場地圭介と愚鈍なお嬢様

馬鹿と愚者

 気付いたらキレーな黒髪を目で追っている。
 綾目が笑うとオレまでうれしくなる。
 一緒にいると変にそわそわするくせに、いなくなったらなんだか物足りない気がして。

 ふわふわして、キラキラして、ぱちぱち弾けて。
 アイツを見るたびにそんな変な気持ちになってばかりだった。

「場地さん、それって……」

 箸を落とした千冬が猫に似た目を丸くする。自分でも柄じゃないとわかっていながら、オレはこれの対処法を知らないからずっと無視したままだ。

「んだよ千冬、なんか文句あんのかァ?」
「いえいえ、滅相もないです!!」

 何故かさっきよりもテンションが上がったように見える千冬が、弁当の玉子焼きをやけにうれしそうに摘まんだのが印象的だった。


◆◆◆



 九条綾目。オレでも知ってるような有名企業・九条グループの一人娘だった綾目は、佐野道場で同じ門下生だった。結局道場を辞めさせられたアイツは、忙しいはずなのにちょくちょく道場に顔を出してはエマやオレ達と駄弁ったりしていた。

 それを壊したのは、紛れもなくオレだった。

 あの日はマイキーの誕生日が近くて、プレゼントは何にするかって一虎と話して。二ケツしたケッチが辿り着いたのは、何台ものバイクが並んだバイク屋だった。
 店頭に堂々と設置されたCB250T(バブ)は真一郎君と同じだからとマイキーが憧れている単車で、一虎を止めることもできずにオレは、オレ達は深夜のバイク屋に忍び込んだのだ。
 どうしてあのとき止められなかったんだろう。きっと本気で話せば一虎はわかってくれたはずだ。オレが強く言っていたら、アイツは。

 暗闇に目が慣れた頃、名前を呼ばれて見上げた先にいたのは真一郎君だった。
 自分の店だと話す真一郎君の後ろから番線カッターを手に駆けてくる一虎と、小さな影が飛び出してきたのはほとんど同時だった。

 一虎が殴ったのは、綾目だった。

 床が一気に赤くなって、血がたくさん出て、止まらなくて。慌てる真一郎君を殴ろうとする一虎に、マイキーの兄貴だと叫んで。それから、それから。

 ――幸いでしたね。打ちどころがよかったのと、彼女が受け身を取って頭から地面に着地しなかったおかげで後遺症の心配はありません。

 医者の説明はほとんど頭に入って来なかった。ただ、ベッドに横たわったままぴくりとも動かない綾目が死んじまったわけじゃないってことだけがわかって、オレのせいだっていうのに涙が止まらなかった。
 ガラリ、大きな音を立てて無遠慮に病室の扉が開かれる。入ってきたのは見知らぬ男女と縮こまったガキで、誰だと口に出す前に男が怒鳴った。

「お前か! うちの娘に傷を付けたのは!!」

 綾目の両親。耳に入ってきた単語に頭の理解がようやく追いつく。
 勢いのまま頭を下げるオレに「謝罪などなんの利益にもならん」と無感情に見下ろした男は、眠ったままの綾目に溜息を吐いた。

「せっかく傷が付かないようにと運動を禁止させたのに、まさか家出した挙句他人を庇って怪我を負うとは……」
「でも傷になったのは頭だけでしょう? なら、髪の毛で隠れるし夫となる人にもわかりませんよ」
「ふむ、それもそうだな。駒として使うにはまだ価値はあるか」
「どうせ跡は椿が継ぐのだし、綾目には経営がスムーズに行くよう好い人と籍を入れてもらえば問題ないわ」

 気持ち悪かった。気味が悪かった。実の娘に向ける言葉じゃない。こいつらは綾目が怪我したことに対してじゃなく、傷が付いたことに対して怒っていたのだとすぐにわかった。
 ぐるぐるぐるぐる視界が回って、胃の辺りがむかむかして。感情のままに殴りたくなったのを拳を握り込んで耐える。

