翼の生えた女の子

 手入れもできず腰まで伸びた癖のある金髪を引っ張られ、小さな背中を殴られる。
 悲鳴と叫声を上げ続けた喉は切れ、まともな治療もされないこの環境下では癒えることもない。
 リュシーは今日も絶望と諦念を青い瞳に宿しながら冷たい地面に丸まり、大きな翼ですっぽりと身体を覆って眠りに就いた。
 寝息すらうるさいと怒鳴られるから、息を殺して、浅い浅い眠りに。


◆◆◆



 北の海(ノースブルー)にある小さな町。そのさらに奥まった場所――具体的には町から少し離れたところにあるこじんまりとした建物がリュシーが暮らす家だった。
 別に村八分(町だが)を受けているわけではない。町から離れているがために購入資金が安かったというのもあるが、何よりもリュシーには町の者たちに”内緒”にしなければならないものがあったのだ。

 リュシーはぼんやりと窓の外を眺めながら、いいなあ、と小さく口の中で呟いた。買い物に出た父と弟の帰りを待つだけというのは、何度経験してもつまらないものである。
 向かいに座っている母が苦笑したことにリュシーは気付いていたが、それでも窓から目を逸らす気にはなれなかった。

 リュシーは外に出られない。否、正しくは人前に姿を現すことができなかった。
 それは彼女の背中に生えた大きな翼が原因だ。両腕を広げてちょっぴりはみ出すぐらいの翼とは、リュシーが生まれたときからの付き合いである。
 リュシーにとっては自慢の翼だが、両親、特に父は口を酸っぱくして「絶対に家族以外に見られるな」と言い含めるのだ。朝昼晩毎日のように言われていれば二歳児でも理解できる。尤も、リュシーの二歳は五年前に終わったのだが。

「ねえ、ママ」

 リュシーは刺繍をしている母を見遣り、眉をキュッと寄せた。
 なあに、と優しく応えた母にリュシーはつん、と唇を尖らせる。

「ママはいやじゃないの? お外に出れないの」
「あら、気にしたことなかったわ」
「ママ……」

 そうだ、母はこういう人だった。リュシーは思わず呆れ顔を作る。
 半目の娘にクスクス笑うばかりの母は、元来のおっとりさからリュシーの反応など気にも留めていないようだった。

 この母、空島というまるでお伽噺のような空飛ぶ島に住んでいたのだが、おっとり≠ニうっかり≠ェ衝突事故を起こし青海に落ちてしまったのだという。
 紆余曲折あり父と出逢い今に至るらしいが、そんな経歴の持ち主だからか父は母との出会いを「天使が空から落ちてきたのかと思った」と必ず口にした。確かに母の背中にはリュシーと同じような羽が生えているが。

 けれども母の羽はリュシーと比べると随分と小さく、弟がしているみたいに上にポンチョでも羽織ればバレないだろうなと思えるほどであった。
 母がわざわざ家に残っているのはリュシーのためなのだろう。そのことを察せるくらいにはリュシーは人の感情に敏い。

 それにしても、とリュシーはふと思う。恐らくリュシーの翼は母譲りだと思うが、一体なんだってこんなに大きくなったのか。ここまで大きいと上着を羽織った程度では誤魔化せないというのに。
 まあ、可愛い弟はリュシーの翼に目を輝かせてくれるし空を飛ぶこともできるので、やはりリュシーにとっては自慢の翼に違いなかった。家に籠りっきりのせいで交友関係ゼロのリュシーにとって、四つ下の弟は目に入れても痛くないほど可愛いのだ。

 再び窓に目を向け、リュシーはあっ、と青い目を輝かせる。そのまま玄関に駆け出し、両手が塞がっている父のためにドアを開けた。

「ミカ、パパ、おかえり!」
「ねぇね、ただいまっ」
「ただいま、リュシー」

 父の片腕に抱かれていたミカがこちらに手を伸ばすのを見て、リュシーは慣れた手付きでミカを抱っこした。軽々、とはいかないが、三歳のミカを抱えるくらいは問題ない。
 ぎゅ、とリュシーの首に抱き着くミカの銀髪を撫でながら、リュシーは父を見上げた。背の高い父は幼いリュシーが目いっぱい上を見ないと顔が見えないのである。

「パパ、今日の町はどうだった? 何かおもしろいものあった?」
「そうだなあ、今日は港に海軍が来ていたよ」
「海軍! 海軍って、わるい人をやっつけるんでしょ?」

 いいなあ、見てみたいなあ、と憧憬を瞳に宿すリュシーの頭を父が大きな手で撫でる。
 リュシーと揃いの青い瞳が申し訳なさそうに下がっているのを見て、リュシーはキュッと唇を結んだ。

 リュシーはまだ幼いが、決して物分かりが悪いわけではない。家から出られないリュシーに少しでも退屈させないようにと父が頻繁に買ってきてくれる本を読んでいるリュシーは、一般的な七歳児よりも知識が豊富なのだ。
 だから、リュシーの背中にある翼が世間一般から見ると奇異に映ることも、好奇の視線に晒されるだろうことも理解していた。
 理解はしていても感情を抑えることができないのは、リュシーがまだ幼いからに他ならないのだけれど。

