天竜人=B
 それがあの男を指すとリュシーが気付いたのは、比較的すぐのことであった。

 初めて見た町の光景をリュシーは今でも覚えている。
 男の通り道にいる者すべてが土下座をし、海軍はまるで意思のない機械のように男の言う通り。王様のように尊大な態度と、子どものように無邪気な残虐さで自らの(ほしいまま)にする馬鹿げた存在。
 そして何より、天竜人以外のすべての人間を物≠セと認識していることが不可解で異常で――………恐怖だった。

 どうして周囲が男の言動に従っているのか、リュシーは今でも理解できない。

 バシンッと足に打たれた鞭が、リュシーを現実に引き戻す。
 白く細い脚は真っ赤なミミズ腫れが数十ヶ所。それはこの狭い檻に閉じ込められてから経った日数と同じ数であった。
 痛みを訴える足にゆっくりと力を込める。口から漏れ出そうな呻吟は、唇を噛んで必死に抑えた。

 リュシーのご主人様≠ヘリュシーが悲鳴を上げると蹴飛ばしてくるのだ。それは何もリュシーに限った話ではなく、リュシーと同じ頃に連れて来られた女が悲鳴を上げるたびに天竜人に蹴られて動かなくなっていくのを、檻の中から固まって見ていたのはごく最近のことである。

「今日はこれを皆に見せびらかすえ。きっと驚くえ」

 天竜人に鎖を引かれ、リュシーは息苦しさに顔を引き攣らせる。
 重たい身体を動かすことは酷く困難で、リュシーは引き摺られるように歩かねばならなかった。

 小さな体に不釣り合いな重たい首輪と、重石代わりの靴の枷。そして項に押された蹄の烙印。それが奴隷となったリュシーに与えられたものだ。
 裸足の奴隷も多いのに、天竜人はリュシーが飛んで逃げないようにとこの重たい靴を宛がった。家に引き籠っていたリュシーは日がな一日裸足でいることも多く、硬いだけのその靴はリュシーの不自由さの象徴とも言えた。

 もしも地獄があるのなら、きっとこんな場所なのだろうとリュシーは思う。
 母の優しい起床を促す声は、革の鞭に。
 舟を漕いで掛けられる毛布は、冷たい水に。
 頭を撫でてくれた父の大きな手は、振り被られた拳に。
 ミカの甘えたような呼び名は、物を示すそれに。

 栄養失調で倒れた男が殺された。子どもと引き離されて哭いた女が殺された。夫の名を呼んだ女が殺された。暇潰しに殺された。飽きたからと殺された。
 生きているのに死んでいるような、そんな奇妙な感覚だった。


「こいつちっとも笑わないえ! あれと同じ子供の奴隷なのに、なんで笑わないえ」

 頭を思い切り殴られ、リュシーは尻餅を着く。前髪の隙間からそっと窺い見れば、玩具が気に入らず癇癪を起こす子どものように天竜人が何事かを喚いていた。
 思い起こされるのは、出先で遭遇した別の天竜人の奴隷の少女。年の頃はリュシーと同じくらいで、ニコニコと何をされても笑っていた。

 その目に怯えがあったことだけが、まだ彼女が正常なのだとリュシーに教えていた。

 リュシーは天竜人の前では常に笑顔を作るようになった。
 怒鳴られても殴られても蹴られても、天竜人に媚びるために拙い笑顔を貼り続けた。昨日殴られて切れた唇が痛んでも、今朝ぶたれて腫れた頬が引き攣っても、リュシーは懸命に笑顔を作り続けたのだ。
 そうすると天竜人の機嫌は少しばかり良くなった。
 いつもより多めの、乾いた小さなパン一個分。それがリュシーの笑顔の対価だった。
 尤も、毎日食事が与えられるわけでもないのだから微々たる差には違いないのだが。

