沈没船の宝箱
ㅤ西の国の海には、
「賢者様の世界には人魚がいるのですか?」
「うーん……いないと思います。御伽噺ならありますよ」
「御伽噺ですか? 人魚は悪い魔物ではないのですか?」
ㅤネロ特性のふわふわオムレツを綺麗にたいらげたリケは、ひょんなことから始まった賢者との会話に身を乗り出し、無垢な両目を輝かせた。
「もう、ボクが先に聞いたのに!」
ㅤミチルが賢者の世界にある伝説に興味を示したのがすべての始まりだった。興味津々といった様子で賢者の話に耳を傾けているリケに面白くなさそうに唇を尖らせるミチルであったが、好奇心には勝てないようで、ぷりぷりと怒りながらも賢者が口を開くのを待っている。
「あの、逆に聞きたいんですけど、この世界に人魚はいるんですか?」
ㅤ賢者にとって、人魚は伝説上の生き物に過ぎない。元の世界には人魚の存在を信じている者も少なからずいただろうとは思うが、賢者自身は人魚を見たことはないし、信じているわけでもなかった。ただそれでも、ドラゴンやグリフォンなどの魔物が息づく異世界ならば人魚が実在するのではないか、という期待を抱かずにはいられなかった。
「教会の人たちは、男性を誘惑して船を沈没させる怪物だと言っていました」
「でも、実在はしないってフィガロ先生が……」
「そりゃあ、わんぱくなお子ちゃまたちを怖がらせるための方便だよ。人魚なんて存在しねえさ」
ㅤゼリーの載った皿をリケとミチル、そして賢者の前に置いたネロが肩を竦めながら笑った。真っ赤に熟れたルージュベリーがふんだんに使われているゼリーからはベリー特有の甘酸っぱい香りがする。
「ま、知りたけりゃ西の魔法使いに聞けばいいんじゃねえか?」
「おや、丸投げですか?」
「そういうわけじゃねえけどさ……西の国は人魚伝説発祥の地だろ?」
ㅤシャイロックは、決まりが悪そうに首裏をかいたネロを楽しげに見つめた。東の国の魔法使いの気質を好ましく思っているらしい西の国の魔法使いたちは、真面目な彼らを弄びたがるきらいがある。それは双方共に自覚済みなので、シャイロックの愉しむ気配を察したネロはリケの空の皿を持ってそそくさとキッチンへと戻ってしまった。
「行ってしまいました……」
ㅤネロにお礼を言い忘れました、とリケが肩を落としたのを見て、ミチルが明るい声でシャイロックに声をかけた。そんな明るい声につられ、リケもシャイロックとムルを熱心に見つめる。
「嘘であれ真であれ、素敵なお話ですよ。人間の欲によって滅びた失楽園なんて、欲にまみれた西の国らしい物語ではありませんか。ねえ、ムル?」
「そうだね! 俺も人魚の国を探したことがあるよ!」
「見つかりましたか!?」
ㅤミチルが前のめりで問う。好奇心旺盛な子どもらしい威勢のよさだ。
「あったのは海底の遺跡だけだよ。建造物や石柱に掘られた文字を解読しようと思ったけど、持って帰れなかった!」
「それって凄いことなんじゃ……」
「じゃあ、人魚はいるということですか?」
「わかんない! 地震によって海底に沈んだ、人間の古代都市かもしれないよ」
ㅤシャイロック曰く、藍色の楽園を夢見た人々はうつくしい人魚たちが住まう国を目指したけれど、人間たちの進化と文化の発展により楽園はとうの昔に朽ちてしまったらしい。人魚は夜空に浮かぶ月のように恐ろしげでうつくしく、その歌声はどんな怪我も病も癒し、その血肉を喰らえば人間が求めてやまない不老不死を得られる──そのような迷信が、長きに渡り語り継がれている。
「真偽のほどは定かではありませんが」
