風の誘いには乗るな
ぺち、と腹のあたりで間抜けな音。
それはさっきから何度もくり返されていて、音を立てているのは横になっているナマエだった。
「……ナマエ」
「んー」
「蹴るな」
「うん」
「うんじゃねェ、やめろって」
薄い足の甲が腹にくっつくたびに、そわそわして落ち着かなくなる。だからやめろと言っているのに、ナマエは聞くどころか弄び続ける。
ちらりと視線を下ろせば、皿の上からはみ出るご馳走のように二本の足がおれの膝に横たわっていて、思わず息を呑んでしまった。
今日のナマエは太ももまで出ているショートパンツを穿いている。いつもはなんの変哲もないただの長ズボンだってのに。
ナマエの足は細い。それに白い。太ももだってどこが太いのかわからない感じだし、ふくらはぎもどこがふくらんでるのかって思う。ひざは骨が目立つ。どこかにぶつけたのか小さなあざがある。足首はちょっとひねればとれちまうんじゃないかってほど頼りない。ぺちぺちと何度も蹴ってくるのを避けるためにさっき掴んだけど、そんなことしなきゃよかったとすぐに後悔した。傷つけそうでおっかねェ。
ナマエがなんでおれの腹を蹴っているのかというと、さっきまで宴だと騒いでいた連中に絡まれて飲んでいたからだった。
おれも最初は一緒になって騒いでいた。楽しむついでにナマエの監視として。まあ、あいつはあまり飲めないからおれがやめろと言うまでもなく自分で控えるだろうし、気が済んだら部屋に引っ込んで寝るんだろうと思っていた。けど、今日はほどよく気分が良くなったらしい。気がついたら地面に足が着いていないような無防備をさらしていて、それだけでも危なっかしくてしょうがなかったのに、船員の一人にもたれかかろうとしているのを見てしまって、あわてて首根っこを引っ掴んで回収し部屋に連れてきた。別に楽しそうにしているのはいいけど、そこまでは許してねェ。もたれるならおれにすればいい。
焦ったおかげでそこそこあった酔いが吹き飛んで、しょうがないからこのまま自分の部屋に帰って寝ようとしたとき、おれはなぜか足止めをくらった。ナマエが「もうちょっとここにいて」、とおれを試しているのかそうでないのかわからないことを、ふにゃふにゃした無防備な顔で言ってきた。内心、また焦った。一瞬、ほんの少しだけ期待して、すぐにそれはあり得ないと理性が打ち消しにきた。どうせこいつはそんなことまで考えていない。本当に、ちょっとここにいてほしいだけだろう。いつもナマエに振り回されているから覚えがある。期待なんかあっさり打ち砕いていくような奴だってのを忘れたのか、おれ。
だから嫌だ、とはっきり断った。これ以上無駄に心臓を驚かすようなことをしたくなかった。
ナマエは泣きそうな顔を見せてきた。やめろそんな顔で見るんじゃねェ、まるでおれが傷つけたみてェじゃねェか!、と頭の中で叫んだ。続けてナマエはおれの腕を掴んで言った。「おねがい」
そんなやりとりがあって、いまおれは腹を蹴られている。
しかたなく、本当にしかたなくうなずくとベッドに座るように言われ、しぶしぶ端のほうに腰を下ろすとナマエはおれに合わせるように寝転がって、ためらいなく大胆にその細い足をこっちに乗せてきたのだった。
「……おい」
「なあに」
「足、くっつけんな」
「ふふ、エースを捕まえてる」
「つめてェんだよ」
「わたしはあったかい」
「お前なァ……」
酔っ払いはタチが悪い。ほんと、ひでェ奴。おれの膝の上で足をぶらつかせて遊んでいるのも憎らしく思えてきた。ガキみてェ。そんなことされたら動けなくなるだろうが。かわいいけど。
「なァ、ナマエ」
名前を呼べば、機嫌のよさそうな声が返ってくる。
「はーい」
「お前わかってんのか?」
「なにが?」
「男を引き止めるって、どういう意味かわかってんのかって聞いてんだ」
ナマエはおれの言ったことを理解しているのかいないのか────たぶん、理解していない────変わらずふにゃふにゃの無防備な顔をしたまま言う。
「そうね、危ないことかな」
「わかってんならなんでやんだよ」
「エースならいいと思って」
「……失礼な奴」
「いいと思ったんだもん」
そう言ってまたおれの腹を蹴る。こそばゆいからやめてほしい。それにいまはちょっと傷ついてんだ。期待なんてするだけ無駄だとわかっていたのに、こいつは本当におれを弄んでいただけだと知って。
泣きそうな顔をされても無視して部屋に帰ればよかったと思っていると、ふいにナマエが笑いだした。
「ふふふ、わかんない?」
体温が上がっているのかうっすら赤くなった頬を持ち上げて、とろんと溶けた視線をおれに投げてきたから、またそわそわと落ち着かない気分になってしまった。
「あ?」
「あのね、いいと思ったの」
「それは聞いた。だから失礼だって言ってんだ」
「なーんだ、わかんないんだ」
意味ありげにナマエは笑う。気に食わない。ろくでもないことを考えているのが目に見えてわかったし、これ以上からかってくるのかと思うとうんざりした。
「はっきり言えよ」
いら立ちを隠すことなく伝える。ナマエはニヤリとほくそ笑んだ。
「言ったでしょ。エースだから、いいと思ったの」
「…………」
「他の人だったらこんなことしないよ」
おれだったらよくて、他の奴にはしない。
頭の中で何度もくり返す。言葉の意味を理解するまでに時間がかかった。ようやく理解したと同時に呆然とする。
「お前、まさか……」
「しーらない」
「ほ、本気で言ってんのか……?」
「しらないってば」
ナマエはいたずらが成功したとよろこぶガキみたいにケラケラ笑いながらおれの腹をまた蹴った。つめたくて薄い甲ですり、と撫でられた気がした。
「でも、お前、さっきおれじゃねェ男に寄りかかってたじゃねェか!」
「あれ?そうだっけ?」
「そうだ、騙されねェぞ!だからおれはお前を連れて来たんだからな!」
「よく見てるね」
「からかうんじゃねェ!信じねェからな、おれだったらいいとかそんな……」
言いたいことは山ほどあったが、次第に喉が詰まってうまく声が出ていかなくなった。それから恥ずかしさが背後からやってきて、肩のあたりが薄ら寒くなる。
こいつが、自分から誘うようなことを言うなんて思ってもみなかった。いつも逃げてばかりいて、おれが追いかけるばかりだし。
ちら、と視線を上げてナマエの顔を見ると同じようにおれを見返してきた。それまでとは違う、大人びだほほえみを浮かべていて、またどきりと心臓が跳ねた。
「……おれは卑怯な真似はしねェ」
「知ってる。エースはそういうの、ちゃんとしてるもんね」
ナマエはうれしそうにほほえんだまま言う。
「だから、わたし、好きなのよ」
そう、眠気混じりのしっとりした声でささやかれて苦しくなった。
もう何度も馬鹿みたいに跳ねている心臓が痛い。
顔があつくて、あつくて、頭がぼーっとしてきて、もしかしたら火に変わっているのかもしれないくらい身軽でおぼつかない感覚に襲われた。
そのうちなぜか泣き出したいような衝動に駆られて、きっといましているであろう情けない表情を悟られたくなくて顔を背けた。
酔っ払いの言うことなんざ、信じねェよ。
title by 宵闇の祷り