似合う人になりたかった話
※暗い
笑っていた。
たしかに。
なんでもないって、そんなふうに。
でも、その火は暴くのが上手いから。
わたしが隠しているものを。
重なったカーテンをめくるように。
一枚ずつ。
少しずつ。
そっと、燃やす。
繋がった指先の温度に、おどろいた。
エースはいつも、体温が高くて、あたたかい。例えるなら、夏の厳しい暑さにだって負けないくらい。冬に活躍する暖房器具すら凌ぐほど。
そして、ときどき、その温度は燃えるように熱くなる。火の粉を巻いて、爆ぜる、火にも似たような。じりじりと皮膚を灼いて、骨を砕いて、灰にする、赤い牙となる。
エースは火だね。伝わってくる熱の高さを、しみじみと感じてつぶやいたら、彼は喉の奥を鳴らすみたいにして笑った。思ったことを、言っただけなのに。納得がいかなくて口をつぐんだら、頬をつままれ、引っ張られた。あっという間に、顔の半分が、火照った。どうしてこんなに熱くなるの。訊ねれば、言わなくてもわかるだろと小さく、耳元でささやかれた。吐息が耳のふちを舐める。肌の下から、ぷつぷつと粟が立つ。自惚れる気はないから、確かめたの。あごの下を走るむずがゆさを、笑って誤魔化すわたしの言葉に、彼はひとつ、こめかみにキスを落とした。触ってるだけでこうなるなんて、変だもん。笑われた仕返しに、ささやく。指先をそっと引かれ、目の前の影が揺れた。耳たぶに、唇がくっつく。音を立てて離れ、次は耳の下に、頬に。そうすることが当たり前であるように目を閉じれば、引力に従った唇が、ぴたりと重なった。
エースとくっついて、触れ合うことは、嫌いじゃない。彼の体温に包まれていると、嫌なことも、つらいことも、かなしいことも、苦しいことも、全部忘れられる。
身体の外側も、内側も。じりじりと灼かれて、焦げて、灰になって、跡形もなく消えることができる。わたしはどこにもいなくなる。つかの間の甘い仮死を、味わえる。
くすぐったいとつむいだ声は、自分でもおどろくほど媚びていた。それをしっかりと聞き取ったエースは唇の端を上げ、挑発的に笑った。すぐに、食べられるように唇を塞がれながら、押し倒される。一瞬だけ、意識の端が歪む。平らなはずのベッドが、複雑に、全身にまとわりついてくるような気がした。肌を針と糸で縫い止められ、背骨や肋骨を針金でぐるりと巻かれ、動けなくなる。手足からは力が抜けて、頭もひどく重い。ぼんやりする。理性が砕ける。あっという間に、わたしは息絶える。
エースの手のひらが、滑らかに動く。背中を暴き、素肌を撫でられ、背骨の凹凸をくすぐり、筋をなぞって、産毛を逆立て、遊ぶ。あったかい。熱い。このまま、皮膚も筋肉も内臓も、ぐちゃぐちゃに混ざって、溶けちゃいそう。そうなればいい。早く。
そうしていつものように、目頭が熱くなって、目の前が霞む。ああ、癖になってる。気づいたときにはなにもかも手遅れ。焼きつきそうなこの熱に抱きしめられると、こんなふうに簡単に涙が込み上げてしまう。なんでもないのに泣くなんて、と自分自身にひどく呆れる。どうしても抑えきれないものが胸の奥を巣食っているのが、憎らしい。
「ごめんね」
鼻をすすりながら、謝った。エースに似合う、強い人になりたかったよ。涙が止まらなくなるたびに、そんな言い訳を、数えきれないほどしてきた。
がんばったの。たくさん。たくさん。好きな人に、心の半分を託してもいいと思える人に、誇らしさを感じてほしかったから。
エースはそんなことばかりを言うわたしに対して、なにも言わない。かわりにやさしいキスを落とす。手のひらが頬を、指先があごの輪郭を、辿る。撫でる。諦めるように目を閉じると、目尻から涙が滑り落ちていった。
好きな人が、いた。
生まれてはじめて、本気で恋をして、どうにか思いを伝えて、つき合ったけど、ふられた。
どうしてふられたのか、はっきりとは、わからない。訊いても教えてくれなくて、ただ、もう顔を見せるなと突き放された。
「バカ、そりゃァ、捨てられたって言うんだぜ」
