場地圭介と愚鈍なお嬢様

朱を知る

 使用人によって整えられた黒髪、肌触りのいいお洋服、ブランドのリボンをかけたテディベア。
 それが、九条(くじょう)綾目たる少女が生まれたその瞬間から与えられたものだった。

 

世間一般で言うところのお嬢様が自分であると気付いたのは、果たしていつのことだったか。

どれもこれもが生まれたときから私にとっての当たり前で、そんな環境下にいた私が当然のように享受するのは自然なことだった。
 だからこそ着慣れない空手着と運動用に纏められた髪の毛は、私の気持ちを変にそわつかせたのだ。

九条(くじょう)綾目です。本日よりお世話になります」
「こりゃあまた、ずいぶんと丁寧なお嬢さんが来たもんだなあ」

 頭を下げる私に感心したように声を上げたのは、空手道場の師範である佐野様だ。
 お琴にお茶にお花に舞踊、ヴァイオリンにピアノに英会話。私が今までしてきた習い事には、わかりやすく激しい動きをするものはなかった。
 にもかかわらずお稽古ごとに新たに空手が加わったのは、床に臥せってしまった母のためだろう。九条家の子どもが私しかいない今、跡継ぎは自動的に私ということになる。となれば、必然的に跡継ぎに相応しくなるよう育てられるのは自明の理だった。

 そんなわけで始めた空手だったが、非常に残念なことに私には才能がなかった。そも、こんなにも汗水流して運動すること自体が少なかったため、当然と言えば当然である。

 時折顔を出す師範のお孫様は組手を引き受けてはくれないし、私と同じく彼に組手を申し込む少年との勝率は五分五分。
 けれども私は、目標とすべき少年が近くにいることと同じ目的を持つ好敵手となる人物の存在に、柄にもなく気分が高揚していた。要するに、この週に一度の習い事を楽しんでいたのである。

 目標である少年の名前は佐野万次郎さま。師範代のお孫様で、あまり道場には顔を出していないにもかかわらずその蹴りは大の大人が萎縮するほどの力強さを持っている。まさしく天賦の才だ。

 一度興味本位で組手の相手を務めさせてもらったことがあるが、数度の攻防の末あの蹴りで吹っ飛ばされた挙句気絶。彼はそのことで師範代と兄君に叱責されたらしく、以降どれだけ私から頼んでも組手をしてくれなくなってしまった。女性に手を上げない心構えは大変好ましいですが、それをスポーツの場に持ち出すのは些か失礼だと思いますの。

 その代わりと言ってはなんだが、同じく佐野さまに組手を挑み続ける場地圭介さまのお相手をすることが増えたのだ。始めこそ彼も佐野さまと似たような考えで私との組手を断っていたが、ひとより頭の重みが軽いのか、僅か数言で丸め込めてしまい今に至る。

 本当はもっと鍛練したいのだが、父は私が見える場所に怪我をすることを好まないため、数年が経った今も頻度は週に一度のままだ。もっとも、未だに増え続けているお稽古の数を思えばそれでもスケジュールはギリギリなのだが。

 だからまあ、こうなるのもある種必然だったのかもしれない。

「は? 道場辞める?」
「場地さま、声が響いておりますわよ」

 八重歯を見せて不満そうな顔をする場地さまに注意を飛ばす。
 同い年の門下生である彼は私と同様、佐野さまに組手を挑む好敵手のような間柄だ。疎らに人がいる道場にまだ声変わり前の少年の声が轟き、音量を下げるようにと遠回しに話す。

「辞めると言いますか、辞めさせられると言いますか…」
「んだよそれ。オマエはそれでいいのかよ」
「そう、ですわね。わたくしは父が決めたことに意見できる立場ではありませんので」
「そうじゃなくて! ……オマエ自身がどう思ってんのかって聞いてんだよ」

 ぐっと何かを堪えるような厳しい顔をする場地さまに、改めて自分の気持ちを考える。
 最近は妙に教養系の習い事が増え、こことは別に通っていた剣道や柔道まで辞めさせられてしまったのだ。存外私は身体を動かすことが好きだったらしく、運動会では率先して競技に参加することもある。
 私が通っている学校は小学校からの女子校であるため、運動が好きな人は重宝される傾向にあった。おかげで複数の種目に出ても不満に思われることはないのですが。

 ふと、膝の上で揃えていた手を眺める。マメだらけで所々擦り剝けている手が、お父様によく思われていないのは知っていた。将来、会社にとって役立つ方か身分の釣り合う方と結婚するだろう私の身体に傷が付くのは好ましくないのだろう。私は個である前に『九条綾目』という名の駒なのだから。それはいくら私が考えたところで、仕方のないことだから。