「……つばき、とばじさま……?」

 綾目の親がいなくなった頃、掠れた声が病室で溶けた。ハッとして柵に突っ込むようにして駆け寄れば、焦点の合ってない瞳とかちり、目が合う。

「けほっ」
「あ、お、お水、これ」

 椿と呼ばれた子どもが、水差しから注いだ水を綾目に差し出す。固形物を飲み込むような仕草で数回に分けて飲み干した綾目は、すいっと子どものほうに目を向けた。
 オレのことを無視するような動作に、一瞬、心臓の辺りが握られたように苦しくなる。

「ごめんなさい、心配をかけてしまったわよね。少し、気持ちを整理する時間が欲しかっただけなの。これっきり……ええ、きっとこれっきりの我儘にするわ」
「綾目、さん」
「ふふ、そんなに畏まらなくて構わないわ。これからは姉弟として仲良くしましょう」

 綾目が差し出した手をおずおずと握る椿は、不安そうな顔を微かに緩めて笑った。
 さて、と椿が去った病室。綾目と二人きりになったオレは綾目が話し出す前に頭を下げる。

「ごめん…、ごめん!! 謝って済むことじゃねぇってわかってるけど、でも、オレ、オレのせいで」

 頭は上げられなかった。だらんと転がった手足も、流れる血も瞼の裏に焼き付いて離れない。本当だったらこうして顔を合わせる資格すらないのに、どうしても面と向かって謝りたかった。

「頭を上げて」

 有無を言わさない声。ぞっとするほど温度のない声に、身体が自然と言うことを利く。それでも目線は床に固定したままだ。
 怖かった。綾目がどんな目で自分を見ているのか、考えるだけで怖くて仕方がなかった。自分勝手だってわかってる。だけどあの父親みたいな無感情な目で見られていたらと想像したら、オレはたぶんその場に立っていられないくらい動揺してしまうだろうと思った。

「ねえ、場地さま。いいえ、圭介さん」

 え、と音にならない驚きが息として漏れた。
 だってそれは、あの日オレが照れて遠回しに呼ぶなと言った呼び方だったから。

「わたくし、怒っておりませんの。怒ってはないけれど、なんだか悲しいのですわ。場地さまももうひとりの彼も、どうして誰にも相談なさらなかったの? ひとの物を盗ることが立派な犯罪行為であると、場地さまもご存じのはずでしょう」

 ゆっくりと、顔を上げる。
 綾目は、彼女は本当に怒っていなかった。ただただ悲しげに長い睫毛を伏せ、オレを見ていた。頭に厳重に巻かれた包帯は痛々しく、繋がった点滴が一定の感覚で薬を流し込んでいる。

「今回は運がよかっただけです。わたくしが偶然真一郎さまのもとでお世話になっていなければ、あるいは打ちどころが悪ければ。わたくしか真一郎さま、もしくは両方の命が奪われていた可能性は十二分にありましたのよ。どうかそのことをゆめゆめお忘れなきよう」
「……オレは、どうすれば……」
「……今まで通りで構いませんわ。きっと難しいかと思いますが、場地さまが何か償いをお考えなのでしたら、どうかわたくしと今まで通りお話ししてください。わたくし、あの時間を存外気に入っているのです」

 そのあと何を話したか、綾目がどんな表情をしていたのか。オレはまったくと言っていいほど覚えていない。
 ただ針を飲み込んだような痛みと、満ち足りたような心地が胸の中で混ざりあって、嫌に気持ちが悪かったことだけは今でもはっきりと思い出せた。


◆◆◆



 2005年10月31日
 東京卍會150人と芭流覇羅300人による類を見ない大抗争。
 後に「血のハロウィン」と呼ばれたそれは、死者2名、逮捕者1名を出すという悲惨な結果に終わり――。


◆◆◆



 わたくし怒っておりますの、と彼女は言う。
 この場に似つかわしくないヒールを高らかに鳴らし、長い睫毛を震わせ、怒っておりますのよと繰り返す。
 その腹は、薔薇の花弁のごとく真っ赤に染まっていた。

「綾目……?」
「ご機嫌麗しゅう、場地さま。それから、羽宮さまと花垣さまも」
「アヤメさん!? なんでここにっ、というかそれ、怪我ッ」
「何故とおっしゃられましても……花垣さまが教えてくださったのでしょう?」

