砂糖漬けの呪詛 09


「あなた……!!」
「カナリア!? ど、どうしてここに!? こんな所に来ちゃダメじゃないか……!」
「あなたの身に何かあったらと思うと……いても立ってもいられなかったの」

ㅤ常日頃からしっかりしているカナリアが見せた弱々しさに押し黙ったクックロビンは彼女を抱きしめ、きみが無事でよかった、と心底ほっとしたような声で呟いた。
ㅤあらあら、感動の再会ですね、とからかったシャイロックは今やここにいない。トビカゲリ討伐のためにアーサー殿下の援護に向かったシャイロック含む西の魔法使いたちは民衆の声援を一身に受けながら、幾年の年月を経て蘇った魔物と戦っている。
ㅤ何度も何度も「ありがとうございました」とお礼を言うカナリアとクックロビン、そしてなぜかねずみになっている魔法管理省の大臣を民衆でごった返している城内まで送り届け、大広間からひとまず出ていこうとすると、誰かに腕を掴まれた。

「あなたは魔女ですよね!? お願いします、家族を助けてください! 家内と子どもたちが店に残ってるんです……!!」
「わたしは善人なんかじゃ、」
「家内は妊娠してるんです、どうか、どうかお願いします! お礼はいくらでもしますから、どうかッ」

ㅤ涙でぐちゃぐちゃになった顔で、それなりに上等な身なりをしている男はわたしを揺さぶった。切実な願いに耳を傾けてしまった時点で放っておけなくなるとわかっていたから、聞きたくなんてなかった。今助けに行かなければわたし自身が後悔するとわかっているから、ふとした時に「あの時助ければよかった」と思い出すとわかっているから、嫌なのに。
ㅤ魔法使いですらないたかだか人間の声が呪詛のように脳内にこびりつき、妻子を想う気持ちがありのままに伝わってきて、彼の真剣な面差しから目を離せない。必死に救いを求める声を聞きながら、偽善的で独善的な自分にうんざりした。

「店の外観と道順を頭に思い浮かべて」
「え?」
「あなたの思念から情報を得るだけですよ。でないと、居場所なんてわからない。ご家族を助けたいなら言う通りにしてください」
「はっ、はい」

ㅤ男の頭上に手をかざして呪文を唱えると、男はわずかに狼狽えたものの、すぐに目を瞑って集中し始めた。完全に思考を読み取ることはできなくとも、大まかな情報程度ならば容易く手に入る。これが先生やフィガロ様なら、より正確に、より迅速に思考の隅々まで余すことなく読み取るだろう。
ㅤ神経を研ぎ澄ませると、城から出て西側に位置する広場の近くのガラス細工の店が見えた。思念と共に男の温かい思い出までもわたしの頭に流れ込み、目の前の彼が女性の大きなお腹に耳を寄せている光景が見えた。そういう陽だまりに滲む光景こそが、彼らのような人間にとってはごく普通の、ありふれた幸せなのかもしれない。ぼんやりと詮なきことを考え、かざしていた手を下ろす。
ㅤ泣きっ面のまま「お願いします」と祈りを託し、わたしの手を両手で握りしめた彼にはろくな返事もせずに人と人の合間をすり抜ければ、雑踏の中で言いようのない孤独を感じた。そういう漠然とした寂しさを抱いたのは、わたしが何百年も生きている魔女だからなのかもしれないし、平々凡々な日常の中で愛する人と幸せを感じられる人間たちが羨ましく思えたからなのかもしれない。互いに身を寄せ合い、手を取り合う人間たちがわたしの横を過ぎていく。
ㅤ魔法使いや魔女の生涯は、寄せ集まった人波の中でただ一人立ち止まっているような、そんな感覚を覚える。こんな風に、すべてのものが何食わぬ顔ですれ違って知らぬ間にすべてが消えていく。
ㅤ城の外は不気味な静けさに満ち、肌を逆撫でするような生ぬるい風が吹き抜けていた。空気が澱んでいるように見えるのは、混沌によって穢されているからだろうか。箒を手元に出すと、門の近くに立っている誰かがわたしに手を振った。見慣れた白衣が風に揺れる。フィガロ様はこの状況下でも余裕に満ちた相好を崩していなかった。

