シンイチローを20回振ったオンナ

21回目の告白-おまけ-

 真一郎が小学校に上がったばかりの頃、祖父が道場を継げと言わんばかりに……いや、実際思っていたのだろう。今までのお遊びとは比にならないくらい厳しく型を教え込まれ、それが嫌で嫌で。まあ、言ってしまえば真一郎は嫌気が差していた。

 本当だったら父が継ぐのが順当なのだろうが、昔一度訊いたときに「アレは駄目だ」とまだ少なかったシワをぎゅうぎゅうに寄せて言い捨てていたのを思い出す。
 今考えると、エマの存在が祖父の勘をたしかに肯定していた。

 その日も祖父に追いかけ回され、「ちゃんと鍛練せんか!」「ヤダね!」と家の中や外を走り回っていた。
 どうせやらされるのはわかっていたけれど、それでも真一郎は自ら進んで痛い思いをしたくなかったのだ。

 んべ、と舌を出して玄関から逃げ出そうとする。
 じいちゃんが伸ばした右手を避けようと顔を正面に戻すと、視界が急に暗くなった。次いで、鼻孔に広がる石鹸の香り。

「っとと、びっくりした。大丈夫?」

 えっ。
 固まる真一郎の上から降ってきたのは、柔らかい女の子の声だった。滑舌がしっかりとした、クラスの女子の大人ぶったそれとは違う声色だ。
 状況が呑み込めずにまったく動けなくなった真一郎に、その声の持ち主は慌てたように身体を離した。飛び込んできた光に思わず目を眇める。

 突然立ち止まったせいで、さっきまで酷使していた真一郎の心臓は未だに激しく動いていた。走り回っていたのだから当然のことである。
 背後から至近距離でかけられた「コラっ、真一郎!!」というじいちゃんの怒鳴り声に、真一郎の心臓はさらに飛び跳ねる。

「あらまあ」

 驚いているのかそうでないのか。
 祖父に怒られている姿を女の子に見られるなんて嫌だったけれど、鷹揚な声音の主がふと気になって、真一郎は顔を上げた。
顎の辺りで揃えられた緑の黒髪が風に靡き、伏せられた睫毛が震えている。控えめに上げられた口角はほんのりと色付いていて、自分よりも背が高いからかオネーサン感≠ェ前面に出ていた。

 ドン、だかズガン、だかわからないけれど、頭を殴られたような心臓を壁に投げつけられたような衝撃が身体を駆け抜ける。
 硬直する真一郎に首を傾げるオネーサン。さらりと流れる髪に、真一郎の口は勝手に開き――…。

「す、すきです! けっこんしてください!」
「……あらまあ」

 気付いたらプロポーズしていた。
 頬が熱くなり、ドクドクと耳に後ろで血が脈打つ音まで聞こえてくる。お祭り騒ぎの拍動は、走っていたときの比にならないほど動いていた。

 なお、世間一般ではこれを吊り橋効果と呼ぶ。


◆◆◆



 俗に言う一目惚れってやつだと思う。

 就寝時間の少し後に放送されるドラマの再放送。母さんが夕方に眺めている横で宿題をやりながら聞き流していた恋愛モノの定番をまさか自分が体験するとは思わなかったが、たしかに佳代を見たとき『雷に打たれたような』衝撃を受けたし、『心臓がぎゅんと』したのだ。これを恋と言わずになんと言うのか。

 三つ年上の佳代に惚れたその日から、オレは引っ付き虫のように彼女の後ろを付いて回った。
 休み時間のたんびに教室まで会いに行ったし、近所ということも手伝って登下校は常に一緒。早く付き合いたかったオレに対して、佳代は「大人になってもまだ私のことを好きでいてくれたら」と条件を出した。
 毎日のように告れなくなったのは残念だったが、好きなオンナを困らせるような男にはなりたくない。その一心で一年後の誕生日まで待ち、一年ごとに告白する日々……年々? が六年続いた。きっかりオレの小学校卒業までの期間である。

「……で、今に至ると」
「真、オマエ小学生のときのがマシだったんじゃねぇの?」
「積極性で言えば間違いなくそうだろーな」
「うっせ」

 右手に頭を預け窓の外を見るオレに、三人がケラケラと笑う。
 中学に入ってできたダチはそっぽを向くオレに「拗ねんなよ」と軽く肩を叩いてきた。拗ねてねぇわ。

 放課後の教室で男四人集まって恋バナとか、何やってんだと思わないでもない。思わないでもないが、最近話せていない佳代の周囲に湧く男共の存在を相談する相手が他にいなかったのだ。
 万次郎に相談したこともあったが「それまだねんちゅーさんのオレにきく?」とごもっともなことを言われたため、以降は佳代関連の相談はしていない。寧ろ何故相談しようと思った、過去のオレ。

