無事に灰谷家から逃げ、私は別の家に預けられた。教育ママもペドパパも物騒兄弟もいなくなり、私の生活には束の間の平穏が訪れている。
家を出る前日は本当に怖かった。日記に書いてあるほど攻撃も口撃もされないしおやつの分け合いっこまでしていたからてっきり仲良くなったのかと思っていたのに、あろうことかあの兄弟ひとの首に噛みついてきたのだ。めちゃくちゃ痛くて涙が出たし、その涙は舐められるし、噛み殺されるかと思った。やべえやつってそういうこと? 将来殺人犯になるよ的な意味なの?
チュートリアル終了後から視界の左端には『図鑑』のウィンドウが表示され、物騒兄弟――灰谷蘭・竜胆の顔写真と身体的特徴、のみならず大まかな性格まで埋まっているのを見たときは恐れ戦いた。私の知らない情報まで載ってるんだけど…。転生特典と片付けるにしても少々異質だ。
おまけにページの一番下にはルート分岐が記されていて、灰谷兄弟の項目は『懐柔』のみが文字付で濃く表示されていた。なに、懐柔って。それ、あの兄弟を懐かせたって意味で使ってる? こちとら殺されかけたんだぞ目腐っとんのか。
とはいえ流石に死ぬのは勘弁なので、視界を支配するゲーム画面に大人しく従って早数年。
アップデートでもしているのか、気付いたら追加機能ばかりになっていた。ノベルゲームみたいな選択肢とか、お小遣い稼ぎ用のミニゲームとか。
何かと治安の悪いこの世界では(場合によっては)便利な機能だが、それはそれとして強制エンカウントを促すのは本当にやめてほしい。チュートリアルがトラウマとなって以降逆らう気力はないのだが、自分から進んでやべえやつらに会いに行かねばならないことに対する心的疲労が凄まじいのだ。
これのせいで最近怪我も増えているので、新しくできたばかりの友人達にいつも心配されるのというのもあった。ごめん。走ってたらゴミ箱に躓いて転んだとか、エスカレーターの段差で転んだとか、飛んできたボールを避けられなかったとかそういうのばかりなんだ…。恥ずかしくて絶対言えないけど。
こんなことならナイフで刺されたほうがまだよかった。刺された箇所が熱くなって指先からだんだん寒くなってくる感覚は嫌なものだが、頭痛と耳鳴りと目眩と動悸の欲張りセットが一度に来るよりもだいぶマシである。
背中にランドセルの振動を感じながらこっちの家に引き取られてから仲良くなったメンツと下校していれば、見慣れた女の子がこちらに手を振っていた。真っ先に駆け寄っていく友人をぼんやりと眺める。
「三人共、今帰り?」
乾赤音さん。同級生である青宗のお姉さんだ。
なんと一が想いを寄せている相手でもあるらしく、二人の関係性は灰谷家という殺伐とした空間にいた私の荒れた心の癒しとなっていた。いいよね、歳の差。年下の一が積極的なあたりが特に。
Aがバイト先で店長(40代妻子持ち)に迫られたという苦い記憶を打ち消し、青宗と共に二人の後ろを歩く。どちらもフリーなこともあるが、一の純情さが素直に応援する気持ちにさせてくれるのだ。
もちろん赤音さんが嫌がっていたら友情を犠牲にしてでも止めるが、彼女も彼女で満更でもなさそうなのでニマニマと観賞させていただいている。まあ、私の表情筋まったく仕事しないんだけど。
理由は不明だが、私の表情筋は喜怒哀楽を表す仕事を完全に放棄していた。終始真顔。笑う練習は功を成さないし、現在の家では愛想がないと陰で言われている。ないんじゃなくて出せないんだよなぁ。面倒だから何も言ってないけど。
ピロン、と通知を告げる軽快な音が鳴り、ベルのマークに目を移す。
余談だがこの画面、指を動かさなくても視線だけで操作できるようになったのだ。これで虚空を指差す変な子どもと思われなくて済む。すでにクラスメイトとできている気がする壁は気にしない。なんなら先日の授業参観で廊下を通るだけで保護者に避けられモーセみたいになっていた。なんでだ。
歩行に邪魔にならない場所で展開されたメッセージに目を通すと、今までのミッションより比較的楽そうな内容となっていた。
一と赤音さんと一緒に図書館に行けって…なんで今更? 今までだって行ったことあるのに。
内心首を傾げながらひとり帰宅を告げる青宗を見送り、三人で図書館へと向かう。相変わらずここの蔵書はたくさんあって目移りするな。しかも子どもの身体だからか、スポンジのように物を覚えられて勉強に楽しみを見出してしまった。いやまあ、いいことなんだけどさ。
背表紙に指を滑らせ、何冊か抱えて戻ろうと棚の間から席を眺めれば、なんと寝ている赤音さんに一がちゅーしようとしていた。はわ……同級生が少女漫画してる…!
