくと言ったからには近いうちに出ていくつもりだ。ここは、かつてのわたしと縁のある魔法使いが多すぎる。
ㅤファウストとの会話を忘れるために仕事に集中しているうちに、日が傾き始めていた。大地を焦がすように燃える太陽はゆっくりと傾き始め、わたしや花瓶の影を長く引き伸ばしている。カナリアも各階の掃除を終わらせたらしく、「そろそろお茶でもしませんか?」というお誘いを断る理由もないので頷けば、食堂には双子とオズ様、そして西の魔法使いたちと賢者様がいた。全員が、いつになく真剣な表情で話し込んでいる。
「何かあったのかしら……」カナリアの愛らしい顔に懸念と不安がよぎり、わたしたちに気がついたスノウ様とホワイト様の目がこちらに向く。
「我らは王城に向かう」
「都にですか……?」
「トビカゲリの正体は《兆しのトビカゲリ》じゃ。今夜には死者が蘇り、生きとし生けるものがそれらの糧となる」
ㅤ双子は恐ろしいことを口にした。明るく気丈な性格のカナリアでさえも、血の気の失せた死人のような顔色になり、白い手は小刻みに震えていた。夫であるクックロビンが都に出向いていると知っているのだから、なおさら心配だろう。彼女は聡明な女性だ。自分がついていけば足でまといになることも、自分自身に危険が及ぶこともわかっている。だからあえて、何も言わないのだ。
「カナリア。わたしと都に行きましょう」
「ですが……」
「わたしが守るわ。クックロビンを探しましょう」
ㅤこの広い魔法舎で、大切な人の帰りを待ち侘びるのはきっと恐ろしい。祈って祈って、不安と恐怖と戦いながら愛する人を待ち続ける時間はあまりにも長すぎる。
ㅤカナリアの瞳がわずかに光った。それでも涙が落ちることはなく、彼女は力強く頷く。
「ありがとうございます、ナナさん。お願いできるかしら」
「ええ。スノウ様とホワイト様も、よろしいですか?」
「もちろんじゃ。ナナならば問題なかろう」
「カナリアも怪我をするでないぞ。クックロビンが泣くからの」
ㅤ食堂の窓から外を見やったオズ様は静かに「……急がねば」と呟き、玄関ホールのほうへと向かわれた。オズ様らしくもなく焦っていらっしゃるようにも見えたが、日没後には〈大いなる厄災〉の力が増し、件のトビカゲリの魔力もみなぎるであろうことは想像に難くなく、オズ様自身の奇妙な傷のことを思えば急がなければならないのは確かだ。大きな被害がもたらされる前にさっさと決着をつけるべきだと、ここにいる誰もがわかっている。
ㅤわたしたちもオズ様に続いて魔法舎の外に出ると、嫌な風に包まれた。耳の真後ろで獣が浅い呼吸を繰り返しているような、生ぬるくて薄気味悪い風だ。魔力がない賢者様やカナリアもこの気配を感じ取っているようで、二人は恐ろしげに手を握った。それでも弱音を吐かないところが彼女たちらしくていじらしい。
「では、参ろう」
ㅤスノウ様の言葉と同時に、八つの箒が地面から勢いよく離れた。
***
ㅤ街並みを眼下に捉えながら、空を飛んでいく。茜色と濃紺が混じり始めた空は中央の国の民にも恐怖心を植え付けている。それを抜きにしても、今回の〈大いなる厄災〉が残した爪痕は想像以上のものだった。街には大量の瓦礫であふれ、地割れや土砂崩れが点々と残っている。
「気をつけてください!」
「ええ、そちらも。こちらは私たちにお任せを」
ㅤシャイロックと一言交わした賢者様たちは箒のスピードを上げて城のほうへと向かわれた。ここからは別行動だ。スノウ様とホワイト様たちとは別れ、わたしは西の魔法使いたちの援護に回る。クックロビンはドラモンド大臣のそばにいるだろう、ということなので双子の予想が合っていれば彼らは魔法科学兵団と共に死者の侵入を防いでいるはずだ。双子の予想はよく当たる。クックロビンがわたしたちの目指す先にいるという根拠はなくても、妙な確信めいたものは感じる。
「こんな時にご挨拶というのも、何かの縁でしょう。僕はラスティカ。どうぞよろしく」
「俺はクロエ! 一緒に頑張ろうね!」
ㅤ西の魔法使いらしい気ままな自己紹介をした彼らはこんな状況でもわたしに笑いかけた。彼らは気まぐれでのんびりしている猫よりもずっと気まぐれで、飾らないありのままの明るさは誰かの心をきっと救っているのだろう。現に、魔法舎を飛び立ってから一言も言葉を発していなかったカナリアが小さな笑い声を上げた。
「ナナ。よろしく」
「ナナは戦うのは得意?」
「うん、得意! 兵士をボコボコにしてた!」
ㅤなぜか、ムルがクロエの質問に返事をした。
「どうしてあなたが答えるんです、ムル」
「うーん、知ってたから!」
「ナナさんはお強いんですね。もしかしたら僕の──」
「わー! 今はやめてね!? 絶対花嫁じゃないから!!」
ㅤとても焦っているようには見えない、それどころか今からお出かけでもするような気軽さで会話を続ける彼らには謎の貫禄すら感じた。下を見れば蘇った死者が蠢く死の都が広がっているというのに、箒のスピードはそこそこ出しながらも和やかな会話を続けている。
ㅤしかし、その時間も長くは続かなかった。先頭を飛んでいるシャイロックは眉をひそめ、魔法科学兵団が集まっている前方に注意を向ける。死者の群れは、今にもバリケードを突破しそうだった。
「先に行って。わたしはうしろから攻撃するわ」
「それがいいかもしれませんね。では、お気をつけて」
「ええ!? 大丈夫? 俺も手伝おうか……? もしも二人に何かあったら、」
「クロエ。彼女は北の魔法使いにも恐れられた魔法使いの弟子ですから。私たちの心配なんて、余計なお世話でしょう」
「買いかぶりすぎだと思うけど……期待に添えられるように頑張るわ」
ㅤくす、と妖しく笑ったシャイロックとクロエたちを見送り、手のひらの上に砂の入っていない砂時計を出す。この砂時計は先生が贈ってくださったものだ。落としてガラスの部分を割ってしまった時、先生は修理をするついでに強い魔法をかけてくださった。今思えば、先生はわたしが黄昏の丘の夜空を気に入っていることをずっと昔からご存知だったのだろう。
ㅤ唱えた呪文に呼応し、砂時計の中に宵闇が広がり星屑が満ちる。
「掴まっていて」
「はい……!」
ㅤ都はすでに秩序を失い、混沌にあふれている。フィガロ様にかけていただいた呪いはおそらく本物なのでスノウ様たちがいらっしゃる城からはあまり離れられない。魔力が減ればその分だけカナリアを危険に晒してしまうし、わたし自身の身も危ない。
ㅤくるりと砂時計がひっくり返り、光が弾けるように散っていく。この数の死者を塵にするには骨が折れるが、悠長に文句を言っていられる状況ではなかった。
ㅤ夜に輝く〈大いなる厄災〉は死者の殲滅に奔走するわたしたちを嫌味ったらしく見下ろし、余裕そうに青白い明かりを灯している。気味の悪いその月明かりに祝福された死せる狂乱は華やかな街を腐食し始め、惨劇の登場人物に仕立てあげられた人々はあちらこちらへと逃げ惑っていた。