春の大曲線
海岸沿いにのびる舗装された道を真っ直ぐ歩いて。
途中で浜へと下りる階段があったから一段ずつ下りて。
岩場の波打ち際がきらきらと光っていたからのぞいてみるとクラゲが波間を揺蕩っていた。
赤や緑に濃いピンク。色とりどりにきらめいていて、この島の眠らない街の色に似ていると思った。
心地よいあたたかさに包まれた春の島。今夜は特にあたたかいのか、日が沈んで、月がのぼっても、太陽の名残がそこかしこに漂っていた。
生ぬるい風が頬をかすめ、息を吸うたびに花盛りの匂いが鼻腔にたまり、夜の帳が下りた空には春の星が座っていて、月はぼんやりと広がる輪を身につけている。
わたしは角灯を持って、船の近くを歩いていた。エースと一緒に昼寝をしていたら、うっかり寝過ぎて遊びに行きはぐってしまったのだった。たくさん寝たから夜中になってもうまく寝つけなくて、気晴らしにこうして外に出ている。出ていくときに、見張りとして起きていた船員にひとりじゃあぶないと言われたけれど、すぐにもうひとり増えるからと告げた。首をかしげる船員を放って、わたしは近くにいると伝えておいてとだけ言い残して、船を後にした。
今日はいつもより勘が冴えている。だから、わたしは安心してその場にしゃがみ込んで、波の音を聞きながらクラゲが近づいてきたり離れたりするのをながめていた。いつもだったらこんなことはしない。どんなに寝つきが悪くても、枕を何度もひっくり返して朝までやり過ごす。遊びに行きたいときは必ずエースを連れて行くし、そもそも彼がひとりで出歩くことを許さない。関心がないように装うけれど、彼は意外と過保護だった。
ゆらゆら、ゆらゆら。暗くてもその気ままな様がよく見える。クラゲは刺すから触るな、とまだいない彼の声が頭の中で聞こえる。骨も内臓もなく、水の流れに身をまかせて生きているだけなのに、攻撃する手段を持っているのはとてもおもしろい。手にとって、近くで見ることができないのが残念。海の生き物は自由でとてもかわいい。
このままながめていたら、いつの間にか眠ってしまいそうだと思いはじめたころ、岩肌を蹴る音が近づくのが聞こえた。岩場には深い亀裂や潮溜まりがあるのに、そんなことなど気にしていない勢いを感じた。
「おい、ひとりでなにしてんだ」
角灯のオレンジ色が、隣に立った人影をぼんやりと映し出す。見上げた先にあった顔は、不機嫌そうだった。
「エース」
「あぶねェだろ」
「やっぱり、来ると思った」
「あ?」
「エースは来てくれると思ったの」
思った通り。わたしの勘は正しかった。エースが来ないはずがないからね。
ひとりで納得し、満たされた気分になっているわたしに、エースは首をかしげ戸惑っていた。
「ちゃんと呼べよ、心配するじゃねェか」
「ごめんね」
素直に謝ると、エースの手が伸びてきて、わたしの指をつまむようにして繋いできた。
「こんなもん持って行きやがって」
うらめしそうに角灯を見て、おれがいるのに、なんて言うものだから、思わず声をあげて笑ってしまう。
「おい」
「あはは、ごめん、……ふふ、あははッ」
「笑うな!」
「ごめんね、だって、おかしくって……ふふ、」
「おかしくねェ!」
お腹を抱えて笑うわたしに、エースは唇を尖らせて不満の色を隠さず見せる。
普段から彼はおもしろいくらい、すぐやきもちを妬く。わたしの見るもの、聞くもの、触れるもの、知っていること。相手が人間でも、動物でも、魚でも、本やお菓子や自然でもなんでも、とにかく彼なりに気になったらへそを曲げる。わざと無視をして素っ気ない態度をとってみせたり、わたしが我慢できず音を上げてしまうくらいつきまとってきたり、そのときどきで示す態度はさまざまだけれど、なだめるのはいつだって骨が折れる。
でも、ついに角灯にまで目をつけるとは。今までたくさん使ってきたのに、これから先、取り上げられてしまったらどうしよう。
エースは火だから明かりのかわりになることはできるだろう。でも、それだとあまり近くにはいられないし、手も繋げなくなくなってしまう。揺らめく赤い火をまとう姿は好きだけど、離れなければいけなくなってしまうのは嫌だ。
「怒ってる?」
笑いながら聞いたせいでエースは眉間にしわを寄せてしかめっ面になっていた。でも手はしっかりと繋がっていて、真っ黒な瞳もじっとわたしを見ていた。
「……別に、怒っちゃいねェ」
歯切れの悪い言い方。それから、繋いでいる手をぐいっと引っ張られて、エースはわたしが持ってきたはずの角灯をもう片方の手で拾って、そのまま歩きはじめた。
「帰るの?」
「なんだよ、帰らねェつもりか?」
「まだ一緒にいたい」
「まだ、っていつも一緒にいるじゃねェか」
エースの口調にはあきれているようなため息が混じっていた。でも、見上げてみるとその横顔はいつの間にかやわらかくなっていて、やさしさがにじんでいて、前を見据える眼差しも、この島で真昼に見た太陽を思わせるあたたかさがあった。
「そうね、今日も一緒だった」
ぬるい風が首筋を撫でる。潮風は肌に触れると清潔なガーゼみたいに包み込んでくる。エースの手も、わたしの手をすっぽり隠すように触れている。
「お前を置いて行きやしねェよ」
「本当?」
「勝手にどっか行ったって、おれだったらすぐ見つけられる」
「すごい。じゃあ、この海の裏側に行ったとしても、わかる?」
「余裕」
エースはわたしの方を向いてにやりと笑う。
「それならどこにでも行けちゃうね。じゃあ、明日はどこに行く?」
「明日?」
「ログが貯まるまで、あと何日もかかるでしょ? 今日はお昼寝しちゃったし、エースも遊び足りないと思って」
「……まァ、そうだな」
そう返事があって、しばらくそのままなにも言わずに歩いた。砂を踏みしめる音と、浜に波が打ち寄せる音だけが続いた。
「エース?」
いつまでも黙っていることを不思議に思って名前を呼ぶと、「明日は、」と声がして、
「お前と一緒にいられりゃそれでいい」
と、こぼれ落ちた言葉は静かに耳になじんで、わたしの胸の奥を緩やかに締めつけた。
「そっか」
うれしくて、胸が詰まるというのは、きっとこういうことなのだろう。返す言葉はたくさんあるはずなのに、口を滑って出ていくのはため息ばかり。身体の奥から花が咲きはじめたみたいに、気持ちが開いていく。体温が上がって、頬を染めた。
これ以上はなにも言わないでおこう。そう思って、繋いだ手にぎゅっと力を込めるだけにした。
だれもいない海沿いの道をふたりで歩く。
角灯の小さなオレンジが足元で踊る。
波と風の音だけが響く場所で、わたしたちの足音を、夜空に浮かぶ月だけが聞いていた。