序
ヒステリックな金切り声を上げ、テストの答案用紙を片手にガミガミと身にならない説教をする女に、だるいなという感想を抱いたことに少なからず驚く。いい子だから我慢しないとなんて言う私と、いやこんなんただの虐待だからと吐き捨てる私とで意見が分かれ、頭の中がぐちゃぐちゃになった。
まず、状況を整理しよう。私は友人がストーカーに襲われる現場に居合わせ、彼女を庇ってナイフで刺されたはずだ。お腹をグサリ。真ん中辺りだったし臓器にまで刃が届いていたのではなかろうか。出血量も多かったし。まあ、死んだと結論付けていいだろう。
それがなんだ。目が覚めたら幼女になっていて? 知らん女に怒られていて? しかも見せられているテスト用紙は98点で? これはあれか。世に言う毒親のもとに生まれたということか。2点なんて誤差だろ、見逃せよ。気にしていいのは本人だけで、周囲がとやかく言うことじゃないだろ。
「何よその目は!!」
「うるさい……」
「なんですって!?」
「あ」
やっべ声に出てた。
振り被られた手のひらを避ける間もなく、頬に思い切り撃ち込まれる。噛まされた平手打ちの衝撃で床に倒れ込んだ私を遠目から目を見開いて眺める兄弟を最後に、プツリと意識が途切れた。
◆◆◆
突然だが、前世の記憶を信じている人間はどの程度いるものなのだろうか。宗教的な意味で信じている人もいるかもしれないが、大多数の人間が「寝言は寝て言え」と鼻で笑うはずである。
実際、私も経験するまではそうだった。
前世の私は中学高校とエスカレーター式の女子校、ついでに大学も女子大に通っていた。大学に関しては共学でもよかったのだが、感銘を受けた教授が在籍していたのと就活のサポートが手厚いこともあり、結局10年間女子校育ちとなってしまったのだ。
そんな私には中学時代からの親友とも言うべき友人がいた。彼女の名を仮にAとする。Aはとにかく、ものすっごく、やべえやつらを寄せ付ける体質だった。
道を歩けば不良に絡まれ、電車に乗れば痴漢され、帰路に就けばストーカーに遭い、ポストを開ければ盗撮写真が雪崩を起こす。通っていた小学校の教師が五人ほど性犯罪関連で捕まったと聞いたときには、女子校を選ぶのも無理ないわと思ったぐらいである。あのときの彼女はいつも以上に死んだ目をしていた。
ところがどっこい、そうは問屋が卸さないというのが世の常というもの。
出たのである。ストーカーが、校内から。
それすなわち、加害者は女子生徒。当時高等部に在籍していたAを付け回していたのは、なんと部活の後輩だったという。動機は痴情。Aに恋慕していた彼女は、止めてくれたであろう理性を振り切って犯行に及んだのだ。
ちなみに具体的な内容はAの体操着と楽器を盗み、帰宅するAの後を尾け、血で書いたラブレターを下駄箱に入れたというもの。Aは吹奏楽部に所属していた。被害楽器の名はフルート。彼らの用途についてはどうか聞かないでほしい。
この日以降、Aの輝いていた綺麗な瞳から完全にハイライトが消えた。
彼女の目を見るたびに、「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ」という有名な一説を思い出したものだ。
それでも性格が変わったわけではなく、Aとの付き合いが途絶えることはなかった。
というか、途絶えたらAが洒落にならないレベルで死にそうだったため離れようと思ったことすらなかったというのが本当のところである。
何を隠そう、前世の私はAの護衛のような役割を担っていたのだ。
絡んできた不良の腕を捻り上げ、捕まえた痴漢を駅員に突き出し、見つけたストーカーを拘束して証拠と共に警察署に出向き、割り出した盗撮犯を馴染みの警察官に引き渡す。
毎回申し訳なさそうな顔で謝るAは見ていられなかったが、どうしても放っておくことができず気付いたら首を突っ込んでしまっていた。
