天降
しんしんと降り注ぐ雪の中、銀世界の真上を飛ぶリュシーの背にはいつのまにか淡雪が積もっていた。
次第に水分を含み始めたそれは痩せた身体には重く、ゆらり、ゆらりと飛行のバランスが崩れていく。
せめて建物の場所だけでも把握しようと翼を動かすと、雪景色に混ざる赤と茶を見つけた。
茶色は土を踏んだ靴による足跡だろう、建物に続いているかもしれないと期待し、リュシーはそれを辿る。
「…人?」
大の字に転がる、黒い人影。周りを囲むようにして、インクを落としたみたいな赤が雪に滲んでいる。
それはおそらく血痕だった。
翼を揃え、急降下したリュシーは、雪煙を上げて人影の近くに着地する。
黒いファーコートを来た長身の男。ルージュが縁取る唇は笑みの形を保ち、赤茶の瞳孔は見えていないのか、空を見上げたまま何度か長い瞬きを繰り返していた。
酷い出血だった。銃で撃たれたと思われる穴が複数、露出している部位には殴打痕、加えて頭からも血を流している。
「だい、大丈夫ですか!?」
膝をついて男に呼び掛けるも反応はない。無理やり意識を保っているらしく、瞼がどんどん下がり、浅い呼吸は小さくなりだしていた。
このまま放っておけば死んでしまうだろうことは、誰がどう見たって明白だった。
傷の具合を確認しようとシャツを開き、リュシーはすぐに後悔した。だって、あまりにも酷かった。
桃色の肉、その奥に覗く弾丸。その数は軽く十はある。
赤黒く腫れ上がった腹部は骨が折れているのか変形している箇所もあった。ギリギリとはいえ気絶せずにいられているのがおかしいほど、男の怪我は重傷だった。
「
とにかく応急処置だけでもしようと、リュシーは男の傷に覆いかけるように両手を掲げた。ふわり、と柔らかい光の粒子が男の身体を包み、その傷を癒していく。
しかしその途中、リュシーは異変に気付いた。傷の治りが遅い。否、置き換え≠ェ足りていないのだった。
リュシーは過去に治療を行った際、無意識とはいえ最も健康に過ごした一年間≠置き換えた。今回も同じように男の 健康に過ごした一年間≠使って治療にあてようとしたのだが、どういうわけか止血すらできていない。
…よほどこれまでの人生が悲惨だったのだろうか。日常的に怪我をしていたのだとしたら、一年では足りないのも納得がいった。
リュシーは何度か能力で置き換える。四年分≠使ってようやく応急処置が完了し、リュシーはコートの重さと置き換えて軽くした男を背負い、見つけた空き家に運び込む。
入ってすぐにあった暖炉に薪をくべ、部屋を暖めながらリュシーは男の治療を再開させた。
◆◆◆
ぱち、ぱち、と聞こえる小さな音に、ロシナンテは重たい瞼をそろりと持ち上げた。
霞がかった視界に石の天井が映る。ちらつく仄かな明るさに緩慢な動きで頭を動かせば、暖炉の中で燃える薪が小さく爆ぜていた。
――ここは、どこだ。
覚醒した脳に従い、ロシナンテは素早く身を起こす。その際ついた左手がシーツの上を滑り、バランスを崩してごつん、と壁に頭をぶつけた。…痛い。と、いうことは……。夢じゃ…ない?
後頭部を摩りながら周囲を確認していき、ロシナンテは傷んだ木枠の窓から見える景色が、自分が気を失う直前までいたミニオン島と同じであることに気付いた。
部屋が随分と暖まっていることを鑑みるに、この部屋に連れて来られてかなりの時間が経っているはずだ。
少しでも情報を集めようとベッドから出れば、ばさ、と黒いものが床に落ちた。
見れば、そこにはロシナンテがいつも着ていたファーコート。どうやら自分を温めるため、薄い毛布の上から掛けられていたようだった。
ふと、コートを拾った腕から痛みが消えていることに気付く。そういえば、あれほど痛かった腹もすっかりよくなっていた。
シャツを捲って確かめてみれば、驚いたことに自分の腹には傷跡ひとつすら残っちゃいない。
(一体誰がこんなことを……)
鉛玉を撃ち込まれ。臓腑のある場所を執拗に攻撃され。ドクドクと流れる血脈を感じながら、ロシナンテは確かにあのとき己の死を間近に見ていた。なんなら、天使の幻影すら見えていた。
そも、あれだけ血が流れていたのだ。完璧な応急処置を施したところで、もって数分の命。助かる見込みはなかっただろう。
けれども現に今、ロシナンテは地に足をつけて立っている。五体満足で、縫合の跡すら残さずに。
「――…まさか」
ロシナンテの脳裏に、ひとりの子供の姿が過る。
珀鉛病に蝕まれた、白い少年。オペオペの実を食べさせた、己を慕ってくれた男の子。
ギィ。建てつけの悪い戸が、向こう側から開かれ音を立てる。
ロシナンテははっとしてそちらに目を向けると、震える唇で「ロー、なのか…?」と問いかけた。
「…………あっ」
はたして、ロシナンテの期待は外れていた。
ローよりも幼い金の髪の少女。ロシナンテのそれよりも色素の薄い髪は癖があり、膝よりも長く伸びている。
空の色をした瞳がほんの少し見開かれ、彼女が手に持った欠けたグラスに力が入った。
「…君は……」
「通りすがりで…その……勝手に、治療を。ご、ごめんなさい」
「いや……。えっと、一人で、やったのか?」
「…? はい」
「そう、か」
「……ぁ、な、何か、都合が悪かった、ですか…?」
僅かに滲んだ落胆に気付いたのか、少女は慌てたように、どこか怯えたように言葉を紡いだ。
ロシナンテはあ、と思ってしゃがみながら、ニコリと笑顔を作る。距離が近付いたことで少女の身体が小刻みに震えていることがわかり、ロシナンテは数秒言葉を失った。
「………や、ありがとうな。おかげで助かった」
「…よかった、です」
少女の強張った肩から僅かに力が抜ける。
弱々しく、やけに遜った反応は、ロシナンテ自身に怯えているというよりも、そうならざるを得なかったためであるように思えた。
おずおずと少女にグラスを差し出され、ロシナンテは怯えさせないよう、表情のひとつにすら気を配って受け取る。
心配そうにこちらにチラチラと視線を寄越す少女に苦笑しながら、ロシナンテはその水を一気に飲み干した。
「あの、お兄さん…に、説明しないといけないことが」
すると、部屋のすぐ外に置いていたのか、少女は大きな姿見を引き摺って持ってきた。
そのとき、ちらりと服の隙間から垣間見えた暴力の痕跡に、ロシナンテは知らず眉を曇らせる。
「鏡を…見てもらっても、いいですか?」
「ん? ああ、わかった」
少女の指示に従い、ロシナンテは鏡の前に立った。
「………………………………………………………………は?」
そこには今よりも幼い、十代後半に差し掛かったぐらいのロシナンテが呆けた顔で突っ立っていた。