羽化 02


ㅤボスの部屋で過ごすようになって二ヶ月が過ぎた。あの部屋をめちゃくちゃにしてしまったお咎めを受けることもなく、今まで通りに仕事をしている。最初はどんな拷問を受けるのかと不安になっていたものの、ボスはわたしが彼の部屋にいても気に留めず、何かあれば小間使いのようなことをさせていた。その仕事も、掃除をしたり酒を持ってきたりと、その程度の雑用だけだ。
ㅤボスの私物を壊さないよう、落とさないよう、注意して生活するわたしに気を悪くする様子もなく、彼は好きに過ごしている。生来、人との距離が近いことに嫌悪感を覚えない質だったんだろう。

「ナナ、酒」
「はい」

ㅤ命じられるままグラスに注ぐと、琥珀色がちゃぷちゃぷと揺れた。革張りのソファに深く腰かけ、長い脚を組んでいるボスはどれだけ気怠そうに振る舞っていても絵になる。不意に、グラスを持ち上げた彼がわたしを見上げた。

「おまえ、意外と強いだろ。魔道具なしであいつの顔をズタボロにしたんだからよ」
「そんなことは……」
「俺が魔法ってもんを教えてやるよ。おまえ、腕のいい泥棒になれるぜ」

ㅤ別に嬉しくはない申し出だ。泥棒になりたいと思ったことはないし、いつかはこの組織からも機を見て足を洗うつもりだったから返答に困る。どうして、いきなりこんなことを言ったんだろうか。手ずから魔法を教えてやってもいいと思うほどにわたしに見込みがあるのか、酔いに任せて思ってもいない考えを口走っているのか──そう考えて、後者は有り得ないと思った。ボスは、何を考えているのかわかりやすい単純な人のようにも見えるけれど、実際のところはかなりの切れ者だ。無意味なことはしない。ボスの言動にはちゃんと意味がある。

「んだよ、嬉しすぎて言葉も出ねえか?」
「そういうわけじゃありません」

ㅤあいつの石を食うってこたあよ、強くなりたいんだろ。続けざまに重ねられた言葉によって、ボトルを持っていた手に力が入った。顔を上げた先にあった、ひどく楽しげな双眸と目が合う。知られている。全部バレている。あの男──わたしを襲った魔法使いの、うつくしく変わり果てた亡骸をわたしが食べたことを知っていて笑っているのだ。
ㅤあの時、わたしではなく魔法使いのほうを殺した理由はなんとなくわかる。100年来の仲間ではなく、下っ端のわたしを信じてくれたんだろう。

「自分を犯そうとした男を食うとはなあ。気に入ったぜ」
「生きるために必要だから食べただけです」
「はっ、北の女らしくていいじゃねえか。泣きっぱなしの乳臭いガキかと思ってたけどよ」
「北生まれだなんて一言も──」
「そんなの目を見りゃわかる。いつも大人しくしてっけど……」

ㅤ手の中にあったボトルが消え、ボスはわたしの腕を掴んで引っ張った。

「ほらな。おまえは気づいてねえかもしれねえが、身の危険を感じると目の色が変わる」
「何色にですか」
「馬鹿。そういう意味じゃねえよ」

ㅤ比喩だ比喩、馬鹿。
ㅤわたしの額にデコピンをお見舞し、馬鹿と何度も言ってくるボスは喉を鳴らして笑った。元を辿ればボスのせいとはいえわたしが馬乗りしているのに、彼は持ち上げているグラスを少しも揺らさず、そればかりか不敵に笑っている。子ども一人にのしかかられても問題ねえと言わんばかりの、余裕がその両目にはあった。彼は魔法だけには頼らない。肉弾戦も当然のように得意だし、体幹だけじゃなくてあらゆる部分を鍛えているだろう。魔法使いではなかったとしても、頭のよさと力だけで生き残れそうな人だなと常々思う。
ㅤいきなり、彼の手にあったグラスも消えた。手首を掴まれたまま腰の上にもう片方が乗せられたので、いやな予感がした。座り心地のよさそうなソファに自由なほうの手をついて離れようとしたが、そうはいかないらしく、さらに引き寄せられる。

