歓声を塗り潰す実況、プレー解説に滲む興奮。アナウンサーが選手の名を挙げ称賛するのを聞き流しながら、僕はぺらりとページを捲る。
手にしているのは和英辞典で、日本語を学ぶ教材としてはこれ以上ないほど適当だ。僕の家にもあればいいのになんて思うけれど、誕生日ですらフリルと刺繍たっぷりの日傘をプレゼントしてきたあの母親に言っても無駄だろうことは想像に難くなかった。
「仁稀」
名前を呼ばれて振り返れば、僕の目よりも濃い緑の瞳と視線が合う。テレビに流れるコマーシャルが次の瞬間には真っ暗になり、冴が電源を切ったことがわかった。
「おわったの?」
「ああ。着替えろ、サッカーやるぞ」
「サッカー!」
手渡された体操着に着替えるのも、もはや慣れたことだった。胸元の名札に『いとしさえ』と大きく書かれたそれは僕の身体よりもワンサイズ大きかったが、フリフリのスカートよりもずっと動きやすい。
着替えが終わって部屋を出れば、サッカーボールを小脇に抱えた冴の後ろから待ちわびたとでも言うように凛ちゃんが顔を覗かせた。
すでに靴を履いて準備万端な彼らに追いつくためこれまた借り物のスニーカーに足を通せば、後ろからおばさまに「五時までに帰ってくるのよ」と声をかけられた。
糸師家との交流が始まったのは、僕がフシンシャに話しかけられた日からのこと。僕と凛ちゃんの手を握って家まで駆けた冴はおばさまに経緯を説明し、次いで連れてきてしまった僕との意思疎通を図った。
当時の僕は日本語を聞き取れはするものの満足に話せず、冴とおばさま、ついでに凛ちゃんも僕との会話にずいぶん苦労していたと記憶している。
心配性なのか、はたまた兄という属性が彼をそうさせているのか。その後は冴と公園で会うたびに「知らないやつについてってないか」「話しかけられてもちゃんと無視してるか」と聞かれるようになった。下手したら凛ちゃん以上に年下扱いされているかもしれない。凛ちゃんよりも僕のほうが一年早く生まれたのに。
距離が縮まるにつれ、冴は僕が遠目で見ることしかできなかったサッカーを近くで見せてくれるようになった。
ボールを操る冴は、夢に見た彼のようで。いつだったか、僕は興奮のあまり彼からボールを奪ってしまったことがある。
おかげでほんの少し裾の汚れたスカートを見咎めた母に絶叫されたけれど、その日から冴にサッカーに誘ってもらえるようになったことを思えば後悔はまったくなかった。
「仁稀はクラブチームに入んないのか?」
ぽん、と冴が胸で押したボールが僕の足元に落ちる。完全に地面に着く前に足の甲で高く上げ、僕はラリーを続けるように腿を使ってリフティングした。
「クラブチーム?」
「俺たちが入ってるサッカーチームみたいなとこだ。うちは三歳から入会できるし、お前ならすぐレギュラー入りできんだろ」
相槌代わりにボールを凛ちゃんへパスする。チームかぁ、考えたことなかったな。そもそも半年前まではサッカーができるとも思っていなかったし。
「仁稀ちゃんといっしょにサッカーできるの?」と目を輝かせる凛ちゃんに、僕は曖昧に口角を上げた。
「やりたいけど、ゆるしてもらえるかな」
「仁稀ちゃんのママ、きびしーの?」
「きびしい……どうだろ…?」
理想と外れた言動をすると怒る母が、世間一般で言う「厳しさ」にあてはまるのかは不明だ。けれども二人のお母さんが僕の母と似ても似つかないことを考えると、少なくとも糸師家とうちの教育方針は違うのだろうとは思う。
そんな漠然とした感想を抱くぐらい、僕にとっては興味のないことだった。というか、僕は僕の母に対して思考の容量を割くほどの関心がなかったのだ。
そうしてその日、僕はいつも通りお姫様チックな服を手に叩き起こしてきた母に、クラブチームに入りたいと言った。
ひとつ言い訳をするならば、この頃の僕は僕を着せ替えるための僅かな時間しか接することのない母よりも、糸師のおばさまや冴たちと交流することが増えていて――少しばかり、母への対応の仕方を忘れかけていたのだ。
「私の理想の仁稀ちゃん女の子はそんなこと言わない! サッカーなんて野蛮な男の子のスポーツやりたいなんて言うわけないの!!」
ぼきん、と本来の方向とは真逆に折り曲げられた左足に痛みが走る。
僕を押さえつけてくる肘がちょうど胸の上に当たり、肺が膨らむことを阻害する。呼吸のできない苦しさに喘ぎながら、僕は内心で溜息を吐いた。
――あーあ、失敗しちゃった。
生理的な涙に滲んだ視界の中、二人になんて言おうかなとぼんやり考えていた。