 オレの家である佐野家と佳代の家である市古家はご近所さんだ。引越し挨拶はあったし、回覧板も回ってくる。だから小学生時代のオレは佳代が家を出たタイミングで外に出て一緒に登校できたわけだ。
 佳代はオレと時間が合っていたのは偶然だと思っているみたいだが。まあ些細な勘違いだし、訂正する意味もないからそのままにしている。

 けれども、中学生になったオレと高校生になった佳代とでは家の近さなどもはやなんの意味も持たなかった。
 電車通学となった佳代はオレより早く家を出るし、何より中学校と駅は正反対の場所に位置する。おかげで偶然を装って外に出てもたいした言葉など交わせるわけもなく。自室から佳代を見送るのが最近の日課となっていた。

 オレが駅近くで佳代を目撃したのは、そんな最中だった。

「#adana#゛に゛お゛どごがでぎだ」
「おいコイツガチ泣きしてんぞ」
「やめろ近付くな鼻水付くだろ」
「お前らオレに冷たくない??」

 まったく心外である。なんか暗い顔してんなと訊かれたから遠慮なく相談したというのに、このザマだ。え、オレとお前ら友達(ダチ)だよな??

「あー、とりあえずその佳代…サン? を見かけたときの前後を話してみろ。オマエの勘違いかもしんねぇだろ」

 明司はオレの前の席のやつの椅子に座り、背凭れに腕を置く。中学生らしくないイカツイ顔が真正面の景色に加わった。気分は取り調べを受ける犯人のそれだ。

 というかお前ら、揃いも揃って中学生の顔面じゃねぇんだよ。タッパもあるし、顔も怖えし、顔面の圧が強ぇし。オレが一番学生っぽいわ。クソ羨ましい。
 今朝も見た威圧感ゼロの自分の顔を思い出しながら、促されるまま口を開く。

「……金曜の買い物帰りに佳代がいるかと思って駅に寄ったんだけどさ」
「ちょっと待て。なんで当然のように佳代サンに会いに行こうとしてんだ。オマエ、最近マトモに話せねぇからって避けてただろ」
「なんでって……面と向かって話せねぇだけで佳代に会いたくねぇわけじゃねーし、ただでさえアイツは可愛い上に優しいんだから変な奴に目ぇ付けられないように見張っとかねえとだろ」
「いやそれストーカ」
「ワカ黙ってろ」
「……オレ、帰っていいか」
「ベンケイ帰るならオレも帰りたいんだけど」
「揃いも揃ってオレを生贄にしようとすんな」

 前面にメンドクセェという感情を出した三人。
 本当失礼だなこいつら。相談に乗ってもらっている手前口には出さないが、そんなオレに誠意を見せてお前らはせめて顔に出すな。

「とりあえずその件は置いておく。で、オマエはどうしたんだ?」
「佳代の後ろ姿見つけて、変な奴が周りに居ねぇか見てたんだよ。そしたら同じ制服着た男と楽しそうに話しててさ……うっ」
「自分で思い出しといて致命傷受けんな」
「つーか、佳代サンに訊けばいいじゃん。ケー番持ってんだろ?」
「聞けたらこんな悩んでねえよ……」
「そりゃあそうだ」

 メールだろうが電話だろうが「あの男誰?」「真一郎くんには知らせていなかったわね。実はお付き合いしている人なの」なんて返ってきたら、オレは確実に泣く。恥も外聞も投げ捨てて盛大に泣く自信がある。

 けれども、普通に考えたら佳代に男がいないなんて変な話なのだ。
 短かった髪は肩より下まで伸びて歩くたびにふわふわと波打つし、化粧なのかほんのりと赤く色付いた唇は遠目から見ても艶っぽい。笑うときは口許に手を宛てて鳥の囀りみたいな吐息を漏らすし、校則キッチリの膝下スカートから覗く白い足は見ていてムズムズする。
 そんな妙な色っぽさは喋ったときのばあちゃんみたいな口調で霧散して一気に親しみやすくなるし、気付いたら甘えているなんてしょっちゅうあることだ。これでモテないほうがおかしい。