くるりと右向け右をして棚に隠れ、会話が終わったことを確認してから席に戻った。同級生に見られてたなんて知りたくないよね、という私なりの気遣いである。ほら今思春期だし。
そろそろ帰ろっか、という赤音さんの言葉に従って外に出る。冬も近付き始めたことから、夕方にもなれば辺りはすっかり暗くなっていた。肌寒さに腕を摩れば、空気が乾燥しているせいでヒリヒリと痛んだ。お風呂から出たらちゃんとクリーム塗ろう…。
「あれ、お前上着は?」
「……あ」
一に指摘され、カーディガンを身に付けていないことに気付く。道理で寒かったわけだ。図書館は暖房が利いていたから、脱いでしまったのだった。
半分ほど道を進んでしまったが、明日も着るつもりだったので引き返すより他ないだろう。面倒だけど仕方がない。
「大丈夫? 暗いし、付いていこっか」
「平気。走っていくから」
チラチラと赤音さんを見る一の様子も気になるし、お邪魔虫は大人しく退場することにしようじゃないか。
じゃあねと手を振り、来た道を駆け足で戻る。あんまり遅いと図書館が閉まってしまうし、おばさん達にも怒られる。あの二人、世間体を気にするタイプだからそういうの厳しいんだよな。
座っていた席まで行けば予想通り椅子に掛けられたカーディガンがあった。かといって走って温まった身体にはすでに必要はなく、畳んでランドセルに仕舞っておく。疎らになった図書館を早歩きで飛び出し、時間を気にしながら再び駆けた。
余談だが、図書館から私の預け先までの道のりには乾家がある。ひとりで図書館へ行った帰りにぼんやりと眺め、止まっていない車に共働きで遅くまで仕事って大変だな…と二人の両親に勝手に同情したりしていた。
まさかそれで、火災現場の目撃者になるなんて思わなかったけれど。
熱風が頬をじりりと焼く中、野次馬に視線を滑らせ青宗と赤音さんの姿を探す。あの二人結構目立つ見目をしているのに見つからない。まだ中にいるってこと?
燃え盛る乾家へと焦点を定めれば、半透明な選択肢が視界を占拠した。
<乾家に……>
▼飛び込む
▼飛び込まない
「飛び込むに決まってるでしょ…!」
なんで今出てきたんだ選択肢! イライラしながらランドセルを放り投げて乾家に突入する。後ろから呼び止める声が聞こえてきたが無視だ無視。
何度か来たことのある室内は炎に侵食され、赤く染まっていた。飾られた家族写真が焦げていく様を横目に、玄関を進んでリビングの手前まで土足のまま進む。するとまた選択肢が出てきた。しつこい!!
<どっちに行く?>
▼一階
▼二階
迷っている時間すら惜しく、直感で二階を選ぶ。煙は上に行くし、二階に人がいたときのほうが被害が大きいと思ったからだ。
決めた途端自動的に駆け上がっていく足に導かれるまま、並ぶドアのうちのひとつを蹴り上げた。
ドアノブ触ると火傷するからっていうのは理解しているけど、身体の持ち主に何か一言言ってから行動してくれないかな!? 普通にびっくりしたんだけど!
「っ、赤音さん!!」
ベッド脇に倒れた女の子に、思わず駆け寄る。まずい、意識がない。火事で亡くなる原因は一酸化炭素中毒によるものが多いのだ。現段階で気を失っているってことは、中毒症状に陥っている可能性が高い。
二枚重ねの服を脱ぎ、赤音さんの口と鼻を覆うよう頭の後ろで袖を結ぶ。負ぶって逃げようと力のない身体を背中に乗せるが、立つことが叶わず膝を着いた。くっそ、ここで身長差…! 前世なら余裕で背負えたのに!!
そうこうしているうちに火の手が入り口付近にまで迫り、出るに出られない状態へと追い込まれてしまった。じわじわと炎を避けているうちに、気付けば窓際まで後退っていた。
……こういうときに出てこいよ選択肢!! さっきまでの件なら謝るからさあ!! 小学生の身体だとできることに限りがあるんだよ知らないとは言わせないからな!!