突然、頭を殴られたような衝撃を抱えながら、呆然としたまま何日も過ごしていたわたしに、エースはそう言った。彼は、わたしの好きな人のことを、男の風上にもおけないと吐き捨てた。わたしがよく、好きな人のことを話していたから、どんな人となりであるかを知っていたのだった。
そんなにひどいこと、されてない。わたしはすぐに、エースになんか話さなきゃよかったと、これまでの態度を後悔した。いくらなんでも、そんなふうに言われたら腹が立つ。でも、いい加減なことを言うのはやめてと、なぜか言い返せなかった。エースの言うことを噛み締めるように、黙ってうつむきながら、自分の手のひらや指先を見ていることしかできなかった。
わたしの好きな人は、とても気分屋だった。一日のうちに何度も態度を変え、言うことも、考え方も、なにもかもが不規則だった。わたしはそれを、カメレオンみたいでおもしろいと思っていた。とても不機嫌なときに無視をしたり、怒鳴ってきたり、叩いてくるのは嫌だったけど、それ以外はすべて受け入れていた。好きだったから。わたしとは違う発想、ひらめき、視点を持っていて、なにより賢い人だったから。好きだった。なにをしてきたって、言われたって。早朝。深夜。仕事をしていたとしても。出かけていて遠く離れた土地にいたとしても。呼ばれたら、駆けつける。好きな人の言う通りに動き、笑い、泣き、息を潜める。お金だって使う。知らない女と親しそうにしていたって、気にしないでいる。
「あのね」
わたし、ちゃんと好きだったんだ。乾燥して皮がめくれた人差し指、ささくれの目立つ中指、爪の先が欠けた薬指、粉の吹いた手の甲なんかを見つめながらつぶやく。
好きだったの。本当に、大好きだったの。好きだから、尽くすのは当然だよね。自分の生活なんて後回しで、意思や価値観を捨てるのも。
好きだった。好きだった。ちゃんと、好きだった。
あの人はもう別の人と恋をしていてるけど。好きだった。その事実を知ったとき、切り替えの早さについていけなくて、喉が絞まって息苦しくなったけど。好きだった。これはあの人が悪いんじゃなくて、わたしが悪いの。わたしのせい。小さなことを、大げさに受け取る、わたしのせい。胸が平らになったみたいに強張って、苦しい。ゆっくり、大きく、息を吐く。手の上に、涙が落ちた。
「失敗しちゃった」
こんなつもりじゃないのに。泣くつもりなんてないのに。急いで目元を擦って、涙を拭う。早く止まれと祈りながら、強く、強く。涙なんて、流したって意味はないのに。もうとっくの昔に枯れたでしょ。頭の中で自問自答するけれどおさまらないし、口の端が痙攣して止まらなくなった。
「そんなにやったら、皮めくれるぞ」
いつまでも擦り続けるわたしの手を、エースは掴んで、さらう。大きくて分厚い手のひらにわたしの手は飲み込まれて、自由がなくなる。
「エース」
「お前って、」
バカだな。エースは小さく笑う。それからそっと手を引かれ、抱きしめられた。子どもをあやすみたいに背中を撫でられると、目の奥に鋭い痛みが走る。耐えきれず、ぎゅっと目を瞑ると、また涙が落ちる。口元の締まりがなくなって、声にならない音が漏れていく。
好きだった。でも、あの人はこんなこと、してくれなかった。傷ついた背中を慰めるとか、寄り添うとか、見守るとか、そういうことを。潔癖症だったから。わたしが抱きついたら、すぐにふり払ってきた。手だって繋がなかった。そういえば、わたしによく、気持ち悪いって言ってたっけ。次々に記憶が蘇る。思い出したくない。おかしい。少し前までは、こんなふうに感じなかった。
「ごめんね」
「おう」
「こんな、つもりじゃ、なくて」
「わかってる」
「ごめん、エース」
ごめんね。舌が上手く回らなくて、歪んだ声ばかりが出て、いら立ちを覚える。エースはなにも言わない。叱りもしない。ただ、抱きしめるだけ。彼の態度のおかげで、ますます涙がこぼれ落ちて、胸が強く締めつけられた。
本当は、気づいていた。ずっと、見ないふりをして誤魔化してた。エースと一緒にいると、息がしやすいのが証拠。わたしの好きな人は、わたしのことが、好きじゃなかった。わたしが受けていたのは、愛でもなんでも、なかったんだ。
今日、海行くけど、お前も来るか?