 頭の中の冷静な部分が、馬鹿みたいとリュシーを鼻で嗤う。両親を殺した相手に媚を売るなんて馬鹿みたい、と。

 本当に、その通りだと思った。

 一人きりの狭い檻の中、リュシーは汚れの目立つ枕をぎゅう、と抱きしめた。
 リュシーの血で随分と汚れてしまったそれは、元は天竜人のものである。
 母の羽を切り落とし、羽根を毟って作られた天竜人の枕。リュシーがマリージョアに来て、僅か三日で捨てられてしまった母の一部。
 鉄の匂いの中に混じる微かな石鹸の匂いが、リュシーの心を繋ぎ止めていた。疲弊した脳裏に残る家族との思い出が、今のリュシーの生きがいだった。


 その日、リュシーがいつものように檻に戻ると枕がなくなっていた。
 ちょっと首を動かせば見渡せるほどの小さな檻だ。見落としているというのはまずありえなかった。

 すとん、と力なく膝を着く。
 手を伸ばし、四つん這いになってリュシーは檻の中を歩く。
 一周して、二周して、三周して。けれども母の残り香が香る枕は、どうしたって見つからなかった。

 捨てられのだろうか、とリュシーは思う。天竜人がリュシーの檻に入らなくても、他の奴隷に廃棄を指示することはできるだろう。
 リュシーが大事にしている枕だと他の奴隷が知っていたとしても、わざわざ天竜人に逆らってまで取っておくだなんてとても考えられなかった。

 結局その日は一睡もできず、リュシーは翌朝フラフラとした足取りで天竜人の自慢のために連れ回されるのだった。


◆◆◆



「お嬢ちゃん、ちょっといいか」

 じゃらり、と鳴った鉄の音に、リュシーはその声が奴隷のものであると察した。潜めた声にリュシーは数秒固まる。

 奴隷が話しかけてくることはめったにない。天竜人に支配されたこの場所で奴隷が声を出すことがあるとすれば、悲鳴と絶叫ぐらいのもの。自分が生きることに精一杯だから、慰みに誰かと話そうとする気すら起きないのだ。
 だからリュシーは今この場に天竜人がいないとわかっていても、すぐに反応することができなかった。マリージョアに来て恐らく初めて、リュシーは奴隷以外の役割のために呼ばれたのだ。

 僅かに緊張を解いた身体でのろのろと振り返れば、年上の男──もしかしたら、父と同じくらいの男がそこにはいた。

「これ、お嬢ちゃんのだろ?」

 男はそう言うと、骨に近い指で何かを摘み上げた。
 ひらり、と揺れたそれにリュシーは目を見開く。白いふわふわとした羽根は、母のそれに違いなかった。

 なんで、と唇を動かす。音にならない空気が地面に溶ける。
 震える両の手を恐る恐る差し出せば、男は丁寧にリュシーの手の上にそれを置いた。

「お嬢ちゃん、あの枕やけに大事にしてただろ。汚いからって天竜人に捨てるよう言われたやつがいてな、わけ話してちょっとばかし分けてもらったんだ」

 男は頬骨が浮き出た頬を人差し指で掻くと、唇の片端を吊り上げた。

「本当はもっと早く渡したかったんだけどなあ。たいした道具もねぇから加工も(むず)くって、こんなに遅くなっちまった」

 よく見ると、確かに付け根辺りに銀色の部品が嵌め込まれている。リュシーが小首を傾げると、男はリュシーの気持ちを汲み取ったのか「ああ」と口を開いた。

「そこはこう摘むと取れるんだ。ほら、尖ってる部分が出てくるだろ。要はピアスだな。…ペンダントにするには材料が足りなかったんだよ」

 バツが悪そうな顔をする男に、リュシーは手の中の母の残滓を見つめ──…涙を流した。
 ぽろぽろと絶え間なくリュシーの青い瞳から流れる涙に、男が慌てる。
 すわ余計なことをしたかと小声で叫ぶという器用なことをした男に、リュシーはゆるゆると首を横に振った。

「……まあ、なんだ。俺はここに連れて来られてそこそこ長いんだ。なんかあったら、あいつらがいないときにでも声かけてくれ。気晴らしぐらいにはなるだろ」

 リュシーは枯れた声で何度も何度もお礼を言って、戻ってくる天竜人のために笑顔を作った。
 ほんの少しだけ、胸の奥底にある何かが軽くなったような気がした。