ある冬の島の話
身体の周りを、強烈な孤独が包んでいるようだ。
どこまでも延々と広がる、白。天高く降り積もり、前に、隣に、後ろに佇み、なにも言わずにじっとわたしを見つめてくる。忍び寄る悪魔のような冷気が、手もなく温度を奪うから、肉が削ぎ落とされたように末端が軽い。吹き抜ける透明な風には、氷の欠片が混ざって、きらきらと光り輝きながら眼球を。分厚い雲から時折見せる太陽の光は、隙間なく敷きつめられた真白の絨毯が鏡となって反射して、網膜を焼く。
夏の島にくらべれば、冬の島なんて、よろこばれない。寒いし、暗いし、立っているだけで気分が下がる。街と呼べるほど整った環境があることも、少ない。冬の島のほとんどが雪と氷に閉ざされ、険しい山や切り立った崖などがそこらじゅうにあって、住み着くにはむずかしい地形をしていたりする。港があったとしても凍りついて、限られた時期にしか船を出せなかったりするし、船を持つ文化がなかったりもする。
わたしが今立っている土地もそうだった。ごつごつした岩肌をのぞかせる大きな山に、白く濁って鬱蒼とした不気味な森。建物の影もない広大な平地。世界の端にたどり着きそうなほどの、長い、長い、道。人や、生き物の影が、とても薄い。しんと静まり返っていて、静かすぎて、居心地が悪い。ゆっくり、息を吸って、吐く。身体のすみずみに、冴えた空気が広がる。つめたい。息苦しい。
わたしは、寒いのが苦手だ。コートを着て、マフラーを巻いて、靴下とブーツを履いてしのげる程度の寒さなら別だけど。立って、歩くことが苦痛になるほどの寒さは、どんなに経験しても身体に馴染むことがない。誘われるがままに、エースの遠出につき合わなければ、よかったのかな。道に沿って生えた木の幹を、つま先でつつく。葉っぱにこびりついていた雪が、頭の上に降ってきた。粉砂糖みたいに舞って、空気に溶ける。
エースがときどき、ひとりでストライカーを駆って、遊びに行っていることが気になっていた。なにをして、なにを味わって、なにを見ているのか、知りたかった。彼はちょっと意地悪で、遊びに行った先でのことを、教えてくれない。思い出も宝だから、お前にはやれねェ、といつも言う。知りたければ、ついていくしかない。雪を踏むとぎゅっと音を立てて、ブーツの底にくっついて、固まった。土踏まずを、下から押し上げられているよう、違和感がある。早く歩け、知りたいんだろ、と急かされているみたい。
知らない土地を、ひとりで歩くのは、ひさしぶりだった。こんなこと、決して多くはない。エースがいつも、一緒だから。よくないことだとわかっているけど、彼にはつい甘えたり、頼ったりしてしまう。そして、呆れた素振りを見せるけど、エースもわたしがひとりで出歩くことをよく思わない。なにかあったら困るからって。そのなにかが、一体どんなことを示すのかはわからないけど。わたしはそんな彼の素直じゃない思いやりがくすぐったくて、うれしくて、好きだった。
「なにやってんだよ」
だから、こんな勝手なことを言われても、怒ったりしない。わたしをこの島に連れてくるなり、ふらりとどこかに行って、なかなか帰ってこなかった彼に。
「……歩いてたの」
「うろちょろすんな、探しただろ」
「エースが置いて行ったんじゃない」
ぶっきらぼうな言い方になってしまったのは、寒いから。と、心の中で言い訳をする。エースはいつもみたいに、呆れた表情を隠さず肩をすくめた。ぎゅっと雪の踏み固められる音が近づく。大きな手のひらが伸びてきて、わたしの頬に、ぴたりと押し当てられた。めずらしくひんやりしている。変なの。エースは火なのに。
「つめたい」
「遠くに行くなって、言ったぜ」
「だから、エースが置いて行ったんでしょ」
「ついてこい」
「知らないところは、怖いもん」
そう言うと、エースは眉をひそめ、なにかを言いたそうに口を開いた。見逃さなかったわたしは、すぐに彼の手を掴み、あたためるように揉みながら擦る。本当に勝手なんだから。わたしがエースのたくましさには敵わないってことを、きっと、よくわかっていないんだ。
わたしの両手を使っても全部を覆えないほどの手を掴んでいると、次第にじんわりとあたたかくなる。指先や手の甲を擦るわたしに、しばらくの間ぶつぶつとつぶやいていた彼も、気がつくとおとなしくなっていた。やっぱり、寒いのってよくないのよ。気持ちまで凍っちゃうんだ、きっと。
