だから彼女は手にかける
あの日、口に入れられたものが所謂悪魔の実≠ネのだと気付いたのは、リュシーが自身の身に起きたことをどうにか呑み込んでしばらくした頃のことであった。
僅かに小さくなった手のひらと、低くなった視界。細くなった手足のために、少しばかり緩くなった枷。
窓に映ったリュシーは幾分か幼くなっており、それはちょうど奴隷となった当時の姿によく似ていた。
チカチカの実。それがリュシーが食べた悪魔の実の名だ。
物、概念を問わず、置き換えることを可能とする能力。リュシーが運悪く生き残ってしまったのも、この実の力によるものだ。
リュシーの最も健康に過ごした一年間≠生死に関わる怪我の治癒≠ノ置き換えたことで、リュシーはあの日を生き延びた。
多くの奴隷が死に、ニックが死に。それでも途切れることなく朝が来て、夜が来た。
そうしてまた二年、リュシーは無為に日々を過ごしている。
◆◆◆
リュシーが奴隷となって四年。あの日を生き延びた奴隷たちも一人、また一人と殺されていき、ついにリュシーは屋敷で最年長の奴隷となった。
もともと胸まであった金の髪は膝裏まで伸び、幼い好奇心を宿していた青い瞳は暗く、光をなくしていた。
そして、ズタズタに切り裂かれ、化膿していた小さな背中。チカチカの実のおかげで癒えたそこには傷跡こそあれど、堂々と鎮座していた一対の大きな翼はすっかり姿を消していた。
リュシーはその翼がどこにあるかを知っていた。
この屋敷の、天竜人の
まるで昆虫の標本みたいに、ピンで固定され、ガラスの額に仕舞われ。色褪せた半身が“物として”そこに飾られている。
バランスを取ることさえ難しかった軽い身体は、虚しくもこの二年で扱い方を覚えてしまった。
冷たい檻から大人数を収容する牢に移され、日夜続く誰かのすすり泣きや嘔吐きにも慣れてしまった。
どこまでもどこまでも続く終わりのない地獄に、幼いリュシーが死を渇望し始めるのはきっとおかしな話ではない。
それでもリュシーが呼吸を止めないのは、男からもらった母の形見があったからだ。
檻の天井に隠していた羽根のピアス。未だに天竜人に見つからずにいるそれが、リュシーの心の拠り所であり蜘蛛の糸であった。
その日、使用人の奴隷に混ざって屋敷の掃除をしていたリュシーは、聞こえてきた言葉に足を止めた。
気配のする方を探ってみれば、閉じ切っていない扉をひとつ見つける。息を殺して耳を聳てる、やはり聞き間違いではない。
羽。翼。その単語が示すのは、この屋敷においてリュシーただ一人であった。
「…の奴隷の羽は惜しかったえ。標本もいいけど、生えてるのも欲しいえ」
「だったらまた拾ってくればいいアマス。人間屋ヒューマンショップにでも行ってみるアマスか?」
リュシーはひゅ、と息を詰まらせた。
掃除用具を握っていた手から力が抜けそうになり、慌ててその場を離れる。心臓が激しく脈打ち、呼吸が乱れる。どうして。どうして。頭の中を途方もない思いがぐるぐる回る。
羽の生えた人間を、リュシーは家族以外に見たことがない。家から出たことがないので当然とも言えるが、父の言葉から、羽を持つのは母の故郷の空島の者とリュシー、そして弟のミカだけであると悟っていた。
ママは殺された。リュシーは翼を盗られた。空島は存在しないと思われているから、きっとそこまで辿り着かない。
残っているのはミカだけなのだ。リュシーよりも幼い、リュシーの知らない場所で四年の月日を過ごした、たった七歳のミカだけ。
「……と」
リュシーの唇が、無意識に言葉をかたどる。
青い瞳に炎が宿り、とぐろを巻いて再びかたどる。
「…殺さないと」
もう二度と、失うことのないように。
◆◆◆
牢を抜け出すのは簡単だった。奴隷たちの疲労度合を睡眠時間に、身体の自由を縛る首輪や枷を綿に置き換える。格子はクレヨンにしてしまえば、十歳の――身体は九歳のリュシーでも容易に脱出することができた。
奴隷として連れ回された四年間で、リュシーは屋敷の構造を完璧に把握していた。奴隷部屋、妻たちの部屋、浴室、
馬鹿と金持ちは高いところを好む。少なくとも、このマリージョアではそうだった。
正妻である天竜人の部屋、息子の部屋。
そして、その上の最上階。そこがリュシーをここに連れて来た、両親を殺した天竜人の自室である。
見張りは各部屋の前に二人。鍛えた大人の男を同時に二人も相手取るのは、能力があれど不可能だろう。
そもそもリュシーは天竜人を殺したいのであって、人間を殺そうとは思っていなかった。
記憶を辿り、侵入経路を探る。出入口は扉と窓。通気口も通れるだろうが、場所を探すには時間が惜しい。
(…屋敷のカギは、ほとんどかかってなかった)
複数のボディーガードと、己を偉い存在だと誤認することによる危機感の無さ。
ボディーガードが固める扉は疎か、最近まで玄関の鍵も設置されていなかったのだから、その程度は計り知れる。フィッシャー・タイガーが奴隷解放をやり遂げたのも、恐らくその辺りに要因があった。
リュシーは踊り場に設置された窓を見上げる。宵闇に輝く満天の綺羅星。かつて焦がれた空。
(…空……そら…?)
