屈曲花

「花はあまり好きではないの」

 そう曖昧に笑った彼女の手には、今しがた村長の御子に渡された花があった。
 馴染みの薄いそれは麓の町で買い付けたのだろう、彼女が僅かに萎びた花弁に目を落とす。伏せた瞳に長い睫毛が影を作り、宿した感情を隠していた。

 色彩豊かな者ばかりのこの地域で、彼女の無彩色な容姿は随分と目立った。黒い髪に黒い瞳、そして目にしたことのない象牙の肌。突然村の入口に現れた彼女は、この離れた陋屋にもざわめきが届くほどの騒ぎを村内に齎したのだ。
 そして、彼女自身もまた、何故自分がこの村にいたのかわからないようであった。気が付いたらここにいたという彼女が告げた、聞いたこともない国の名前。頻繁に異国の者が訪れる麓の町の住人の誰もが首を傾げるその地名は、少なくとも彼女がこの近辺から来たのではないと示すには十分のものであった。

 リボンで包まれ、身綺麗にされた花束を労わるように彼女が撫でる。
 傷ひとつない指先に載った桜貝。そのしなやかな手が紡ぐ異国の文字を、僕は知っている。字は書けないのだと嘯いた彼女が、本当は同じ形などひとつとしてないような繊細な文字を紡ぐことを。僕だけが知っているのだ。
 
「それは」

 身勝手な唇が、まるで僕の意思だと言わんばかりに沈黙を崩す。

「それは君が、名前を騙っていることと関係するの?」
「――どうしてそれを…」

 大きく見開かれた丸い瞳に、驚きと――安堵の色が滲んでいた。
 理由らしき理由なぞなかった。彼女が村長(むらおさ)に名を訊ねられたとき、ほんの数秒逡巡の間があった。一年前の、普通なら見逃してしまうような、ただそれだけの出来事。
 彼女は思い悩んだように唇を二度ほど食むと、ややあって幼子を宥めるように眉を下げて笑った。それはとても僕と同じ、十三の子供≠ニは思えぬような大人びた顔付きだった。

「おばあちゃんが言っていたの。見知らぬ土地に来てしまったら、あなたの名を隠しなさい。それはきっと神様の地、名を取られれば帰れなくなる≠チて」
「なら、君の名前は…」
「アズサミは梓巫女。母から継ぐはずの、あちらでの私の役目。……私の真名は珍しくもない、百花の花の名前なの」
「花の……?」

 意外だと思った。それが、表情に出ていたのだろう。相好を崩した彼女は再び花に目を向けると、語るような調子で続けた。

「野に生えている花が好きなの。日を浴び、水を蓄えた枝葉が伸び伸びと育つ様を見ることができるから。…こうして摘み取ってしまえば、それはもう叶わないことでしょう?」
 
 そう言って彼女は、随分と寂しそうに笑ったのだった。