「……あの、ボス」
「少しも意識されねえっての腹立つもんだな。少しは媚びろよ。他の女はもっとかわいげがあるぜ?」
「『俺はロリぺド野郎じゃねえし、好みは出てるとこ出てる大人の女だ。ガキ臭いおまえには一切興奮しない』」
「はあ?」
「ボスが言ったんですよ。わたしはその好みにひとつも該当していないのでボスに媚びてもいい迷惑でしょう?」

ㅤぽかんとした、ともすれば間抜けにも見える顔でボスはわたしを見つめた。二ヶ月という短い期間でも、ボス自身を貶さない限りこの程度の軽口なら許されると学んだ。実際、彼は怒っているというよりも驚いているみたいで、瞬きを何度も繰り返している。こんな表情を見るのは初めてだ。一下っ端に言い放った言葉なんて忘れているだろうと思ったものの、整った顔を手のひらで覆った彼は肩を揺らして笑い出した。

「案外、根に持ってんじゃねえか」
「事実なので気にしてないです」

ㅤわたしの身体は女性らしさの欠片もない。胸はぺしゃんこだし、何より痩せすぎている。こんな骸骨みたいな身体じゃ、興奮してくれる人を探すだけでも──いや、そういえば女に飢えすぎて見境を失った魔法使いに襲われたからボスのお世話になっているんだった。あの一件を含めれば一応、女として見てくれている男はいるということだ。あんな男に好かれても微塵も嬉しくはないけれど。

「はっ、ネロが世話焼くわけだ。骨が当たって痛ぇよ。当面の訓練はとにかく飯を食うことだな」

ㅤ続けて、抱き心地が悪い、と文句を言う。彼は本当に、取るに足らない存在であるわたしに魔法を教える気なのだろうか。懐疑的になるわたしの前で、彼は楽しそうに笑った。



ㅤどうやら、ボスは本当にわたしに魔法を教えるつもりだったらしい。
ㅤ吐きそうになるほど大量のご飯を食べさせられるようになってから三ヶ月と二週間が経とうとしていた。かなり太った気がするけれど、肋骨や首裏の骨はまだ浮いているし、指も関節が目立っている。ボスやネロさん、世話好きな魔女たちが言うにはまだまだらしい。
ㅤ今夜も肉料理をこれでもかとネロさんに食べさせられ、強烈な胸焼けや胃もたれに襲われながらもなんとか入眠しようと目を固く閉ざすも、ボスがベッドで身じろぐ気配がして完全に目が冴えた。寝返りでも打っているのか、ブランケットとシーツが擦れる音がする。気づかないふりをしながらソファで横になっていると小さな声で名前を呼ばれ、どうせろくな呼び出しではないとわかっているので狸寝入りを決め込もうとしたら「頭ぶち抜くぞ」という恐ろしい脅し文句が聞こえてきた。観念してベッドに寄ると、ブランケットがもぞもぞと動いた。

「ボス、何が──わっ!?」
「うるせえなあ」

「うるさいって……」あなたのせいなんですけど、と不機嫌なボスに面と向かって言えるほど神経は図太くない。わたしをブランケットの中に引きずり込んだ彼は背中側からわたしを抱きしめると、そのまま眠り始めた。かなり意味がわからない状況だが、反発せずに大人しくしているべきだということはわかる。
ㅤしばらくして、やけにボスの身体が熱いと気づいた。わたしの腹の前に回されている手や足に絡みつく爪先は氷のように冷たいのに、背中に伝わる温度はひどく熱くて心臓の鼓動もとても早い。