「ナナ、きみも来てたんだね。ルチルを見てない?」
「いえ……」

ㅤ首を振ったわたしに、フィガロ様ではなくファウストが顔をしかめた。彼らの隣にはレノックスまでいるので、前世のわたしと少なからず関わりがあった魔法使いが揃い踏みしている。

「どこに行く気なんだ」
「あなたには関係ない」
「……ふん。悪かったな、余計なお世話で」

ㅤ特にファウストとはあまり関わりたくなくて無愛想に答えれば、彼も無愛想に言い返した。彼は人間嫌いな東の魔法使いのくせに、わたしを妙に気にかける。それに、彼のそばにいると前世のことばかり思い出してつらくなるから放っておいてほしかった。
「あらら、こじれちゃったかな」こんなはずじゃなかったのに、と腕を組んでいるフィガロ様がおっしゃった。何がこんなはずではなかったのかは知らないけれど、ファウストはそんなフィガロ様を睨みつけ、ずっと口を閉ざしているレノックスは途方に暮れてわたしたち三人の顔を何度も見比べている。

「ナナ。俺はきみを止めないよ。でも、俺やホワイト様たちからあまり離れないでね」
「はい」

ㅤフィガロ様の忠告に頷いて見せるとファウストは何か言いたげにしていたものの、口を聞く前に箒に飛び乗って浮上した。フィガロ様が呆れたような、からかうような溜息をこぼしたのがわかる。彼に子どもっぽいところはあまり見られたくなかったけれど、致し方ない。



ㅤ人間が一人も出歩いていない街中は終末を迎えた世界みたいで、生命の気配そのものも息絶えたような寂しさが漂っている。地面に落ちたアイスクリーム、片方だけ落ちている婦人用の靴、ガラス部分が割れてしまっているランタン。生活の営みの最中に、予兆もなしに人類が消えたかのような景色はなんとも言えず奇妙で怪奇的だった。

「……ここね」

ㅤ大地に降り立ち、赤い三角屋根のこぢんまりとした店を見上げる。塗装が剥がれかけている立派な看板には「〈ガラス細工のスミス〉」と書かれ、ショーウィンドウには黒曜鳥や星イルカを象ったガラスの像が飾られていた。長いあいだ、街中で愛されている店なのだろう。
ㅤあたりに死者はいないが、身重の女性と幼い子どもが残っているということは身動きが取れなくて困っているのかもしれない。店の出入口は内側からテーブルやラックで塞がれており、死者たちの侵入を防ごうとしていたことが見て取れる。呪文で邪魔なものを片付け鍵を開けると、複数の人間が息を潜める気配がした。

「どなたかいらっしゃいますか」

ㅤ返答はない。わたしが敵か味方か、量りかねているようだ。ならば仕方がない。店内の奥にあるカウンターのほうへと進んでもう一度問うてもやはり、返答はなかった。

「で、出てけ化物!! どうやってここに入ったんだ!」

ㅤ踵を返そうとしたその時、カウンターの下から飛び出してきた少年は震える声で叫んだ。母を守るための行動だったのだろう、その顔には恐怖と焦燥、不安が浮かんでいる。

「おまえ、魔女なんだろ!? 出てけよ! 魔女は悪い奴らしかいないんだ!!」

ㅤそばかすのある、気の強そうな少年の言葉が耳鳴りのように頭の中で響いた。不快な金属音のような、甲高い女の笑い声のような、聞くに絶えない言葉は絶え間なく発せられている。
ㅤ今さら、人間の魔法使いに対する態度が変わるとは思っていない。そういうものだと諦めているし、いちいち傷つくわけでもなければ、偏見や差別をなくそうと決起する気概があるわけでもない。それでも今は、人間から向けられる罵声は焼き殺された時のことを思い出させる。