 素直で真っ直ぐな場地さまにこんなことを言っても納得してもらえないわ。そう確信しながら私は、慣れてしまった作り笑いを顔に載せる。

「わたくしは構いませんわ」
「っ、あーそーかよ!! 勝手にしろ!!!」

 突然の怒鳴り声で驚く私など見向きもせず、場地さまは足音を立てるようにして今まで座っていた場所と真反対……つまりは、私と一番距離のあるところまで移動した。つーんとそっぽを向いた彼と、目が合うことはない。

「……き、嫌われてしまいましたわ…………」

 茫然とする視界が次第に歪み、何故だか瞼の裏が熱くなる。
 初めてでした。父の仕事関係でも、将来の脈作りのためでもない。初めての好敵手オトモダチだったのです。それを私は、自ら手放してしまった。

 鼻の辺りがツンとして、なんだか胸が苦しくなって。あ、と思ったときには眼からひとつふたつと雫が落ちてきた。ぽつぽつと床に小さな水溜まりが形成され、慌てて空手着の袖で目元を拭っても水の流れは収まらない。
 どうしましょう。人前で泣くだなんて、みっともないのに。なんだか急に恥ずかしくなって、顔を伏せったまま外へ飛び出す。
 碌に前も見ないで走っていたせいで、勢いを殺さないまま大きな背中にぶつかった。驚いたような男性の声が、鼓膜を震わせる。

「も、申し訳ありません……。お怪我はございませんか?」
「オレは平気だけど……え、泣いてる!? 悪ぃ、どっか怪我した? 大丈夫か?」
「すみません、すぐに泣き止みますのでご心配なく……っ」
「いやそんな焦んなくても……え、エマーー! エマ、ヘルプ!! ちょっと来てくんねぇか!?」

 またひとに迷惑をかけてしまった。わたわたと手を動かす男性に、余計に涙が込み上げてくる。なんて不甲斐ないのでしょう。いくら袖で擦っても枯れてくれない涙が、余計に私を惨めにする。
 男性に「擦ったら赤くなるだろ」とやんわりと腕を掴まれ、彼が先ほど呼んでいたと思われる少女が駆け寄ってくる。
 ブロンドヘアを靡かせた女の子は、泣いている私を見て驚いたように目を丸くさせた。

「あれ、マイキーにいつも組手挑んでる子だ!」
「佐野さまの御令妹様……?」
「ご、ごれーまい…?」

 一年ほど前に佐野さまが話していた妹君。いつも道場を覗く少女がそうなのだと彼は言っていたが、恐らくは彼女で間違いないだろう。あまり周りには見ない金髪が特徴的で、記憶の片隅に残っていた。
 困ったように眉根を下げた彼女に手を引かれ、気付いたときには私は佐野家の居間にお邪魔していた。その頃には涙は収まっていて、差し出されたお茶を頂きながら頭を下げる。

「お見苦しいものをお見せしたばかりか、ご迷惑を……」
「あのぐらいたいしたことねぇから、気にすんなって。……泣いてた理由とかって話せるか? 無理にとは言わねぇけど」
「……その、友人…ライバル関係にあった方に嫌われてしまいまして」
「それって場地のこと?」
「ええっと」

 エマさんの問いかけにそっと頷く。呼び方が堅苦しいと言われてしまったが、下の名前で呼ぶことがあまりないためなんだか変な感じだ。真一郎さまは年上ということもあり、許容していただいた。
 知った名前だったらしく「ケースケが?」と頓狂な声を上げた真一郎さまに、気まずくなって目を逸らした。

「たしかにアイツは好き嫌いがハッキリしてるけど……。アヤメちゃんは何かアイツの気に障るようなことしたのか?」
「正直に言いますと、心当たりがありませんの。道場を辞めることになるかも、というお話をしただけなのですが……」
「原因それじゃねーの?」

 突然後ろから声をかけられ、びくりと肩を震わせる。振り返れば、たい焼きを片手に持った佐野さまがこちらを見ていた。
 よく見ればその瞳は、真一郎さまとそっくりだ。やはりあのときの私は冷静ではなかったのだろう。普段なら気付くことなのに、名前を教えてもらうまでわからなかったのだから。

「佐野さま、本日は道場のほうに顔をお出しになりませんの?」
「ウン。面倒だから行かない」
「オマエ、またじいちゃんにどやされるぞ。……で、万次郎は原因に心当たりあんのか?」
「だって場地、いっつもアヤと一緒にいんじゃん。空手辞めたら学校も違うからもう会わねぇし、それがイヤなんじゃねーの」
「あー……一理あるか」
「綾目ちゃんはどうなの? 場地に会えなくてさみしくないの?」
「え、と」

