ワールドエンド 04


ㅤ17年前の3月9日、中央の国に王子が生まれた。国王と王妃の愛しい愛しい一粒種。近い将来、この国の父となる赤ん坊の誕生。国中が歓喜にあふれ、祝福し、肌寒い春の空は青々としていた。

「よろしいですか、あなたは殿下の妻となるのです」

ㅤわたしが4つになる頃には、お母様は毎日のように同じことをおっしゃっていた。妃としての知識や教養、美貌、品格、振る舞い。いずれは国王となる王子の許嫁となったわたしはそれらを身につけなければならなかったけれど、一国のお姫様になれるのならとどんなつらさも耐えられた。最初は、わたしもお姫様という存在そのものに憧れる少女でしかなかったのだ。
ㅤ当時、アーサー様はまだ1歳で、わたしが初めてお会いした時なんて喋れるか喋れないか、歩けるか歩けないか、そのくらいの幼さだった。彼はとても小さな子ども。一人っ子のわたしには、わたしのあとをついてきては無邪気にきゃあきゃあと笑う彼が弟のように思えて、愛おしかった。ぷくぷくとしたマシュマロのような肌も、まだ生え揃っていない小さな歯も、あどけない寝顔も、守ってあげたくなるほど愛おしかったのだ。
ㅤ彼は魔法使いであるけれど、わたしの曽祖父の曽祖父とおんなじようにちっとも怖くはなくて、絶対に他人を傷つけようとはしなかった。優しい彼が愛しかった。王妃に拒否され悲しむ、哀れな彼が可哀想で愛しかった。あの頃のわたしは、魔法使いである彼よりもよほど傲慢で、ひどい子どもだっただろう。

「アーサー様がいなくなった……?」

ㅤずっと続くと信じて疑わなかった日常は、突然終わりを告げた。〈大いなる厄災〉のせいでもなく、誰かの呪いのせいでもなく、流行病のせいでもなく、アーサー様はいなくなった。そうしてわたしが許嫁だとも知らないまま忽然と姿を消した彼の生存を誰もが諦め、国王陛下がパレードやパーティーにお姿をお見せしないことが増え始めた頃、とある噂を聞いた。

ㅤ中央の国の王子は北の国にいる。

ㅤ果たしてそれが、誰から伝え聞いた噂だったかは忘れてしまったが、あんなに小さな子が北の大地にいると考えるだけでも恐ろしかった。アーサー様は生きていると信じていても、絶対にそうだと言いきれる確信はない。見つけ出して安心したかった。それでも、わたしは恐ろしい。わたしと彼のあいだに悠然と横たわる、人種の違いが──寿命の違いが、恐ろしかった。
ㅤその時点でもう、わたしはアーサー様を愛していた。弟ではなく、大事な男の子として。
ㅤだって、彼がくれた一輪の花を閉じ込めた栞を見る度に泣いてしまう。彼が好きだと言ってくれたマドレーヌをいつも余分に作ってしまう。雷を怖がる彼を抱きしめた時の、柔らかい髪の感触を思い出してしまう。
ㅤアーサー様をお慕いしている。だけどわたしは、永遠にも近い時間を生きる彼の、瞬きの間に寿命が来て死んでしまう。それは寂しく恐ろしいことに思えた。これ以上愛してしまうことを恐れるくせに、未練がましくも、生きていてほしくて何年も無事を祈り続けた。

「娘よ、そなたは何をしておるのじゃ?」

ㅤある日思い立ち、アーサー様をお探しするために一人で北の国境に向かったわたしの目の前に立ちはだかったのはすべてを飲み込みそうな雪と、星の光が霞むほどに大きな月の青白い光だった。古代生物が息づく森はどこからか獣の咆哮が聞こえてきて、肌を鋭く尽き刺すような冷たい風は絶え間なく吹き抜ける。寒さと恐怖に足がすくみ、帰りたくてたまらなかったけれど、魔物に襲われそうになったわたしを助けてくださった双子の魔法使いは「アーサーは生きておる」とおっしゃった。その言葉に、どれほど安堵したことか。
ㅤ会って行かぬのかとおっしゃった彼らに首を振ったのは、今以上に恋しいとは思いたくなかったからだ。

ㅤアーサー様が中央の国にお帰りになられるまでのあいだに、わたしは臆病になってしまっていた。彼に恋い焦がれ、離れた分だけ煮詰められた想いは、いつの間にか臆病さにすり変わっていた。
ㅤ数十年後も、彼はずっと若々しいお姿でいらっしゃるだろう。けれどわたしは年老いて、いつかは彼を置いて逝く。わたしはわがままだ。一生を共に添い遂げられないのなら、彼が人間であってほしかったと思った。彼がずっとずっと年上で、もうじきその命が尽きるというその時こそが、出会うにはきっと丁度よかったのだ。永い永い、星の一生のように永劫の時を生きるうちに忘れ去られてしまうのなら、アーサー様もただの人間であってほしかった、あるいは、わたしも魔女に生まれたかった。

「いかがですか? あなた様が人間だったならと願うわたしは妃の器ではないでしょう?」

ㅤもしくは、わたしが魔女だったなら。
ㅤずっとおそばにはいられないのなら、最初からおそばにはいたくなかった。彼も、魔法使いであることを受け入れられない許嫁にはうんざりするだろう。どんな用事があってこの屋敷までいらっしゃったのかはわからないけれど、今は一人にしてほしい。すべてを打ち明けておきながら、泣いている姿を見られたくはなかった。