 高校でもオレが知る小学生時代と同様、人を誑し込んでいるのだろう。容易に想像できる幼馴染の姿に頭を抱えて俯き、そのまま机に額をぶつけた。痛ぇ。

「真の話聞いてる限りじゃ、佳代サンってのは約束破るようなヒトじゃねぇと思うがな」
「でもそれ、ガキの頃に交わしたやつだろ? 向こうはもう覚えてないんじゃねーの」
「シンイチローが小六まで毎年告ってたんだから、そりゃあねぇだろ」
「それもそうか。なら、手っ取り早く告って来いよ。高校生なら、佳代サンも色恋沙汰ぐらい理解できるようになったんじゃねーの?」
「それができたら苦労しねーよ…」

 明司にも言ったように、オレは最近佳代とマトモに顔を合わせていない。
 というのも、彼女の顔を見るだけでなんだか視界がチカチカするし、キラキラした佳代と向かい合って何かを話すと考えただけで顔から火が出そうになるし、きっとうまく喋れなくてカッコ悪い姿を見せる羽目になるのだと考えると、とてもじゃないけど会いに行こうとは思えなかった。

 ただその分メールで話すことが増えたので、まったく交流がないわけではない。文章だと佳代のおっとりした話し方が消えてしまうのは残念だったが、記録に残る分いつでも見返せるのはうれしい誤算だった。

「これこの前保健でやったよな……」
「あれだろ、シシュンキ」
「生きる教材じゃん、ウケる」

 げんなりしたように遠い目でどこかを見るダチの存在を忘れ、オレはメールの内容を思い出してだらしなく頬を緩めていた。


◆◆◆



 文字通り、あのときのオレは熱に浮かされていた。
 武蔵祭りで告白(通算21回目)しようとすればゲリラ豪雨に見舞われ、エマに尻を叩かれて考えに考えた告白の台詞は言えず仕舞い。おまけに知恵熱と風邪のダブルパンチで次の日は寝込んでしまい、見舞いに来てくれた佳代がオレの願望から見せた幻覚にしか見えなかった。

 何度でも言う。
 あのときのオレは熱に浮かされていたのだ。

「オレ、オレさあ…本当に佳代が好きなんだ。最初はたしかに一目惚れだったかもしんねーけど、年下に甘いとことか、押しに弱いとことか、水族館行っても動物園行っても『おいしそうね』って笑うとことか、いろんなこと全部ひっくるめて受け止めてくれるとことか、佳代と一緒にいて新しい一面知るたんびに好きになってるんだ。笑ったときに下がる目尻も好きだし、たまに撫でてくれるちっさい手も好きだし、『真一郎くん』って呼んでくれる声も好きだ。は、ははっ、こんなんオレ、佳代以外好きになれねえじゃん……」
「し…真一郎くん、その辺で、」
「喧嘩も強くねーし、ヘタレって言われるし、たいして稼いでるわけでもねーし、頼りがいねーけど。でもオレ、佳代のこと世界一好きな自信あるから、だから、」
「あの、あの万次郎くんっ。そこに万次郎くんい」
「オレ、やっぱり佳代が好きだ。佳代以外と結婚したくない。結婚するなら佳代がいいんだ」
「へぁ」

 林檎みたいに真っ赤になった佳代は可愛くて。ふと、握った手の感触がやけにリアルなことに気付く。
 ふわふわと微睡んでいた意識が次第に鮮明になり、これが夢でも熱が見せる幻覚でもないのだと。ようやく正気に戻ったときには、締まりのないどころか好きな女の前で馬鹿みたいな告白をしたあとだった。

「え、あ、こ、これはちがっ、いや違くはねーけど!!」
「……なら、今のは告白って受け取っていいのかしら……?」
「う゛……は、はい」

 恰好つかねーとかそんなん気にしてられないくらい顔が熱くなって、熱のせいだけじゃないなと首の裏まで真っ赤になりながら布団の上に正座する。握り締めた拳の上に色の異なる指先が置かれ、導かれるようにゆっくりと顔を上げた。

「……私なんかで、よければ」
「…………え、それって、」
「…すきよ、真一郎くん。私、あなたのことが好き」
「っ、マジで? え、ドッキリとかじゃなくて?」
「まじよ。こんな大事なことで嘘なんて吐かないわ」
「ほ、本当にいいのか? オレ、結構独占欲強ぇーぞ? 全然できた人間じゃねーし、佳代に不便ばっかかけ」

 ふに、と細い人差し指が唇にあてられ、思わず言葉を切る。
 佳代はまたいつもみたいに柔らかく目を眇め、花が綻ぶように笑った。

「真一朗くんだからよ。私、真一郎くんじゃなきゃ嫌よ」
「そんな殺し文句どこで覚えてくんだよぉ……」

 蚊の鳴くような声で呻くオレの上でくすくすと声を上げる佳代に、オレはきっと一生敵わないのだと悟った。



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