リュシーははっとして自身の髪に目をやった。
膝裏まで伸びた、金色の髪。毎朝母が梳かしてくれたそれは随分と傷んでいて、癖のままにうねり、跳ねている。
そ、と手に取った髪を撫でる。強くそれ≠イメージし、リュシーは縋るように呟いた。
「…
はたして、それはうまくいった。
ふわり。淡い光がリュシーを包み込み、その背を、髪を、優しく照らす。毛先から消えていく髪の代わりに、懐かしい重みが背中に加わっていく。
記憶のある通りに背中の筋肉を動かせば、ばさりと、羽が開いた。
肩に届かないほど短くなった髪は、リュシーの半身である翼へと姿を変えていた。
窓を開ける。
空に飛び出す。
身体の真ん中が宙ぶらりんになる感覚。
風の流れを羽が掴む感覚。
無くしていた。戻らないはずだった。仮初めにすぎないとわかっていても、今ここにあるのは確かにリュシーの翼だった。
「…っ、…、…!」
ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる。夜空を旋回し、翼をはためかせる。歓喜に喉が鳴る。素足を風が包む。
ぐるり、と上下に反転した世界、ぼやけた世界にリュシーはそれを見た。
天竜人の部屋、その窓。
すでに暗くなった室内に差し込む月の光が、盛り上がったベッドの上の塊をぼんやりと照らしている。
「……」
見つけたそれにリュシーの心は急速に萎み、忽ち光を吹き飛ばした。
カーテンの隙間から覗く、上下する布団。
手のひらに伝わる、ひやりとしたガラスの温度に目を細める。
ほんの少し力を入れただけ、それだけで窓は音もなく開いた。
カーテンを捲り上げ、窓枠に足をかける。
翼を畳む。
身体を滑り込ませる。
リュシーはまるで導かれるようにして、静かにそのベッドへと近付いた。
足の裏がタイル張りの床にぺた、ぺた、と貼り付いてくる。ひたひた、と、ぺたぺた、と、リュシーを追い抜くことなく。
「…――」
ぴたり、足を止める。
見下ろしたベッドの上で、正妻の天竜人は寝息を立てていた。
肌艶の良い、かすり傷すら見当たらない白い肌。
リュシーと同じ翼のある人間を求めるがために提案したもの。ニックを、殺したもの。それが、まったくの無防備な状態で目の前にいる。
「………」
リュシーは天竜人の顔先に手を翳した。ゆっくりとその手を横に動かし、胸の、ちょうど心臓の真上で止め、なんの感慨もなく「
「ッ…」
一瞬、天竜人の身体が浮いた。
眉根を寄せ、強張った手が彷徨う間もなく布団に沈む。苦しそうに「っ、う…」と唸り、色のない液体を吐き出し――――絶命した。
身体中の血を水に置き換え、リュシーはいとも簡単に人を殺した。殺してしまったのだ。
「………………。………」
指先が震える。呼吸が乱れる。
声の出し方を忘れ、息も、どうやってしていたのかわからなくなる。
殺さないと。
息が、いきが、ちかちかする。違う。目の前が、視界が、しろく、くろく、ちかちか、ちかちか。
は、とリュシーの肺が空気を求める。その音は存外大きく響き、静寂に溶けた。
リュシーは再び窓枠に足をかけ、降下し、風に乗る。
殺さないと。
飛び上がり、高さを保ちながら部屋を探す。
窓を見つける。
侵入する。
殺さないと。
ベッドに横たわっている天竜人に手を翳す。
呻き声。
脱力する身体。
殺さないと。
「…」
最上階、最後の部屋。リュシーは躊躇うことなく窓を開け、室内に入り込む。
膨らみ、大きく上下する布団を前に、リュシーは動きを止めてじっと目した。
父を、母を、路傍の花を踏み潰すようにしてこいつは殺した。母の羽を奪い、リュシーの翼を奪い、ミカまでを奪おうと、こいつは。
背筋を冷たい汗が伝う。ごくり、と喉を鳴らして、リュシーは能力を使おうと唇を開いた。
その刹那。
「うぅ〜…ん……」
警報のような大きな寝言が闇を切り裂き、リュシーの鼓膜を振動させる。
もぞもぞと芋虫のように寝返りを打つ天竜人に無意識に息を止めていると、ややあって静寂が戻ってきた。その様子に、リュシーはひそかに安堵し顔を上げる。
目が合う。
間。
「…? ……おまえ」
思わず、リュシーは後退る。
黄色い目玉。黒い肌。無精髭。それらがすべてリュシーに向いている。
「お前、なんでこの部屋にいるんだえ」
背中に何かが当たった。
がしゃん、と大きな音が響き渡る。
砕けた何かが月の光に照らされ、視界の端で輝く。
「外の! さっさと来るんだえ! 奴隷だえ、奴隷が入り込んだえ!!」
天竜人が叫び、扉の向こうにいる二人のボディーガードが慌てて部屋に押し入ろうとしているだろうことが見なくてもわかった。
踏み出した足の裏が何か硬いものを踏んづけ、リュシーは反射的に床に目を走らせる。
それは、元は立派だったであろう、壊れた花瓶だった。不揃いに割れたガラスの破片はいくつか濡れていたが、暗闇の中では色を判別できず、ただ黒くしか見えない。
それは、随分と衝動的な行動だった。
一際大きな破片を、リュシーはむんずと両手で掴んだ。
天竜人はまだ唾を飛ばしている。
ドアに目を向けているのをいいことに、リュシーは背後からその首を思いきり切り裂いた。
頬に、服に付いた血を水に置き換える。この程度なら、乾くのにたいした時間はかからないだろう。
勢いよく開かれた扉の音を合図に、リュシーは腰掛けていた窓枠から飛び降りた。
「オイ、待て!!」
落ちて、落ちて、地面すれすれになって広げた翼はぐんっ、と身体を空へと持ち上げる。リュシーはそのまま振り返ることもせず飛び続けた。
北の海、故郷のあるノースブルーを目指して。ミカを見つけ出すために。