「こんなに冷えて」
「別に、冷えちゃいねェ」
「ねぇ、なにか見てきたの?それとも、なにもなかった?」
「あー……いや……」
「うん?」
「行こうぜ」
「え?」
「来いよ」
そう言って、エースの手はわたしの両手から逃げ出し、かわりに腕を掴んで引っ張ってきた。行こうってなに?なにかあったの?上手く理解ができずに訊いたけれど、答えらしいものはくれなかった。どうして、なにも教えてくれないんだろう。わたしはただ、好きな人のことを知りたいだけなのに。話を聞きたいだけなのに。
エースの一歩後ろを、半ば引きずられながらついていく。雪を踏みしめる音が、二人分、耳が痛くなるほどの静寂に響く。ちょっと、騒々しい。
やがて足を止めた場所は、長い長い道の先。島の端。緩やかな斜面を下った先に広がる、真っ白な平地。
ねぇ、なにもないよ。腕を掴んだまま、解く素振りを見せないエースに、訊ねる。
「海だからな」
と、なぜか誇らしげに返されて、おどろいた。
海?海って、あの海?でも、青くないよ?わたしたちがこの島に来た方角には、氷が多かったけど、ちゃんと青く、揺らめく海があった。
「凍ってんだ」
「……海って、凍るの?」
「知らねェ」
今度はなんとも適当な返事。それなのに、妙に自信にあふれているというか、すべてを知っているとでも言いたげな態度に、首をひねる。
「たしか海水ってあったかいから、凍らないんじゃなかったっけ……?」
「じゃあ、試してみるか?」
エースはわたしの耳元でささやき、にやりと笑って、平地の方に走り出した。
待って!と引き止める言葉が、自然と口から出ていく。彼はたのしそうに背中を揺らしながら、軽快に雪を踏んで先を行った。
「ちょっと、追いかけっこじゃないんだからね!」
声を上げれば、この間はおれがお前を追いかけた!と返された。この間。いつのことだろう。頭を使いながら動くのは、むずかしい。ただでさえ雪の上じゃ上手く歩けないのに。エースを追いかけて、考えて、なんて。それでも、足を動かし、前へ進む。わたしはなぜか、高く積もった場所ばかりを踏んだ。足首が完全に埋まる。引き抜くときに、ブーツが脱げそうになった。千切れた綿みたいな雪のかけらが隙間に入ってきて、靴下の濡れる感触がした。足がつめたい。
あ、と口の中でつぶやく。頭の中に、夏の匂いが香る、景色が浮かんだ。
「ねぇ!」
「なんだよ!」
「もしかして、連れてきてくれたの!」
「なにがだよ!」
エースはけらけらと笑いながら、飛び跳ねるように走る。
「知らねェ!」
彼はそう言いながら両手を広げ、ぱたりと倒れた。
海岸に打ち寄せ、砕ける波の飛沫みたいに、細かい雪が宙に舞い、彼の身体の上に降り注ぐのが見えた。
「歩ける」
ようやく追いついたわたしに、寝転がりながらつぶやいたその言葉は、低く、小さかった。まるで、ひとり言みたいに。わたしに聞かせているのか、そうでないのか、わからない形だった。彼の傍らに、ひざをつく。顔をのぞき込むと、やわらかな黒い瞳と、かち合った。
「エース」
「泳げねェけど、歩けるぜ。海を」
「うん」
「お前の言った通りだ」
そう、満足げにほほ笑むエースを見て、自然とため息が出た。手を伸ばし、つやのある真っ黒な髪についた白い欠片を払いのける。ついでにおでこにかかった前髪もかきわけて、撫でつけた。たしかあのときは、海に入って、泳いだあとのわたしの髪を、彼が整えてくれた。おだやかな、晴れの日だった。じっとしていると暑くて、肌の焼ける感覚がした。わたしはひとりで泳いで、彼はそんなわたしを見守っていてくれた。
そうだ。たしか、そうだった。
海に嫌われているから。
一緒に泳げないから。
だから、歩いてしまえばいいのだと、思った。
「……本当に歩けるなんて、思ってなかった」
「おどろいただろ」
「うん、すごく」
もう一度、今度は吐息で笑うようなため息が出た。思いもよらない出来事に、心臓が少しだけ早く拍動している。夢みたい。雪に埋もれたひざの感覚がなくなりだしたけど、服が濡れているのも、そこから伝う痛みにも似たつめたさも、まったく気にならない。
ねぇ、次は、泳げるようになろう。一緒に泳ごうよ。エースの冷えた頬に触れながらささやくと、欲張りな奴だな、と彼は晴れやかに笑った。
ワードパレット使用作品
8.つま先でつつく/温度/吐息で笑う
Thanks 憂/@torinaxx