「魔女は人間を騙すんだ! 出てけ! この国から出ていけよ!!」

ㅤ──魔女は男を惑わせるぞ! 焼き殺せ!
ㅤ目の前の幼い少年と、わたしに火を放った人間の姿が重なる。これ以上は聞きたくない。聞いていられない。

「そう、それで?」
「それでって──ッ!?」

ㅤ少年と、奥の部屋で横になっているであろう母親に呪文を唱えた。静まり返る店内には、立ちすくむわたしだけが残っていた。



ㅤ夜が明けても〈大いなる厄災〉は我が物顔で空を支配している。破滅を迎える寸前だった王都は賢者の魔法使いたちによって救われ、街は祝福と歓喜に満ちていた。
ㅤ木の枝の付け根に腰かけ、太い幹にもたれかかると朝の風が頬をくすぐった。爽やかとも、澄んでいるとも言えない風だったが、生ぬるい風よりはずっといい。
ㅤ丘の上からは、復興作業や安全確認に奔走する王家の使者や、家族や友人の安否を確認し合う民、オズ様によって始末されたトビカゲリが残した黒い羽を消していく魔法使いたちがよく見える。

「……」

ㅤさっきまではわずかにしか感じられなかった魔力が体内でみなぎり始め、フィガロ様か双子がこちらにいらっしゃったことを察した。しかし、魔力を一気に摩耗させてしまったせいで身体がだるくて動かず、首を動かすのもつらい。

「考え事? 随分と悩ましそうだね。それに、俺からあまり離れるなって言ったのに」
「……一人に、なりたかったんです」
「きみが避難させた家族、謝りたがってたよ」
「……どうしてですか? 謝る必要なんてないのに」

ㅤわたしに罵詈雑言を投げかけた、まるで死神を見たかのような恐怖を滲ませていた少年の顔を思い出す。おそらく、あの少年は父親と再会できたのだろう。
ㅤフィガロ様の口ぶりからして、城門の近くで会った時にわたしがどこに行こうとしていたのかも、どんな理由があったのかも、少年本人かその父母から聞いたに違いない。

「不器用だね。自分を悪く言う人間なんかのために移転魔法を使うなんて、ナナらしいけど」
「気まぐれですよ」

ㅤ下のほうから笑い声が聞こえてくる。木の下でわたしを見上げているらしいフィガロ様は「だろうね」とおっしゃって、「わかってるよ」とも続けられた。知ったかぶりでも、偽りでもなく、彼はわたしよりもわたしのことに詳しい。
ㅤ気がつけば、彼は隣にいた。否、わたしが彼の隣に移動させられたのだ。

「出てくって聞いたよ。魔法舎の生活は嫌だった?」
「そういうわけでは……。ファウストから聞いたのなら、ご存知でしょう?」

ㅤ無言の肯定だけが返ってくる。過去が過去だからこそ、ファウストとのあいだに起きた諍いとも言えない小さな溝をフィガロ様には知られたくなかった。

「どうしてこんな所にいたんだい。まさか、ここが好きってわけじゃないだろ?」

ㅤここは処刑の丘なのに。
ㅤ言外に、フィガロ様はそう付け加えた気がした。未だどこにも還ることができていない罪人たちの魂は丘の地をさまよい、いくら時が経っても癒えない悔恨を抱えている。それを浄化するには、一体どれほど時間がかかるのだろうか。

「ここで、わたしは死んだんですね」
「……」
「どうして思い出させたかったのですか? きっと、何も知らないほうが幸せでした」

ㅤフィガロ様に非はない。わたしが思い出したいと思ったから彼の言う通りに炎を見て、真実を見つけようとした。それだけの、全部わたしが自ら選んだことなのに、子どもみたいに八つ当たりしている自分が愚かしくて嫌になる。

「……フィガロ様、」

ㅤフィガロ様は懐かしそうで寂しそうな目でどこかを見つめていた。非礼を詫びようと開いた口も、その表情を前にすると閉ざすしかなかった。彼の視線の先には、人間の手助けする賢者の魔法使いたちがいる。

「勝利は目前だったんだ。俺がいなくても、彼らなら平和な世界を作ると思った。だけど、アレク──中央の国の初代国王は側近に唆されて魔法使いたちを処刑した」

ㅤ常に理性的な彼は、時おり脈絡もなく話を始める。どこで終わってどこに繋がるのか、彼が結末を語るまで誰にもわからない。今も、そうだ。

「俺はきみの恋人だった魔法使いの師匠だったけど、その最後の戦いの前に立ち去った。もしも俺が、あの時姿を消さなければきみは生きていたかもしれない。……どう? 嫌いになった? それとも、失望した? 彼は、俺を恨んで憎んだよ」
「……フィガロ様らしくありません」
「俺らしくない? 俺は常に自分の好きなように生きてきたさ」