 エマさんの琥珀色の瞳と視線が交わる。ぼんやりと映り込んだ私は、迷子の子どものような表情(かお)をしていた。
 でも、だって、私の意見なんてお父様は知らんぷりだから。九条の跡継ぎとして……いいえ、九条に名を連ねる者として我儘を言うわけには。言うわけにはいかない、のに。

「……さみしい、寂しいです。場地さまは、わたくしの初めてのおともだちなんです。だからほんとうは、離れたくなくて。でも、お父様はお忙しい身だから。わたくしが我儘を言っては、きっと困らせてしまう。もっと面倒だと思われてしまう。だから」
「――んだよ、ちゃんと言えんじゃねーか」

 すっ、と先ほどのようにまた別の声が空間を割った。

「場地さま……」
「ん、少しはマシな顔になったな」
「コイツ、アヤが暗い顔してるくせになんも話さねーからキレたんだって」
「オイ、言わねー約束だろ!」
「そうだっけ?」

 とぼける佐野さまに眦をつり上げた場地さまは、私のほうを向いて乱暴に後頭部を掻いた。
 それからズカズカと遠慮なくこちらに歩み寄り、犬を相手にしているみたいに私の髪をかき混ぜる。温かい手のひらが心地良い。

「つーか、なんでシンイチローとエマが名前で呼ばれてんの? オレだってまだ『佐野さま』なのに」
「お二人が堅苦くてお気に召さないとおっしゃられたので」
「じゃあオレも堅いのヤダからマイキーって呼んでよ」
「ずりぃぞマイキー! オレがコイツの初めてなんだから、オレに譲れよ!」
「ケースケ、その言い方はちょっと語弊が…」

 エマさんと二人、顔を見合わせて仕方ないなとでも言うように苦笑する。女の子のほうが成長が早いというのはこういうことなのだろう。

「「オレが先だよな!?」」

 傍観していた私に、佐野さまと場地さまがずいっと顔を突き出すものだから反射的に身を引いた。とりあえず、気になっていたことを聞こうと口を開く。

「佐野さまのそのお名前はどちらから派生したものですの?」
「マイケルだからマイキーに決まってんじゃん」
「なるほど、クリスチャンネームですのね」
「なんかアヤメちゃんちょっとずれてね??」

 ずれている……? 何か会話に齟齬があっただろうか。不思議に思って真一郎さまに目を向けている間に、当事者を余所に二人はじゃんけんを始めていた。男の子って元気。
 どうやら勝敗がついたらしく、ガッツポーズする場地さまと親の仇を見るような目をする佐野さまというように見事に表情が分かれた。

「っていうわけで、オレが一番な!」
「いや、一番はエマだから」
「エマ、しーっ!」

 そんな大層なものではないのに、何故か四対の瞳が一斉にこちらを向く。中でも場地さまの目は期待に満ちていて、なんだか私まで緊張してきた。

「そ、そんなに見つめられても困りますわ……」

 言ってみたところで周囲の反応は変わりない。なんだか場地さまが餌を前に待てする大型犬に見えてきたけれど、疲れているのだろう。
 息を、吸って吐いて。あたりまえの動作のはずなのに、酷く喉が渇く。なんだか耳の奥で心臓の脈動まで聞こえてきて、熱を持った頬を隠しもせずに小さく小さく呟いた。

「……け…けいすけ、さん」

 しん、と辺りが不自然なほどに静まり返って、何か粗相をしてしまっただろうかと慌てて顔を上げる。けれどもそこに広がっていたのは、想像していたものとは異なった風景だった。
 エマさんは可愛らしく口元に両手をあて、真一郎さまはなんだか泣きそうな目で場地さまを見ている。佐野さまはオニキスの瞳をぱちぱちと瞬いて、場地さんに視線を向けていた。

「あ…うぁ……」

 彼らの視線を追って、驚いた。
 場地さまが首あたりまで真っ赤に染めていたものだから、なんだかその姿が意外で。どう反応するのが正解なのかわからなくて、呑まれるようにじわじわと熱がせり上がってくる。よくわからない感情が胸に広がって、疼いて、それで。

「や、やっぱなし! オレ場地! 場地でいいから!!」
「え、あ、えぇ…」

 わからないけれど、けれどもこの感情は決して悪いものではない気がした。


◆◆◆



 あ、と思った。
 思って、思ったときにはもう遅かった。
 頭が揺れて、息が詰まって、視界がブレて。

 どうしてか、「なんでお前はそう行動が遅いんだ」と叱責するお父様を思い出した。
 ドロリとした赤い液体が視界を侵入してくるのを最後に、私の意識は暗闇に沈んでいった。



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