「熱があるんですか?」
「……ちげーよ」

ㅤ弱々しくて、少し鼻声っぽい声が聞こえてくる。やっぱり、起きてたんだ。疲弊し、魔力が尽きかけているボスには熱を下げることも難しいのかもしれない。
ㅤもう無茶をすんなと、相棒のネロさんはいつも言っている。今日、ここに帰ってきた時だってボスとネロさんは言い合いをしていた。心配された上に懇願するように頼まれた手前、素直に「熱が出た」とは言えなかったんだろう。病人の抱き枕にされてしまうのは正直勘弁願いたいところだが、弱っている彼の声を聞くのは落ち着かない。
ㅤわたしの手のひらから漏れた淡い光はボスの手を包み込み、指先から手首、そして腕のほうへと伸びていった。

「……余計なことしてんじゃねえ」
「ネロさんには言いませんから。熱は下がったでしょう? わたしはソファで──ぐえ、」
「ここにいろ。てめえは俺の抱き枕だ」

ㅤボスが白だと言ったら黒も白になるんだよ。ボスに心酔する下っ端仲間が言っていたことを思い出し、すでに思考を放棄している頭が痛くなってきた。ボスが抱き枕だと言ったらわたしも抱き枕になるなんて正直かなりいやだ。このあいだ、似たような感じでボスの上に跨ってしまった時は、まだボスにもおふざけして遊んでいるような雰囲気があった。けれど、今は違う。まったく違う。場所はソファじゃなくてベッドだし、ボスが醸し出している雰囲気も全部違う。
ㅤいつ機嫌を損ねて殺されるかもわからないが、生意気にも歯向かえば待っているのは死だけだとわかっている。どっちみち、ひとりぼっちのわたしには今すぐ死ぬかそのうち死ぬかの選択肢しかない。ならばもう、できるだけ長生きできそうなほうを選ぶしかなかった。

「ひっ!?」
「はっ、間抜けな声だな」

ㅤ寝間着のあいだから滑り込んだ骨張った手が肌に直に触れ、あまりの冷たさに悲鳴が出そうになった。冷たさに凍えるわたしを他所に「あ〜、あったけえ」なんて言っているボスから逃げようと身をよじるも、冷たい手が追っかけてきてうまく逃げられない。
ㅤ冷たい! と叫ぶわたしの反応を楽しんでいるらしく、ボスは一向に解放してくれなかった。こんな風にわたしで遊ぶ元気があるなら、熱を下げてあげなければよかったかもしれない。後悔しつつまた身をよじると今度は完全に退路を絶たれ、わたしの顔の真横に手をついてこちらを見下ろしているボスと目が合った。ピンクとオレンジが混ざり合う日没直後の空のような虹彩は、暗闇の中ではぼんやりと光っているようにしか見えない。

「っ、」

ㅤ乾燥した指先の腹の部分が首に触れた。わたしの身体が熱すぎるのか、それともボスの指が冷たすぎるのか、判別のしようもない。意味もなく息を止めている自分に気がついて、柄にもなく彼の色気に緊張しているのだと理解した。王者然とした強者としての立ち居振る舞いとその立場に緊張することはあれど、沈黙の中でゆっくりと、しかし着実に肌を蝕んでいくような色香にはまったく慣れていない。この沈黙がくらくらするような熱を孕んでいる気がしてきて、恐ろしくなってシーツを握りしめた。
ㅤわたしが怯えていると気がついたのか、ただからかっていただけなのか、ボスはわたしの上から退いて緩慢な動作でベッドに横たわった。

「おら、ガキはもう寝る時間だ」

ㅤ不機嫌な声が暗くて静かな部屋に響いた。すると、返事もできず未だ動けないわたしの傍らでマットレスが沈み、無理やり抱き寄せられる。さっきとまるっきり同じ体勢である。

「あの、ボス」
「うるせえ、寝ろ」

ㅤそう言われたら、下っ端のわたしは「はい」と大人しく頷いて寝たふりをするしかない。首筋にかかる寝息がやけに熱くて、長くて筋肉質な両腕はさっきよりも力強くわたしを拘束していた。


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