ㅤ一方的に言葉を重ねて決めつけるような口調が彼らしくないと思っただけで、彼の生き様そのものを「らしくない」の一言で片付けようとしたわけじゃない。フィガロ様の目がわたしを見つめる。光を忘れた冬のうなぞこのような閑寂とした眼差しは、北の冷酷な大魔法使いらしくも、南の温厚な魔法使いらしくもなかった。

「確かにわたしはあの時に死んだ魔女です。でも、今世と前世のわたしは別人です。肉体も、生まれ育った場所も違います。前世の記憶があることだけを除けば、ただの魔女なんです。それに、わたしは……どうして自分が燃やされているのかもわからないまま死にました」

ㅤ今と過去のわたしは違う父母から生まれた別人だ。けれどそれ以上に、あの時のわたしは何もわからないままに死んで、憎悪や厭悪を誰かに向ける余裕などなかった。混乱に満ちた炎の中で抱いたのは死への恐怖と、わたしの名前を呼び続けるあの人への哀切だけだった。

「今を生きているわたしが知っているのは、優しいあなただけです。恨みも憎しみも、抱くわけが──」
「俺が優しいって? そういう楽ちんなところ、好きだよ」
「そうやってはぐらかすのは、あなたに憎悪を向けないわたしをどうすればいいかわからないからですか」
「……前言撤回しようかな。アルマンを惚れさせただけはあるよ、ちっとも楽ちんじゃない」
「あなたが誰であろうとしているのかなんて、どうでもいいです。あなたが世界征服をしようとした北の冷酷無比な魔法使いでも、たくさんの生き物を殺してきた恐ろしい人でも、真実を言わない嘘つきでも」

ㅤひどいことを言うね、とフィガロ様の薄い唇が動いた。

「わたしが知っているのはお優しいフィガロ様だけです。それだけで十分です。なのにあなたは勝手に突き放して、いつも勝手にいなくなります。いつも、何も言わずに離れようとします」
「……」
「わたしがあなたを恨んでいると言ったら、またいなくなるつもりでしたか? 離れられる理由が、欲しかったんですか?」
「違うよ。……違うんだ。俺は本当に、きみに恨まれてると思ってた」
「だからわたしにも、優しくしてくださっていたのですか。あなたのおっしゃる、先生の罪滅ぼしのように、わたしに優しくしてくださったのも罪滅ぼしのおつもりでしたか」

ㅤフィガロ様はそれ以上言葉を続けなかった。足元の草が踏み潰される音がして、距離を縮めた彼に強く抱きしめられているとようやく気がつく。ツンとするような薬草の香りに混じる甘い匂いは先生の匂いに似ている気がして、その懐かしさからか声が喉に張り付いて出てこなくなる。

「泣かないで」
「泣いていません」
「……そうだね。でも俺には、泣いてるように見えたから」

ㅤひどく頼りない声を出されるものだから思わず顔を上げようとすると、後頭部に添えられた大きな手がわたしの顔を胸元へと押し付けた。耳の真横で、フィガロ様の心臓の音がゆっくりと響いている。「見るな」という明確なその意思表示は、いつだって本性を隠しおおす彼らしくもない仕草だった。

「……オズ様もあなた様も、大事なことをおっしゃいません。全部ご自分で決めつけて、終わらせてしまいます」
「オズよりはマシじゃない?」
「さあ、どうでしょう」

ㅤ手厳しいね、ナナは。呟かれたフィガロ様の大きな手がわたしの髪を一束手に取り、手のひらの上で撫でた。片手で頭を固定されている状態では、今の彼がどんな表情をしているのかはわからない。ただ、わたしの髪に触れる手つきはこちらが恥ずかしくなってくるほど優しかった。

「もっと、きみが早くに生まれていて、あの子に出会うよりも先に出会えていたらって、少しだけ思うよ」

ㅤそうしたら、俺の何かが違ってたかもしれない。

「……俺もアルマンも、ナナの幸せを願ってる。俺のは罪滅ぼしなんかじゃないよ。ナナは大事な子だから。ねえ、だからさ」

ㅤ俺のお願いを聞いてくれる? と、そう言われたら断れるはずがないとわかっておられるだろうに、フィガロ様は笑った。


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