羽化 03


「なあ、頼むよ。一回でいいんだ。ボスには秘密にしておくからよ」

ㅤボスに拾われて10年が経とうかという頃には、こういう誘い文句を言われることが増えた。一度でいいから抱いてみたい、一度でいいから夢を見させてほしい──魔法使いの男にも、人間の男にも、魔女という生き物は魅惑的な魔性に映るらしかった。

ㅤ──何年かボスの部屋で生活していたナナという魔女はボスの女に違いない。

ㅤ大多数の仲間がわたしとボスの関係をそんな風に誤解しているけれど、わたしにとっては有難い誤算だった。ほとんどの男がボスの存在に怯えて声をかけてこないし、声をかけてきたとしてもしつこく食い下がらない。余計な気を遣わなくてもいいなんて、まったくボスさまさまだ。ボスのおかげで強い魔法を使えるようになって、一人でも生きていける力を身につけられたことも感謝している。彼は存外、わたしが思うよりもずっと素晴らしい師匠だったのだ。
ㅤ彼のもとで生活しているあいだはいつ殺されるのか気が気ではなかったものの、頻繁にわたしを抱き枕にして寝ようとしていたことを除けば組織のトップと部下としての関係は結構うまくいっていたんじゃないかと思う。彼は男女の空気を匂わせなかったし、他の女性と一夜を過ごす時はわたしを絶対に寄せ付けなかった。そういう夜は決まって、過保護で心配性なネロさんと夜ふかしをして朝まで色々な話をした。多分、彼の中でのわたしは“男に襲われていた可哀想な女の子”のまま成長していないんだろう。とても遺憾ではあったが、優しくて人生経験が豊富なネロさんとの会話は楽しく、不平不満を漏らせば夜に会ってくれなくなる気がしてその優しさを突っぱねることはできなかった。わたしが自分専用の部屋を持った今でもその習慣だけは続いているのが不可思議でならないけれど、楽しい時間はどれだけあっても困らない。そう前向きに考え、湯船から出ると温かい湯が排水溝に流れていった。今日も、ボスはわたしの知らない女性を抱きに行く。

「ナナ、いるか」

ㅤ身体にバスタオルを巻いたと同時に浴室の扉がノックされ、ボスの声が聞こえてきた。今度の仕事のことで話があるのかもしれない。日が沈む前にはここを出て街に向かうと聞いているから、急ぎの伝言があるんだろう。そうは言っても、服も着ないで彼の前に立つほど無作法ではない。急がないと、彼が不機嫌に──

「ぎゃあ!?」

ㅤカゴの中に入れておいた着替えに手を伸ばしたら、小さな物体が飛び出してきた。女の生き血を糧とする、色合いからして毒々しい毒蜘蛛だ。蜘蛛は大嫌いだというのにさらに小型の魔物ときた。逃げる他ないので浴室から飛び出すと、目を見開くボスがいた。この際、ちっとも色気のない叫び声しか出なかったことはどうだっていい。多分、存分にからかわれるけれど、背に腹はかえられない。

「ってえな、おい」

ㅤわたしの下敷きになったボスは低い声で唸った。よりにもよってボスの上に乗るなんて殺されてもおかしくないし、お怒りなのはよくわかる。わかるけども、今だけはあの蜘蛛をどうにかしてほしい。

「ごめんなさい、ごめんなさい! 赤蜘蛛がいたんです!」
「あ゙? 赤蜘蛛ォ? んなもんに怯えてんのか。仕方ねえな……《アドノポテンスム》」

ㅤ赤蜘蛛はボスの一声で塵ひとつ残さず消滅した。「てめえも盗賊団の一員ならてめえでどうにかしろよ」と、ご最もなことを苛立たしそうに口にした彼はわたしを見るなり両目を細め、手首を掴んだ。そんなかすかな衝撃だけでバスタオルが落ち、濡れっぱなしの髪からは冷えた水が落ちていく。彼がわたしを女として見ていないことはわたしが一番わかっている。それでも、異性に裸を見せる機会なんて今までなかったし、ましてや相手がこの人になるとも思っていなかった。
ㅤ顔から火が出そうなほどに恥ずかしい。なのに彼は至極楽しげに笑うだけで、肌を隠すことも許してくれない。

「誘ってんのか」

ㅤ身体を滑り落ちる水はボスの服まで濡らし、首筋から鎖骨、そして胸のあいだを流れた水滴を指先でなぞられた。違う、誘ったわけじゃない。わたしは彼にとっては子どもでしかなくて、彼は今夜も他の女性を抱くために出かける。ちゃんと理解しているのに、唇に噛みつかれた。