 感情のわからない色が瞳に宿る。ぐるりと渦を巻いたような視線に、ヒッと武道は声を上げた。

 ――武道が綾目にタイムリープの話をしたのは偶然のことだった。
 現代に戻ってドラケンに会いに行ったその日、直人の調べによって場地とマイキーの昔馴染みの存在が明らかになった。
 海外進出を果たし、大企業に成長した九条グループの女社長・九条綾目。
 何をどうやったのか直人は忙しいだろう彼女に即日アポイントを取り付け、二人は九条家の客間へと案内された。

「警察の方がどのようなご用件でしょう?」

 前髪をかき上げ、うっそりと笑む綾目を前に武道はタジタジになる。
 対して直人は慣れたように「彼も協力者です」と真面目腐って言えば、綾目の表情は忽ち化けた。艶っぽさは鳴りを潜め、呆れたような表情を直人に向ける。

「そのようなことは先におっしゃってくださいな。無駄に顔を作ってしまいましたわ」
「すみません。時間がなかったものですから」
「え、えっ、ナオトこの人と知り合いなのか!?」
「彼女は……いえ、彼女()タケミチ君と同じ協力者です」
「協力者…?」

 ニコリ、綾目は瞳で三日月を形作る。
 初めまして、と差し込まれた声音は微かに鋭さを伴っていた。

「わたくし、九条綾目と申します。稀咲鉄太、延いては東京卍會を壊滅させるべく橘様に協力させていただいておりますの」
「稀咲を……!?」

 武道の驚愕した様子に、綾目は話してなかったのかとでも言うように直人に視線を投げた。付き合いが長いのかそれだけで意思疎通ができているようだ。首を横に振る直人に、綾目は隠しもせずに溜息を吐く。

「……椿、資料を頼めるかしら」
「用意できています」
「流石ね。ありがとう」

 隣に控えていた男性から差し出されたUSBメモリーを綾目が受け取り、直人に手渡す。次いでその菖蒲色の目を武道に寄越した。

「不躾ながら、花垣さまと橘さまのご関係を伺っても?」
「ヒナ……えっと、ナオトの姉ちゃんを助けたくて、」
「助けたい? ……橘さまの姉君はすでに亡くなっているはすでは?」
「あ」

 やらかしたな、と思った。蛇に睨まれたような鋭い眼光が突き刺さる頃には、武道は容赦ない追及に耐え切れず気付けばタイムリープのことをすっかり話してしまっていた。
 絶対頭がおかしいやつだと思われた、と額を押さえる直人を横目に武道は(こうべ)を垂れる。綾目の手腕もさることながら、武道が墓穴ばかり堀ったのもいけなかった。この男、情報戦にまったく向いていなかった。

「――時間跳躍(タイムリープ)、ですか。量子力学、あるいは宇宙物理学でしょうか。いずれも専門外ですのであとで調べてみますわ」
「え、信じてくれるんすか!?」

 あっさりと受け入れた綾目に、今度は武道が驚く。どこかずれた回答をされた気がするが、今は気にしなくていいだろう。
 あら、嘘でしたの? と小首を傾げる綾目にぶんぶん首を振れば、おかしそうにくすくす笑われた。

「立場上、人の嘘を見破るのは得意ですの。ですから花垣さまの言が真実かそうでないかくらい、容易くわかりますわ」

 桜貝のような爪が載った指先を揃え、綾目は長い睫毛を伏せる。その瞳の中には、ぐるぐると怨念めいた仄暗い炎が巣食っていた。

「怒っておりますのよ、わたくし」

 ハッと、武道の意識が戻る。
 綾目はなおも繰り返し、その香しい(かんばせ)をぎゅうと顰めた。

「場地さまはどうしてそう、おひとりで解決しようとなさるのですか? 羽宮さまはどうしてそう、自己完結なさるのですか? 周りに頼れる方は? お話を聞いてくださる方は? 助けようと手を差し伸べる方はいらっしゃらなかったのですか…」