窓から飛び降りるにしても、打ちどころが悪ければ二人揃ってお陀仏だ。私がクッションになろうにも、おんぶしきれていない現時点で体格差によって赤音さんの上半身が私の肩から前へ出ている。これじゃあ後ろから飛び降りても前から飛び降りても赤音さんが確実に怪我をするだろう。このままここに居たら死ぬだろうが。
刻一刻とタイムリミットが迫る中、ふと聞き慣れた通知音が脳内に響いた。
「コマンド操作…!?」
土壇場での新機能に喜ぶべきか否か。とにかく使えるものは使え精神で上左上右と視線を移動させる。どうしよう、緊迫とした空気なのに視力検査にしか思えない。
<コマンド入力成功!>
途端、グッと身体に力が入り、あれだけ持ち上がらなかった赤音さんの足が床から離れる。一歩二歩と後退し、ダンッと力強く踏み込んだ右足をそのまま窓に振り下げた。
バリン! 窓が割れる。
宙に浮いた身体が地面に近付いていくのがスローモーションのように流れ、足からダイブするように着地した。ジン、と足全体に電流染みた熱が走り、そのまま尻餅を着く。痛みに顔が歪むのを唇を噛んで耐え、横たえた赤音さんの口許に手を翳した。よかった……ちゃんと息してる。生きてる。……生きてるんだ。
「ちょっと君、大丈夫か!?」
「すみません、救急車が来るまで彼女をお願いします。それから火傷部分に水をかけてあげてください!」
「あ、おい!」
近くにいた男性に赤音さんを頼み、再び乾家に入ろうと足を踏み出す。刹那痛みが駆け抜けるが、歯を食い縛って交互に足を出していった。
あの選択肢を考えると、一階にも人がいたはずだ。時折よくわからないタイミングで出てくるけれど、意味のない選択肢が出てきたことは今まで一度もない。
それなら、青宗はまだ中に。
ぐらつく身体を叱責して、前へ前へと進む。駄目だ、駄目だ駄目だ。走らないと間に合わないのに。こんな調子じゃ間に合うわけがないのに。暑さのせいか痛みのせいか額に脂汗が滲み、頬を伝って流れた。は、は、と意図せず短くなる呼吸。
「人が出てきたぞー!!」
バッと顔を上げれば、人を背負った小さな体躯が乾家から出てくるところだった。
「青宗!」
「雅……?」
頭をもたげた彼の頭上から、タオルが落ちる。顔の左側に痛々しい火傷があったが、しっかりと意識があった。ぽろ、と安堵からか涙が零れる。ぎょっとしたような顔をする青宗に「無事でよかった」と喉を鳴らした。
「お前、なんで泣いて……ていうか、泣けたのか…」
「……一?」
聞き覚えのある声に振り向けば、火傷対策だろう布を取り外した一が立っていた。
この様子だと、どうやら青宗を助けたのは彼のようだ。私が飛び込んだときよりも燃えてるんだけど、いつ突っ込んだんだろうか。
「赤音さんは無事。手当をしてもらえるよう頼んだの」
「っ本当か!? よか、よかった……!」
目を潤ませる一を促し、赤音さんのところへ行かせる。遠くのほうから響く救急車のサイレン音に、やっと来たかと肩を撫で下ろした。いやあの、できるだけ早く駆け付けてくれたんだろうなっていうのはわかるんだけど、当事者としてはやっぱり遅く感じるわけで。すみません、言い訳はやめます。
「赤音を助けたんなら、なんでこっちに……。どうしてわざわざうちの近くまで戻ってきたんだ」
「青宗がまだ中にいると思ったから」
「……その足で、この火事の中突っ込もうとしたのか?」
「足?」
青宗に指摘されて視線を下にずらせば、膝から下が赤黒く腫れ上がっていた。そりゃあ痛いわけだ。眉根を寄せて怖い顔をする青宗に、手持ち無沙汰になった指先を絡める。
意識したら痛くなってきた……。待って痛い。本当に痛い。マジでいたい。なんでこんなのでさっきまで歩けていたのか不思議で仕方がない。アドレナリンでも出てたのか?
諦めてべたりと地面にお尻をつける。汚れるとか気にしていられなかった。
駆け寄ってきた救急隊員に青宗を押し付け、ブロック塀に凭れかかる。目の前が次第に霞んでいったが、抵抗するのも面倒でそのまま微睡みに身を任せた。