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 ――気が付けば鬱蒼とした森の中、まるで何かに追われるように裸足で駆けていた。

 後ろを見ても誰かがいるわけでもない。ゆっくりと速度を落としていけば、今度はヒリつく喉ともはや痛みすら感じる空っぽの腹が気になり始めたのだから現金なものである。
 どこかに川か木の実でもないかとあちこちに視線を彷徨わせ、結局再び歩み出てみれば体感一時間ほどでそれを見つけた。

 一言で言えば変なモノ。唐草模様にぐるりと覆われたその実は、まだ熟していないのか青い。
 けれども空腹の身には勝てず、柘榴のような形をしたそれを一口齧った。

「ぁっず!?」

 渇いた喉はまともな音を発さなかったが、今はそんなことどうでもいい。苦いやらすっぱいやら甘いやら、果ては塩辛いときた。
 この実はたぶん人間が食べていい代物ではない。食に拘る日本人からすれば兵器である。
 ぐるぐると胃の中に留まる不快感に何度も嘔吐いたが、吐くのも体力を使うため途中で諦めた。習慣的に口の中に入れたものを飲み込んでしまったのがまずかったらしい。くそう、後味に渋さと辛さがきてやがる。

 その後、もしかしたら皮を食べたのではと石を使って取り出した中身を食べてみたが、残念なことに味は最悪なままだった。這って川を見つけなければ、あのまま死んでいたのではとすら思う。誇張でもなんでもなくそれくらい不味かった。


「うげ、まだ口の中に残ってる気がする……」

 ジリリリと鳴り響くアラームを止め、髪を手櫛で整えながら起き上がる。そのまま適当に縛って洗面所に行き、五回ほどうがいをした。夢の中で食べた物の味が残っているだなんておかしなことがあるわけないので、気持ちの問題である。今日行けば休みな分まだマシかもしれない。

 着心地のいいパジャマを脱ぎ、見られる人間に擬態するための化粧を施す。帰りたいなあ、とまだ家を出てすらないのに口をついた言葉に、溜息をひとつ溢した。


◆◆◆



 誰かが泣いている。高い声はおそらく子どものものだ。遊んでいた子どもが転んだのかもしれない。最近は暑くて網戸にして寝ているから、外の音がよく聞こえるのだ。
 今日は休みだし、子ども連れが近くの公園に来ているのだろう。時間を確認しようとスマホを手探りで探せば、指先にざらりとした砂のようなものが付着した。……砂?

 不審に思って目を開ければ、そこはやけに薄暗かった。真っ暗では眠れないからと豆電球を付けているにもかかわらず、だ。
 ちなみに電球の色は橙なので、こんなに灰色じみた暗さのはずがない。
 それ以上におかしいのは、私が座ったまま寝ていることである。
 昨日は一週間頑張ったご褒美にアイスを食べたが、酒は一滴も飲んでいない。そもそも私は父の遺伝でアルコールに弱いため、普段から家に酒類はストックしていないのだ。
 つまり、酔って外で寝てる可能性もゼロ。というか自分のベッドに入るところまでしっかり覚えているので、結論は早かった。

「夢だな、これ」

 やけに意識がはっきりしている感も否めないが、そこはまあ明晰夢というやつだろう。夢なら好き勝手動くかと立ち上がり、お尻を叩く。確認すれば多少の汚れが残っていた。思ったよりもリアルな夢である。

 辺りを見るに、どうやら路地裏にいるらしい。大きなゴミ箱は中身が溢れ、ネズミやカラスが突いている。私は夢の国のお姫様ではないので、病原体の三文字を忘れずしっかりと後退った。夢で現実的な行動をしている時点で私も大概だな……。

 ふらふらと路地裏から出れば、途端、刺すような日差しが目に入り日除けを求めてフードを被った。
 てっきりパーカーでも着ているのかと思ったが、改めて見ると中世ヨーロッパの町娘のような格好をしている。いや、中世ヨーロッパの町娘の格好なんて知らんけど。なんかこう、雰囲気的に。

 泣き声は依然として続いている。特に目的地もないため声の聞こえる方向に足を進めた。随分長いこと泣いてるなあと角から顔を出すと、お目当ての人物が見つかり「おっ」と思わず声が出る。
 金髪の二人の男の子は恐らく兄弟なのだろう、顔は見えないが服装からしてやはり海外が舞台らしい。
 声をかけてみるかと近付いたところで足音に気付いたのか、髪の短い方の男の子が勢いよくこちらを振り返った。待ってこの子どもサングラスしてるんだけど。

「…! お前も殴りに来たのかえ!?」

 いや特徴的すぎる語尾だな。目は見えないが恐らく睨んでいるのだろう少年に合わせてしゃがむ。その背後の長い前髪で目が隠れた少年は私に気付くなり、怯えたようにしゃくりあげて黙ってしまった。なんかごめんね…。

 殴りに来たのかって言ってたし、迫害でもされているのだろうか。仕立てのいい服は所々破けて泥にまみれており、ズボンから伸びる足は子どもであることを鑑みても随分と細い。
 彼らの傍に転がったカビたパンを確認し、ふむ、と顎に手を当て数秒思案した。

「な、なんだえ」

 サングラスの少年は訝しげに私を見遣ると、じりじりと後退った。なんなら後ろの男の子を守るような体勢をしている。どうにか警戒を解こうと、私はおどけたように笑ってみせた。

「あー…あっ、私が手を叩くと林檎が現れるの術! …なーんて」

 え、と思わず言葉が漏れた。私の手の中に現れたツヤツヤとした赤い果実…言うまでもなく林檎そのものである。明晰夢なら思い通りにできるかなとは思ったけれど、まさか本当に林檎が出てくるとは。
 好奇心の赴くままに手を叩いていけば、ぽんぽんぽんっと手品のように次々と林檎が現れた。正直めちゃくちゃ面白い。そして案の定私の周りは林檎の山が出来上がっていた。うん、調子に乗りすぎたわ。

「…えーっと、たくさんあるから持ってってくれないかな?」

 サングラス越しの少年の目がリンゴを睨みつけていることに気付き、試しに一つ手に取って食べてみれば、少年はほとんど奪い取るようにして山からリンゴを三つ取った。
 ええ…もしかして毒だと思われてた?そんな殺伐とした世界観なのか、この夢。
 少年の後ろであわあわしていた子も、恐る恐るといった様子でリンゴを一つ両手に持つ。そのままサングラスの子に手を引かれて駆け出して行った二人の後ろ姿を見送ったところで目が覚めた。