 ぐるぐると考え込むリュシーの袖を、誰かがくん、と引っ張った。見れば、ニコーと可愛らしく笑うミカがちんまい手でリュシーの服を掴んでいる。可愛い。とても可愛い。

「ねぇね、おそらとぼ?」
「お空飛びたいの? じゃあお庭行こっか」

 よいしょ、とミカを抱え直し、リュシーは勝手口に向かった。家の裏にある庭は広いうえ死角にあるため、リュシーの翼を広げるにはもってこいなのだ。

 ミカを庭に下ろし、脱がせたポンチョを畳んで置いておく。現れたミカの背中には一対の小さな白い翼が生えていた。ぱたぱたと小さく動くそれに、リュシーは眦を緩める。
 リュシーの翼と違い、ミカの羽はミカの体重を支えて飛べるほど発達していなかった。今後リュシーと同じ大きさまで成長するのか、あるいは母と同じ大きさで止まってしまうのかはわからないが、リュシーに手を引かれてほんの数センチ飛ぶだけでも喜ぶミカを見ていると、せめて飛べるぐらいの大きさは、と思ってしまう。

「ねぇね、もっと! たかいたかい!」
「うーん…。じゃあ、引っぱるのは危ないから抱っこしようね」
「うんっ」

 ミカを抱え上げ、リュシーはふわりと飛び上がった。ばさり、と幾重にも重なった羽根が重たい音を立てる。どんどん高くなっていく視界にきゃあ、もっともっと、とはしゃぐミカを見て、リュシーはさらに高度を上げた。
 上げて上げて、もっと、と強請るミカに応えてまた上げて――ついには屋根よりも高く、リュシーは飛んだ。

 両親の言いつけを破り、人の目に触れる場所へと。リュシーは飛んだ。飛んでしまった。

 まず、目が合った。珍妙な被り物だと思った。
 次いで、男がこちらを指さした。明らかに成人しているのに失礼な人だと思った。

「なんだえ、あれ! 羽が生えてるえ、欲しいえ!!」

 羽と言われ、リュシーは慌てて胸の中に抱いたミカを翼で覆い隠す。見られた、見られてしまった。というか、欲しいってなんだ。まるで玩具を強請る子どもみたいじゃないか。明らかに成人しているのに!
 庭に下りて翼を畳み、リュシーは急いでミカにポンチョを被せた。角度的にミカの姿は見られていないだろうが、用心するに越したことはない。

 両親にも知らせなければとミカと手を繋いで勝手口に向かったところで、やけに家の中が騒がしいことに気付いた。
 食器が割れる音、母の怒声、父の悲鳴。
聞いたことのない騒動に怯えたミカがリュシーの手を強く握る。リュシーもまた、ミカの手を握り返す。…こわい。一体この扉の向こうで何が起こっているのだろう。

 足が竦んだリュシーの鼓膜に、耳を塞ぎたくなるような、一際大きな音が届いた。
 刹那、家の中が静寂に包まれる。
 母の絶叫。
 近付く足音。

「――…ミカ」

 咄嗟だった。ミカをここにいさせてはいけないと、そう思った。
 リュシーはミカを抱えて庭の奥に急いで駆けると、木の中に隠した。不安げに揺れる揃いの青い瞳に微笑み、リュシーはミカの銀髪をゆっくりと撫でる。

「ミカ、ミカエル。かくれんぼしよ。ミカが隠れるの。ねぇねがいいよ≠チて言うまで、絶対出てきちゃダメだよ」
「ねぇね?」
「今日は百まで数えるから、絶対見つからないとこに隠れてね。おうち以外もいいよ、町に出てもいいから」
「ねぇね、どうしたの? いたいいたい?」

 ミカの手がリュシーの頬に当たる。ミカの指先が濡れているのを見て、そこで初めてリュシーは自分が泣いていることに気付いた。

「ッだいじょうぶ、痛くないよ。だからそんなに悲しい顔しないで」

 乱暴に涙を拭い、リュシーは精一杯の笑みを浮かべた。
 ミカを、弟を安心させてあげたかった。

「…ねえミカエル、約束して。その羽はだれにも見せちゃダメ。羽が生えてるって教えるのもダメだよ。ねぇねと、ママと、パパとの約束」

 最後にミカを優しく抱きしめ、リュシーは庭へと足を進めた。胸騒ぎは尽きなかったが、父と母が心配だったのだ。

 勝手口の戸は開け放たれていた。
 戸を塞ぐようにして立つ、珍妙な恰好の男と黒いスーツの男。リュシーは立ち竦んだまま、ゆっくりと視線を落としていく。
 男たちの足の間から見える力の抜けた腕に、リュシーは引き攣った悲鳴を漏らした。

「………………ぱ、ぱ…?」

 赤い。赤い色だ。ママがまたトマト落としちゃったのかな。お掃除しないと。パパも手伝って。パパ。パパ?あれ、パパが寝てる。ダメだよ。床で寝たら汚いんだよ。パパ。パパ。ねえパパ。パパってば。ねえ。