朝、唐突に、エースに言われた。
「どうして、海?」
「行きてェから」
淹れたての緑茶を飲みながら、耳を傾ける。
「晴れてるし、家にいるのはもったいねェ」
エースはほとんど寝転がるように座っていたソファーから立ち上がって、伸びをする。
「行こうぜ」
「うん、いいよ」
「ちょっと待ってろ、上着着てくる」
「うん」
わたしはお茶をすすりながらうなずいた。胸に熱を溜めるように、味わいながら飲む。海に行くのもいいし、天気がいいから出かけるのもいいけれど、今日の気温はひと桁だから。
冬の真ん中。空気は乾燥して、鼻の奥まで冷えて痛くなる。冬は嫌いじゃない。でも、寒いのは苦手。海だって、好きだけど、本当はあんまり行きたくない気分だった。だけど、エースが行こうって言うのなら、行く。どこへでもついて行く。計画を立てて動くことのない彼が、ここにしようと決めた場所には、なにかいいものがあったり、いい出来事が起きたりするから。どんなに気が向かなくても、好奇心が駆り立てられてしまうのだった。
お茶を飲み干して、コートを着る。服を着替え終え、玄関に向かうエースの後をついて、スニーカーのかかとを潰しながら家を出た。外に出た途端、つめたい空気が全身に染み渡った。肩をすくめて、ひっそりと静まり返った道を、彼と隣り合って歩く。他愛のない話をしながら駅に向かい、改札を通って、電車に乗った。
三十分ほど行ったところに、海岸がある。遊泳禁止区域だから、夏になっても入れないし、いつだって人気が少ない。冬になると特に、だれもいなくなる。案の定、目的の駅に降りたのはわたしたちだけて、海岸へと延びる道を歩いている間も、砂浜に立つ今も、ふたりきりだった。
「平気か?」
耳が千切れそうなほどつめたい風を浴びていると、エースが訊ねてくる。わたしは、コートの下がパジャマのままだった。化粧もしていないし、髪だって適当に梳かして、結んでいるだけ。到底、海辺に似合う格好ではなかった。
「平気」
そう言うと、エースは何度か小さくうなずいて、さっと走って行ってしまった。波打ち際を行ったり来たりしながら、きらりと笑う横顔がまぶしかった。
彼は、寒がりのわたしが強がっているのに、気づいている。でも、なにも訊かない。ただ、好きなことをする。やさしいな、とあらためて思う。エースはやさしい。友達のときから知っていたけど、つき合うようになってからはひしひしと感じる。わたしの考えることや気持ちを、意地悪く問い詰めたり、無理矢理暴いたりしない。彼の愛のある無関心は、わたしの心の傷を丁寧に埋めてくれる。大きく入ったひびとか、欠けたところとか、抉れたところとか。さり気なく、そしてしっかりと、蓋を閉じてくれる。
ふと思い立って、エースの真似をして波打ち際まで近づいてみた。スニーカーに水が浸みる。パジャマのズボンの裾をつまんで持ち上げても追いつかなくて、水が足首にかかるのを感じた。つめたいというよりも、一瞬だけ痛みに似た感覚が肌の上を滑った。
最初から、エースを好きになればよかったかな。そうしたら、こんなに重苦しい感情を抱えることなんてなかったかも。なんて、思い巡らすことがある。どんなに後悔したって、昔には戻れないのに。
波の音が心地いい。灰色がかった海もきれい。だれもいない。白い泡の花を片手にした波が打ち寄せるたびに、砂が運ばれて地面を洗ってゆく。それを、じっと眺める。
たのしかったこともあったはずなのに、脳裏をよぎるのは痛みと苦しみと後悔。苦くて飲み込めない記憶ばかりだと気づく。ろくなものを持っていないな。むなしさばかりが募って、肩にのしかかる。エースだって、忠告してくれていた。友達思いだから。よく考えろと、言ってくれていた。わたしはそれを無視して、突き進んでいた。目が見えていなかったのに。恋は盲目というけれど、目だけじゃなくて、思考も、感覚も、すべて麻痺して役立たずになるのだと知った。
バカだと思う。エースの言うように。わたしはバカで、惨めで、みすぼらしい。
「風邪ひくぞ」
耳の後ろから声がして、ふり向くとエースが間近に立っていた。さっきまで、遠くの方にいたのに、ひざまで海に浸かっている。
「どうしたの?」
「そりゃ、お前の方だろ」
「え?」
「死ぬつもりか」
彼がなにを言っているのかわからなくて、しばらく言葉を失う。その間にも、風にあおられて揺らぐ水面がどんどん足に絡みついていった。それを見て、ようやく異変に気づく。いつ、海の中に入ったんだろう。わからない。ぼんやりしすぎていた。エースが引き止めてくれなかったら、全身浸かっていたかもしれない。
恐ろしくなって、手を伸ばす。エースの腕にしがみつくと、身体のあちこちが震えだした。
「エース」
「死なせるために連れてきたわけじゃねェぞ」
「そんな、つもりない」
「だったら、しっかりしろ」
「ごめん」
「お前は謝ってばっかだな」
「ねぇ」
「おう」
「ありがとう」
「なにがだ」
「今、一緒にいてくれて」
エースは強引に、わたしの手を引く。水の中で足を動かすのはむずかしくて、上手く歩けなくて、何度かつまずいた。そんなわたしを、彼は呆れたように笑う。でも、大きな手のひらは、決して離れたりしなかった。
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12.計画を立てて/笑う横顔/なんでもない
Thanks 憂/@torinaxx