文句を言ってからお礼を言ってくれるようになったAは死んだ目こそ元に戻らないが、出会った当初よりも顔色がよくなったので私としては後悔していなかった。そもそも自然の摂理のようにやべえやつをホイホイするAの体質がおかしいのだけど。お祓いを勧めたらすでにやったことがあるとの返答だった。なお、効果はいまひとつである。
そんなAと一緒にいた私だが、幸いなことに第六感というべきか、とにかく人の倍以上は勘が働いた。これのおかげで修羅場を潜り抜けたことも何度もあるくらいだ。
何かやばそうだなと感じて人や場所を避ければ、大抵それらにはなんらかの問題があるとあとでわかる。Aには大変羨ましがられたこの能力だが、実際は意外と不便なのだ。酷いときは頭痛や耳鳴りがずっとしてるし。
まあ、今は別の理由で頭痛がしているのだけど。
ビンタによる一時的な気絶から目を覚ました私を心配するでもなく、母親と思しき女はむんずと腕を引っ掴んだと思えば、私を引き摺ってどこかの部屋に投げ入れた。娘に対する扱いとは思えないほど雑。
キッと目の端をつり上げた彼女は、こちらを睨むような勢いで口を開く。
「いいこと? そのプリントをすべて終わらせるまで、部屋から出ないでちょうだいね」
バタン! と口調とは裏腹に乱暴に閉められた扉を茫然と見る。次いで、外側から鍵を掛けられる音がして完全に閉じ込められたことを悟った。
さて、長々と前世を振り返るという名の現実逃避をしてみたが、これは一体どういうことなのだろうか。情報量が多すぎてわけがわからん。
部屋に連れ込まれる前にチラ見したカレンダーの西暦は私が生きていたそれよりずっと前のものだったし、過去に転生したということなのだろうか。なんだ過去に転生って。何をどう考えてもやっぱりわけがわからなかった。
ひとまず情報収集が基本だろうと部屋の中をひっくり返しはせずとも動き回れば、数ページ抜き取ったハードカバー本の中に日記帳を見つけるというスーパープレイをやってのけた。今の私は目星でクリティカルを出したに違いない。
どうやらこの日記帳は私がこの家――灰谷家に引き取られてから毎日欠かさず付けているものらしい。ずいぶんとマメなことである。
薄いページを躊躇いなく捲り、あまりの内容にすぐに顔を顰めた。
私の生みの親とあの女は従兄妹関係にあったこと、両親は離婚していること、父親の手によって育てられていたが彼が警察に捕まったため施設にいたこと、色々あってこの家に来たこと、あの兄弟──双子の兄達とはあまり仲が良くないこと、あの女――従叔母は所謂教育ママというやつで徹底的に”いいこ”になることを求められていること、一日のノルマを達成しなければご飯を抜かれること、従叔父から変な目で見られることがあるということ、エトセトラエトセトラエトセトラ。
およそまだ十にも満たない少女が経験していい出来事じゃない。特に後半に関してはヤバさとキモさが濃縮されたような内容である。教育も行き過ぎると虐待になるってご存じ? あとその変な目って、まさかペドフィリア的なアレじゃないですよね??
初っ端から人生ハードモードじゃねえか…と頭を抱えてその場に蹲った。この世界の運営に問い合わせをしたい、切実に。
「……ノルマやるか」
腹が減ってはなんとやら。のそりと起き上がり、本日の夕飯を得るべく机に向かう。
渡されたプリントは両面印刷された20枚の計算問題だった。簡単なかけ算わり算の問題だ。私の年齢ではまだ習っていないというのが注釈に付くが。
適度に間違えながら問題を解き終えると、視界の端で何かがチカチカ光っていることに気付いた。顔を上げれば、ゲーム画面のような表示が目の前に広がっていた。
もう一度言う。ゲーム画面のような表示が目の前に広がっていた。
「なになになにこれ怖っ」
思わず椅子ごと後退る。けれども当然のことながら表示が消えることはなく、依然として電子の文字は浮かび上がったままだ。まさかここ、ゲームの世界?私はいつからプレイヤーになったんだ。
おまけにピロンと軽快な音まで鳴ったものだから、「ひっ」と短く悲鳴を上げた。心臓に悪すぎる。
すると、そんな私を見越してか画面にポップな文字が踊り始めた。
「……『やべえやつ図鑑』?」