「まっ、おねが……!」
「待たねえよ」

ㅤベッドに投げ出され、起き上がる前に組み敷かれる。搦め取られた手に冷たい指先が食い込み、無遠慮に唇を貪られた。多分、この人の前に裸同然の姿で飛び出したわたしが悪い。蜘蛛ごときに怯えたのも確かに悪い。だけど、他の人を抱きに行くくせにこんなことをするボスはわたしよりもずっとひどい。

「いや……っ」

ㅤ大して悲しくもない、苦しくもない。ちょっとつらいだけなのにぼろぼろと涙が落ちる。この人に抱かれるのは、きっと幸せなことだ。誰からも慕われていて、武勇も実力も数えきれないほどにある。でも、割りきるのは無理だった。いやだった。

「……うざってえ」

ㅤ涙を流すわたしを見下ろし、ボスは舌打ちした。それから、わたしをベッドに残して部屋から出ていった。



ㅤ夜ふけにわたしの部屋を訪れたネロさんは、わたしを見るや否や眉を寄せ、ベッドに座っているわたしの前にスツールを持ってきてそのまま腰かけた。

「ブラッドと喧嘩でもしてんのか?」
「……いえ」
「じゃあなんで泣いてんだ? ブラッドも、機嫌悪かったし。あー、いや……言いにくいなら言わなくていいけどよ」

ㅤネロさんの琥珀色の目が、気まずそうに逸らされる。元気づけるのは得意じゃないんだよ、と以前言っていたことを思い出し、申し訳なく思ったものの話を聞いてほしくて口を開くと、彼は話に耳を傾けようと少しだけ前屈みになった。

「男の人は、好きじゃない女も抱けますよね」
「……おいおいおいおい、待て。ブラッドに抱かれたのか」
「ボスだなんて一言も言ってません」
「はあ、わかった。わかったよ、ブラッドじゃねえ他の男に抱か……いや、うん……寝たのか?」

ㅤできるだけ直接的な表現を避けようとしているネロさんがなんだか面白くて笑ったはずなのに、ぽろっと涙がまた落ちた。慌てて拭い、質問に答えるべく首を振る。

「違います」
「よかったぜ、ブラッドの野郎がついに手を出したかと思った」
「だから、ボスじゃなくて……」
「わかった、わかった。とにかく、他の男と何かあったんだな?」

ㅤ頷いたわたしを見て、彼は溜息をつきながらも続きを促した。

「大人しく抱かれるべきだったんでしょうか」
「……。ナナ、おまえ……本当に気づいてねえのか?」
「気づいてないとは?」

ㅤ嘘だろ、という呟きが聞こえてきた。驚き半分、呆れ半分の声色は静かな部屋ではよく響いてわたしの耳にもしっかりと届いている。やがて、空色の髪をぐしゃぐしゃにかきまぜたネロさんの視線が虚空からわたしに戻ってきた。

「なんかこう、あるだろ!? ブラッドから何か感じなかったか!? 視線とかやらしい感じとか!」
「ボスじゃな──」
「うるせえ、全部わかってんだよ! 何年も拗れやがって! 大体、俺がここにいんのもあいつがうるせえからで……!」
「ね、ネロさん……」

ㅤ勢いのあまり椅子から立ち上がっていた彼はハッと我に返って恥ずかしそうに頬を掻いた。ごめんな、と謝る声もいつもより弱々しい。

「……ナナはブラッドのことをどう思ってんだ? おまえにとっちゃ、ただのボスか?」
「わかりません。ボスにとってはわたしは子どもでしょうけど」
「待て、その時点でおかしい。ブラッドにとってはなんだって?」
「わたしは子どもです。ネロさんも聞いてましたよね? 『俺はロリぺド野郎じゃねえし、好みは出てるとこ出てる大人の女だ。ガキ臭いおまえには一切興奮しない』ってボスが言ったの」
「いつ言った?」
「お二人がわたしを助けてくれた時に」

ㅤ顎に指を添え、しばらく考え込んでいたネロさんは勢いよく顔を上げたかと思えば、部屋から飛び出した。取り残されたわたしの前で倒れたスツールが、乾いた音を立てながら床の上を転がっている。


***


ㅤ部屋に入る直前に随分と機嫌を悪くしているボスに引き留められたのは、彼に押し倒されてキスされた日からちょうど一週間が経った日のことだった。明らかに腹を立てている彼の眉間には深い皺が刻み込まれている。
ㅤもしかしたら、今日こそ始末されるのかもしれない。ボスの逆鱗に触れ、トマトみたいに頭を潰されて息絶えた魔法使いや人間を山ほど見てきた。ボスが《アドノポテンスム》のアを発音したら逃げようと心に決めて向き直ると、悪かったな、と棒読みの謝罪が形のいい唇から飛び出したので恐怖のあまりついに幻聴でも聞こえたのかと思ったが、そうではなかったらしい。すぐに忌々しそうに舌打ちをして、「てめえのせいだ」と付け加えた。