「ママ、パパがうごかないの」

 どうして? と首を傾げたリュシーを、母はいつの間にか強く強く抱きしめていた。ママいたいよ、と文句を言っても、どうしてか母は腕を緩めてくれない。
 誰が見てもそれが血であると理解できるのに、けれどもリュシーの心は理解を拒んでいた。

「この女、私を睨んでるえ!? 下々民が私を!!」

 珍妙な恰好の男が騒いでいる。なんだか水の中で聞いているみたいだった。ぼんやりしていて、喋っているのはわかるのに何を言っているのかは理解できない。ぼやぼや。ぼやぼや。うるさいなあ、とリュシーは思う。
 コトリ、と下げた目に、真っ赤に染まった床が映った。見れば、リュシーの両手も真っ赤になっていた。どうして鉄のにおいがするんだろう。へんなの。
 こんなにトマトを落としたなら、今日のご飯もトマトなしのミートソースパスタなのかもしれないとリュシーは思った。ママがうっかりしたときのご飯。ちょっぴり味の薄い、赤くないパスタ。……。

――ドン、とまた大きな音がした。
どうしてか、ママがリュシーに覆い被さるように倒れてきた。

「…。……? …まま?」

 ぎゅう、と眉間に皺を寄せた母が、苦しそうに喉奥で呻く。
 母に抱きしめられているせいで、母の身に起きていることがリュシーにはわからなかった。それでも母の向こうで珍妙な恰好の男が騒いでいて、スーツの男がそれに何かを返していて。それだけはなんとなくわかった。

「ま、ママ、ママ…!」

 町外れに家があることをこんなにも悔やんだことはない。きっと町中であれば、誰かしら助けてくれただろうに。
 だってママが苦しんでる。肩を押さえて、苦しそうにしている。
 リュシーに心配させないためにか、母がゆっくりと口角を上げた。額に滲んだ汗が玉を作っている。寒くもないのに、リュシーの指先は震えていた。

「…ぁ、ママ…あの人……」

 母の背中に隠れない、大きな男が家に入ってくる。白い軍服に白いコート。父に聞いていた海兵の恰好だった。
 リュシーは安堵の息を溢し、その男を見上げる。悪い人をやっつけてくれる人だと聞いた。町を守ってくれているのだと聞いた。だからきっと助けてくれると、青い瞳に希望を滲ませリュシーは叫んだ。

「たすっ…! たすけて、海兵さん…! わるい人をやっつけてッ」

 強張った咽喉が上げたのは、もはや悲鳴であった。
 リュシーの目と海兵の目が、寸瞬ばかり交わる。
 そして――つい、と逸らされ、次に目が合ったときには鏡面のように凪いだ瞳がそこにあるだけだった。

「海兵さん……?」
「ノブレン聖。出向の準備が整いましたので、ご用事が済み次第お声掛けください」
「海兵さんっ」

 リュシーの言葉に反応することなく、まるで何もなかったかのように男は家を出て行った。悪い人がママとパパに意地悪しているのに、何も起きていないかのように。
 リュシーは言葉を失った。信じていたある種のヒーロー像が崩れてしまったのだから当然である。
 けれどもそれ以上に、母を安心させるために知らせた言葉が母を傷つけているのではないかと考えると怖かったのだ。

「リュシー…ルシフェル…。私の可愛い子」

 ぽんぽん、と母があやすようにリュシーの背を叩く。
 その声にリュシーははっと意識を戻した。

「あなたは…優しいから……ミカエルを置いて、戻ってきたんでしょう…。今のもよ…ありがとう……」

 小さな小さな声は掠れていて、なんだかちょっぴり聞き取りづらかった。

「…逃げなさい。ミカエルを連れて、遠くに」

 こんなに近くにいるのに、ママからするのは石鹸の匂いじゃなかった。どうしてだろう。パパと同じ、鉄のにおい。

「……大丈夫。あなたなら、できる」

 肩で息をし、母は命の全部を注ぎ込むように言葉を繋げた。

「さっきからごちゃごちゃうるさいえ。さっさと始末するえ」

 また、大きな音がした。
 母の腕がだらりと下がる。
 涙の滲んだ目をそっと細め、母は柔らかく微笑った。

「愛してるわ、二人共」



 気付いたら音が消えていた。
 リュシーは自分の足元に倒れた母に目を向けたまま、満足に動くこともできなかった。ミカと逃げないといけないのに。ミカを守らないといけないのに。
 力が抜けた足は立つこともできず、ぺたりと座り込んだリュシーは事の成り行きを見届ける他なかった。

 スーツの男がリュシーの右手を捕らえる。
 ずるずると足を引き摺られ、「うるさいえ」と言われると今度は肩に担がれた。

「その女の羽は枕にでもするえ。お前、切り落として来いえ」

 スーツの男が増える。
 ノコギリが握られている。
 ボキボキと音が鳴る。音が鳴る。音が鳴る。あ。
 白い白いママの羽。小さなふわふわの白い羽。赤く変色したそれが、ママの背中からごとり、と落とされた。