 答える声はない。ぴちゃぴちゃと跳ねる血液の音だけが、何故だか鮮明に耳に入る。
 迷子の子どもみたいな目だと思った菖蒲色の瞳は、何か覚悟を決めたような眼差しをしていた。
 一虎の手を払い退け、ナイフが刺さったままの綾目の身体は力なく場地の背に倒れる。

 場地にはそれが、あのときの光景と重なって見えた。

「綾目!!」

 細い手足が力なく伸びる。重力に逆らえず、だらりと身体は垂れ下がる。
 握った手のひらから、次第に温度がなくなっていく。

「死ぬな、死ぬな綾目っ、救急車、今救急車呼ぶから!」
「ふ、あは、大袈裟ですわね……」
「馬鹿言うな!! おま、こんなに血ィ出てんのにっ、」
「見誤りましたわ…腕が落ちたかしら……」
「何言ってんのかわかんねぇよ…!」

 掠れ始めた視界の中、綾目はぼんやりと数日前の出来事を思い出す。
 花垣武道と名乗る男が自身の通う中学校の前で待ち伏せしていた。聞き覚えのない名前に訝しく思った綾目だったが、「場地君のことで話があります」と言われた目があまりに真剣だったから。一先ず話だけならと彼に従ったのだ。
 驚いたことにその男は、時間跳躍――タイムリープという能力を使って行く先を変えようとしているのだという。実際今までに何度も未来を変えており、しかし目的である橘日向の生存は望めず、何度も繰り返しているのだと。

 信じられなかった。けれども嘘を吐いている様子も見られなくて。
 10月31日に場地が殺されるという話を信じるべきか迷い、綾目は賭けに出ることにした。彼が死んだ未来、自分が何をしているのかを尋ねたのだ。

「アヤメさんは、九条グループの社長になっていました。それでナオト……えっと、警察と手を組んで稀咲を潰すために動いていて」
「そう……わたくしが社長に…」

 父親が再婚した今、正式な跡継ぎには椿が据えられている。本来であればお払い箱に入れられた綾目は政略結婚の駒に使われ、武道の話す12年後には有名企業かどこぞの会社の跡取りに籍を入れているはずだ。
 何故そのような舵のきり方をしたのか。そもそも父は自分が社長になることに反対したのでは。疑問が尽きない中、武道がふと思い出したように声を出す。

「そういえば、未来のアヤメさんから伝言を預かってほしいと言われてたんですけど…」
「伝言?」
「『”君に似し”と聞いて、今誰を思い浮かべたかしら?』って」

 綾目はきょとりと眼を丸め、間もなくコトリと笑った。涙を目尻に浮かべ、腹を抱え、お嬢様然とした姿には似合わない笑い声を上げて。
 それはそれはおかしそうに笑った。

「そう、そうね、そうだったの。わたくしったら、こんな簡単なことにも気付かなかったなんて!」
「あ、あの、アヤメさん?」
「あはは、あーおかしい。ふふっ……いいでしょう。花垣さま、わたくしあなたの荒唐無稽なそのお話を信じることに致しますわ」
「ほ、本当ですか!?」

 何がきっかけになったのかはよくわからないが、ともかく武道は過去の時間軸に協力者を増やすことに成功したのだった。


「ねえ、圭介さん」

 名前を、呼ぶ。途端にふわふわとした心地良さが胸に宿って、綾目は無意識に頬を緩めた。
 なんて馬鹿な子なのでしょう。なんて愚かなのでしょう。
 いつからなんてわからない、覚えていない。その言葉に、仕草に、喜んで、悲しんで。そういえば、わたくし自慢の愛想笑いを一番初めに見破ったのは、あなたでしたわね。なんて、ずいぶん前のことを思い出した。

 圭介さんの頬に伸ばした指先が熱を帯びる。
 馬鹿な女。浅はかな女。
 だって、これっぽちで心が躍るの。あなたに叱られたときに泣いてしまったのも、きっとあなただったからですのね。

「『愛していますわ、圭介さん』」

 未来のわたくしへ。
 あなたが本当に伝えたかったことは、きっと伝えられましたわ。



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