ㅤシャイロックの、どちらとも言えない締めくくりに子どもたちはさらに頬を紅潮させた。恐ろしい魔物はたくさんいるのだから、人魚がいたっておかしくはない。彼らの熱気と興奮を肌で感じて、賢者もこの世界に存在しているかもしれない人魚という生き物に思いを馳せた。
「はっ、人魚ね」
ㅤ海辺に暮らす者たちが、子どもたちを海に潜む危険から遠ざけるために用いた与太話が時代の流れと共に世界各地に広がった、という説もあるが、できたてのフライドチキンを骨ごと噛み砕く勢いで貪っているブラッドリーはその“与太話”を聞き終えるなり鼻で笑った。幼い魔法使いたちと賢者の夢を木っ端微塵に打ち砕くような、嘲る冷笑に食堂の空気がわずかに冷えた。
「ありゃあ、船乗りの嘘でもねえし、海辺の街が作り出した伝説でもねえよ」
ㅤが、ブラッドリーは存外にやわらかく笑った。誰も予想していなかった、懐かしむような、かつての友を思い出すような、北の魔法使いらしからない笑みにミチルもリケも瞬きを繰り返す。
「なら、誰かが作った創作話ですか?」
「いんや」
ㅤ油がついた指を粗雑に舐め、片手間に首を振って続けたブラッドリーは悪戯っぽい視線をミチルに寄越した。
「人魚はいるぜ。俺は見たこともあるし、実際に話したこともある」
ㅤ会話に参加していた魔法使いと賢者は黙った。あまりにも堂々とした物言いが、かえって嘘をついているように思えたのだ。
「……それ、本当なんですか?」
「てめえ……俺が言った途端に怪しみやがって!」
「ブラッドリーは! 会ったことがあるんですよね? どんな人でしたか?」
ㅤ訝しむミチルに凄んだブラッドリーの気を逸らそうと一気に捲し立てた賢者の作戦は見事に成功し、ぴたりと動きを止めたブラッドリーは苛立たしそうに椅子に座り直した。
「会ったのは何百年も前だ。覚えちゃいねえよ。いい女だったとは思うけどな」
「どこで会ったんですか?」
「盗みでしくじった時だ。凍った海で溺れ死ぬかと思ったが……気を失う直前に、目の前に月が落ちてきた」
ㅤ日頃から乱暴な口調が目立つブラッドリーの、詩的な言い回しに誰もが目を丸くした。
「あいつの目は月みてえだった。暗い海の中で、あいつの目だけが光ってんだ」
ㅤ賢者は想像する。絵の具で塗りつぶしたかのような真っ暗闇の中で、青白く光る双眸を。賢者の頭に思い浮かぶのは真夜中に佇む黒猫の瞳だった。こちらを見る、禍々しいほどに明るい瞳。
ㅤミチルが何度も問い、リケがブラッドリーの返答を咀嚼する。食堂には、子どもたちだけではなく、シャイロックやムルまでもが耳を傾けるという不思議な光景が広がっていた。
「あいつは人間の言葉を話せなかった」
ㅤブラッドリーの貫禄のある声は人を惹きつける妙な魅力がある。賢者は人魚との不思議な出会いを追体験しているような気分になって、話に聞き入った。
ㅤ場所は北の凍えるような海。傷だらけになっている一人の魔法使いが氷のように冷たい海の中でもがき、そしてついに息絶えようかという時、夜空に抱かれているはずの月光が目前に迫るのだ。生と死の間際に見るそのきらめきとはどれほどに狂っていて、うつくしかっただろう。
「たまに俺んとこに来るから、人間の世界のことを教える代わりに歌わせた」
ㅤしかし、時おり北の海にやって来るようになった人魚は忽然と姿を見せなくなる。どこかで死んだのか、それとも単に飽きたのか、真相はわからないけれど。
ㅤその当時を懐かしんでいるような気配がしたのでそっとブラッドリーの顔を覗き込むとやはり、彼は思い出をなぞるように笑っていた。
「綺麗なもんだよ。人魚の歌ってのは。人魚の歌声を求めた男が溺れ死ぬって伝説も、あながち間違いじゃねえのかもな」