その下には、『見つけて、集めて、やべえやつ!』とおよそ背景の勉強机に似合わない文体が並んでいた。さらにその下には画面をタップしてね! とゲームでありがちな表示。
不審に思いながらそろそろと人差し指で押してみれば、死刑宣告に等しい文字列が現れた。
「『大変! あなたには今、やべえやつらに会わないと死ぬ呪いがかけられています!』? ……いや、元気よく言うことじゃないでしょ」
しかもその呪い、心当たりがあるんだけど。
実は死ぬ間際、ストレスが溜まっていたAに言われた言葉そのままなのだ。正確には、「やばい人に遭わないと死ぬ呪いがあったら、真っ先にあんたにかけるわ」だったが。あのときのAは一週間連続で不良に絡まれ、一日に痴漢される回数が過去最多だったことに加え、ストーカーによる夜中のピンポン連打のせいで酷い寝不足だったのでまあ仕方のないことだと思う。
理由を訊いたところ、あんたも私とどっこいどっこいなのにひとりだけ危機回避できるなんてずるいということらしい。なんだ、どっこいどっこいって。私はAほど不審者に遭遇したことなんてないんだけど。
そのあとは前述した通り。Aを付け回していたストーカーからAを守ろうとしてナイフでグサリ。今に至るというわけである。
Aの心情もわかるし、彼女を責める気は毛頭ない。
……ないのだが。
「それはそれとして愚痴が絶妙に嫌なやつなのはやめてくれ……」
転生なんてファンタジー経験をした身なので、信じ難い現象も大抵のものであれば受け入れられるようになっていた。どうしよう、本当にやべえやつらに会わないと死ぬとかだったら。そもそも『やべえやつ』の定義を教えてほしい。
ピコン! と脳内にメッセージの受信音が鳴り響く。
それと同時に、酷い頭痛と耳鳴りが始まった。椅子に座ることすら満足にできず、床に転がり落ちる。胸の辺りが苦しい。霞がかった視界に、『やべえやつらと接触しよう!』というテロップが浮かんでいた。ふざけんなこれでどうやって接触しろっていうんだ!
「ねえ、ちょっと。返事ないから勝手に入っ……は、なに? え、」
直後、耳に誰かの声が届く。あの女じゃない。それはたしかだ。蹲る私の肩に手を置いたその人物は、たぶん私の尋常じゃない様子に少なからず驚いているらしい。肩を握る手に力が込められているのがわかる。
「おいっ、しっかりしろ! おい!! くっそ……っ。 兄ちゃん、ちょっと来て! 早く!!」
そこで初めてこの人物が双子の兄弟の弟だとわかった。なまえ、名前なんだっけ…。どっちも花の名前だっていうことは覚えてるけど。
じわりじわりと耳鳴りが収まってきて、だるそうな声を鼓膜が拾った。たぶん、兄のほうの。開け放したドアから聞こえてくる足音がだんだん大きくなる。それに比例するようにして、頭の痛みが弱まっていった。あ、これガチのやつだわ。
兄の「何これ、どういう状況?」という戸惑ったような声をぼんやりと聞きながら確信する。あれ、つまりこの二人はどちらもやべえやつらってこと…? そういえば日記にも、最近学校で兄達の暴力行為が目立つとか書いてあったような。なんでもお相手方を病院送りにしたらしい。うん、疑いようもなくやべえやつらだったわ。
床に爪を立てながら、よろよろと起き上がる。弟のほうが慌てたように身体を支えてくれたので、素直に甘えることにした。仲良くないってことだったけど、流石に病人に対する優しさは持ち合わせているみたいだ。
「雅〜、どうした? なんかあったか?」
「ちょっと(前世を)思い出しただけ…大丈夫……」
違った。強制デスゲームに巻き込まれたからだった。
やっぱりまだ混乱しているようで、頭を押さえてキツく目を閉じる。しばらくそうしていればだいぶ楽になった。酷使させられた心臓はまだドクドク脈打っている。
うるさい視界を無視することもできず、焦点を合わせた目に飛び込んできたのは酷い文字列だった。
<チュートリアルは以上です。がんばって図鑑を完成させよう!>
どうしよう。前世の記憶が戻ったばかりなのにこの世の理不尽にすでに泣きそう。雅ミャー