「婚約破棄ならば受け入れます」

ㅤ婚約破棄が決まったら、わたしは新しい結婚相手を探さなければならない。ずっと年上の辺境伯でも、違う国の爵位持ちの男性でも、両親には一世一代のわがままを言ってきたのだから家のためになる婚姻ならばそれで構わない。わたしの肩に触れている手から離れようとすると、アーサー様は黙り込んだままわたしを抱きしめた。いつの間に、彼はこんなにも大きくなって、声も低くなったのだろう。止まらぬ涙が彼のシャツを濡らし、しゃくり上げそうになる声で「離してください」とお願いしてもまるで聞き入れてくださらない。

「それは……私を、愛してくれているということだろうか」

ㅤ小さくて、かわいくて、無邪気な王子様は、わたしの知らない男の人へと成長していた。なんとも聞こえのいい言葉を吐くものだと思いながらも胸元を押せば、それ以上の力で抱きしめられる。

「愛しています。ずっと昔から、お慕い申しております。けれど、わたしは」
「私もおまえを愛している」

ㅤ今、衝撃的なことを言われた気がする。天然で鈍いところがある彼のことだ、家族愛のことを言っているに決まっている。そうに違いない。違いないのに、彼の触れ合いは家族への抱擁のわりには長すぎた。

「私は、絶対におまえを忘れないよ」
「いいえ、無理です」
「ならば〈約束〉しよう。私は、何があっても──」
「なりません! 魔法使いが〈約束〉など……!」
「では、どうすればおまえは私を信じてくれるのだ?」

ㅤようやく離れてくださったアーサー様はわたしの前に跪き、宝石のようにきらめく双眸でわたしを射抜いた。

「そばにいてほしい。共に色々なものを見て、共に色々なものを知り、思い出を作っていけば、私はその中におまえとの記憶を見つけるよ」
「わたしはあなた様よりも先に歳をとって、醜くなります」
「私は、それこそが人間の美しさだと思うよ」

ㅤまったく歯が立たない。何を言っても、彼は何食わぬ顔で否定する。若くして政務をこなしている聡明な王子であることもすっかり失念していた自分自身に呆れつつ、徐々に追い込まれ、逃げ場がなくなり始めている状況に焦ってしまう。

「おまえが私の贈った花を大事にしてくれていて嬉しい」

ㅤ彼の手のひらの中で、栞に閉じ込めた花が鮮やかに咲いている。いつの間に見つけられたのか考える余裕なんてない。幼い頃にいただいた花で栞を作るなんて、わたしはとんでもなく恥ずかしいことをしている。

「ずっと、私の片想いだと思っていた。魔法使いである私など嫌いだと、他に好きな人がいるのだと、思っていた」
「アーサー様、離して──」

ㅤいやだ、と子どもじみた声で言う。身体も心も成長していらっしゃるのに、その物言いは叱られて拗ねる幼い子のようだった。こっちは恥ずかしくてそれどころではないのに、天然気質の王子様は「愛しているよ」と囁く。

「ナナ」
「わがままなわたしを、許さないでください……わたしは何度もあなた様と会うことを拒んで、傷つけました」
「私は怒ってなどいない。それなのに、許すも何もないだろう?」
「いいえ、アーサー様」

ㅤいやだ、と彼はまた言う。わたしは彼を愛しているけれど、それはなんの免罪符にもなりはしない。傷つけてしまった。悲しませてしまった。

「ならばおまえは、おまえのそばにいたいと願うわがままな私を許さなくていい」
「わがままだなんて……」

ㅤぽとりと落ちる涙を、立ち上がられたアーサー様に拭われて視界が明瞭になった。彼を置き去りにしてわたしだけが老いていくのは悲しくて、寂しい。けれど、彼の愛情を受け止めず、そばにいない未来のほうがずっとずっと恐ろしいのではないかと、彼と話しているとそんな気さえしてくる。

「ナナ」
「……」
「おまえの言葉を聞かせてほしい」

ㅤもう一度抱き寄せられ、彼の穏やかな心音が耳のそばで鳴り響く。わたしよりもずっとずっと遅いその鼓動はわたしたちの違いを象徴しているようにも思えたけれど、なぜだか悲観的には思わなかった。こんなにも違うからこそ、愛おしいと思ったのかもしれない。

「〈約束〉はしないでください。でも、わたしのわがままを聞いてくださいますか?」
「……ああ、聞こう」

ㅤずっとそばにはいられない。アーサー様は魔法使いで、わたしは魔女ではなく人間だ。

「わたしが死ぬ時は、どうかおそばにいてください」

ㅤだからどうか、無事でいてほしい。帰る場所があるのだと思ってほしい。
ㅤいびつで美しいこの世界が終わるより、月に世界が滅ぼされてしまうより、わたしは彼がいなくなることのほうが恐ろしい。彼さえ生きて、幸せになってくれれば、世界が救われなくともどうでもいいのだ。

「わたしの命が終わるその時まで、どうか、おそばに」

ㅤ10年以上前に、美しくも恐ろしい月が照り輝く吹雪の中で捨てたはずの居場所は、わたしの手元に戻ってきた。


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