「てめえのせいで他の女を抱けねえ」
「はい……?」
「興奮しねえんだよ。元々そんなに興味ねえけど……てめえが男を誑かすようになってからはどんな女を抱いても満足できねえ」

ㅤたぶらかす、たぶらかす? 何度も、ボスの言葉が頭に浮かんでは消えていく。わたしは男を誑かしたこともなければ、そうしようと思ったこともない。なんて言い草だと非難したところで、圧倒的な威圧感でねじ伏せられるとわかっている。それでも腹は立つので生意気にも睨みつけようとすれば、睨み返されて喉の奥で情けない悲鳴が上がった。わたしはなんて情けないんだろう。北の魔女が聞いて呆れる。

「めんどくせえことになるくらいなら、とっとと俺のもんにしときゃよかった」
「……」
「どうでもいい女に、キスなんかするもんか。まして、てめえは部下だ。組織の中で関係を持てばそのうち面倒事が起きるってことは、俺がよく知ってんだよ」

ㅤドアに押しつけられて、朝と夜が溶け込んだような瞳がわたしを見下ろした。あの空の色は、ヴィーナスベルトという現象が見せる幻想的なものだと聞いたことがあるけれど、ボスの双眸は空のように移ろいやすくもなければ、儚くもなかった。

「わたしは、ガキだって……」

ㅤああ、こんなの単なる負け惜しみだ。わたしだってそれはわかっているのに、追い討ちをかけるように冷たい指先に唇を撫でられた。

「ネロの言う通りかよ……。いいか? んな言葉、時効だ時効。もうガキじゃねえだろ。こっちはてめえがガキに見えなくて困ってんだよ。とっとと覚悟決めろ」

ㅤもう、子どもじゃないからボスが言わんとしている意味はわかる。そこに言外に隠された気持ちも、察すことはできる。彼の両目を見ていられなくて俯くと、ちょうど下の階が騒がしくなった。

「ボスとナナって本当にデキてると思うか?」
「さあな。でも、何回か寝たことはあるだろ」
「ナナは夜になると豹変するらしいぜ」
「あんなエロい身体してんだから当たり前だろ」

ㅤよりにもよって、こんなタイミングでなんて下世話な会話をしているんだと怒鳴りつけてやりたかったけれど、ボス本人が目の前にいるこの状況じゃ手も足も出せない。
ㅤボスとの関係を邪推され、あまつさえ肉体関係の話をされたって、今までなんとも思っていなかった。そのくせ、今さらになってとんでもない恥ずかしさを覚えているわたしはバカな女だ。やっぱり、絶対にボスの好みなんかじゃない。わたしは子どもで、経験も乏しくて、彼の好みになんか──

「ナナ」

ㅤしばし沈黙を決め込んでいたボスがわたしの名前を呼び、そうして目が合う。吸い込まれそうな、綺麗な瞳はわたしをじっと見つめていた。

「ん……っ」

ㅤ額、瞼、頬、そして唇に口付けが落ちてきて、わたしにキスを繰り返しているボスはドアノブに手をかけた。きっと、部屋の中に入ったら食い尽くされる。全部、何も残らないくらいに。

「部屋の中でボスって呼ぶなよ」
「ま、ってくださ……」
「誰にもの言ってんだ。待たねえよ」

ㅤカチャン、と音がした。わたしを部屋に押し込んで服を器用に脱がせていく彼が後ろ手に鍵を閉めた音はあまりにも大きかった。それは、思考も理性もとかされているわたしを追い詰める音だった。

「あいつらの期待に応えてやろうぜ、ナナ」

ㅤ邪推や噂を現実のものにしたいわけじゃないのに。そう抗議する前にボスの手でベッドに閉じ込められてしまえば、わたしにはもう抵抗する手段なんて残っていない。
ㅤそのあとの時間は気が遠くなるほどに長くて、朝も昼も夜も、上も下もわからなかった。痛いのか気持ちいいのかも、どこからどこまで繋がっているのかも曖昧になっている。
ㅤこんな人に恋なんてしなければよかった。どうせまたボスのせいで何も考えられなくなるとわかっているのに、シーツにしがみつきながら後悔した。

「子どもには興奮しないって、言ったくせに……」

ㅤ枯れた声で恨み言を呟いたら、わたしを情けも容赦もなく貫く悪魔は心底楽しそうに笑って見せた。冷たい指先が彼を受け入れている場所の真上──剥き出しの腹を撫で、聞いたこともないような甘ったるい声が「おまえはもう女だろ」と囁いた。


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