終
硬い。もぞもぞと身じろいだ体を包むあまり心地よくないそれに意識が浮上する。
うっすらと目を開け最初に視界に入ったのは緑。煌々と暗闇の中で煌めくそれは、まるで獲物を狩る獣のようだ。
じっとそれを見つめながらぱちくりと瞬きを繰り返していた芽唯は、ふとその煌めきを縁取る輪郭に気が付いた。褐色の肌、カーテンのように落ちるチョコレートブラウン。そして最も目を見張るのは可愛らしい丸い毛の生えた耳だろう。
「……、……えっ」
ぼんやりと、思わず耳に手を伸ばしかけていた芽唯の意識がようやく覚醒し、逃げるようにベッドにさらに自分の体を沈め込んだ。もちろん、最初から寝転がっているのでそれ以上沈みようがないのはご愛敬。
「ようやくお目覚めみたいだなァ? それで? 俺の耳に触ろうとしたこの手はどうしてやろうか、え?」
「ご、ごめ、ごめんなさい!」
ぱしりと掴まれた片手は逃げることなど出来るわけもなく、褐色の大きな手のひらに包まれ、そのまま身体を引き起こされる。
自分に覆いかぶさるようにこちらを覗きこんでいたレオナ。寝ぼけていたとはいえ、想い人がそんな間近に迫っていたことや、無意識に彼に触れようとした自身に芽唯の心臓は爆音を鳴らしながら心拍を刻む。心臓に悪い。悪すぎる。
切られた糸が垂れるように、自然と離され落ちた手で自分の心臓を抑え込んだ芽唯は月明かりを背負うように窓際に立ったレオナの姿を見ながら漸く自分の現状を把握する。
少し体重をかけただけでギシリと音を鳴らすベッド。時折吹き付ける風にがたがたと音を鳴らす建付けの悪い窓。オンボロ寮の自分の部屋だ。
いつ自分は部屋で寝たのだろうか。何故目の前にレオナがいるのだろうか。状況はわかっても流れが思い出せない。振り返ろうとすれば頭の中にもやがかかる。
「……お前、どこまで思い出した?」
「どこまでって……」
「なら、最後の記憶として思い出せるのは一体なんだ?」
「最後……? え、っと……もうすぐホリデーで……その説明をクルーウェル先生がしてて……」
曰くつきの鏡を預かることになった、とたしか彼は言っていた。そしてそれを運び入れている最中に出くわして……。
「覗き込んでたら落ちた……?」
そうだ、エースとグリムがいつものように喧嘩を始めて。それを無視してデュースと鏡の噂をしていたら体に衝撃が走ったことは覚えてる。振り向いたときに心配そうに覗き込んできたエースの顔は焼き付いている。その後は……後は……。
「ぷつりと思い出せないです……。もしかして、落っこちて気絶してた……とか?」
ならばベッドに運び込まれているのも納得がいく。
しかしレオナに視線を向ければ彼は腕を組んだままこちらを見下ろし、頭のてっぺんからつま先までを注意深く観察している。掛け物越しだというのにすべてを見透かされている気がして思わず畏縮する。
「……なら俺の記憶が間違ってるのかもしれねぇなァ? 上階から落ちてきたどっかのバカは非常に運が良くてどこに繋がっているともわからない魔法の鏡に飛び込んだ」
「えっ」
「当然その場は騒然。慌てたクロウリーが見なかったことにしろだのなんだの騒ぎ立て、白い目で見られながら鏡は予定の場所へと備え付けられた」
臭いものには蓋をしろ。そう言わんばかりに問題から目を逸らす学園長の姿が想像出来た芽唯は開きかけた口を手で塞ぐ。何かを紡ごうとしたわけではない、少し呆れただけだ。
「消えた奴は学園内でも特に目を引く奴でな。噂はもちろんすぐに広まった。いつも一緒にいるトランプ兵も魔獣も大騒ぎしてたから、そうでなくとも学園を根城にしてる猫にすら伝わっただろ」
月を背後に背負ったレオナは腕を組んだままその場から動こうとはしない。
ベッドサイドの椅子に座ったらどうかと促しても彼はぴくりとも反応せず。ただ指先だけが秒針のように的確なリズムを刻む。
「あの、でも、今ここに私はいますよ……」
「自分のせいだと泣く魔獣は何日もどこにも繋がらない鏡の前で子分の帰りを待ち続けた。……今はそこで丸まって寝てるがな。ラギーがツナ缶食うかと持って行っても動かねぇって嘆いたほどだ。随分想われてるみてぇだなァ」
「何日……。えっ、何日も⁉」
待て待て待て。レオナの言葉に黙って耳を傾けていた芽唯は傍らで寝ていたグリムに手を伸ばし、その背を撫でていたが、思わずがばりとレオナの方に振り返る。
逆光になっていた為伺えなかった表情が、少し月が動いてようやく見えた。ぎゅっと眉間に寄った皺、吊り上げられた眉。おまけに喉もぐるぐると鳴り始めている。
「一週間。お前は行方不明だった」
「えっ、えー⁉」
まさか、そんな。記憶はぷつりと途絶えていて、なんとか思い出せたあれは一週間も前の出来事なのか。
驚き目を見開いた芽唯を放ってようやく腰を下ろす気になったのか。レオナはほとんどその役目をはたしていないスプリングを痛めつけるかのようにドカリとベッドの上に座る。
「わっ、ってちょっと先輩っ⁉」
「うるせぇ、黙ってろ」
「だ、黙ってろって言われても……っ」
そのまま芽唯の方へと体を倒したレオナは彼女ごとベッドへと体を沈ませる。当然レオナの重みに耐えきれるわけもなく、起こしたばかりの身体を元に戻された芽唯はぎゅうぎゅうと締め付けられる身体に触れる体温に頭がおかしくなりそうで目を回す。
「聞きてぇことは山ほどあるが……まずはこの匂いが先だ」
「に、匂い……⁉」
なんのことだ。本当に待ってほしい。情報が多すぎて、レオナの行動もわけがわからなくて芽唯は頭がくらくらとし始める。
首筋に額を押し付けてくるレオナは尻尾も巧みに使い芽唯を抱え込む。
「せ、先輩もしかして寝ようとしてません……?」
「当然だろ。お前はしばらく抱き枕だ」
「えー⁉」
「うるせぇ、黙って抱かれてろ」
「言い方!」
「ったく……けどこの匂い……?」
ぶつくさと、耳元で何かを考え始めたレオナはもう芽唯の言葉など聞いてくれない。
時折体にスリッと押し付けられるレオナの体温が心地よく、瞼がゆっくりと落ち始める。
何が何だかわからない。一週間って何?そんなにグリムは泣いてたの?問いかけてもレオナはもう何も答えてくれそうにない。
ぽかりと抜けてしまった記憶の穴埋めは明日以降するとして、今はただ抱き枕としてその使命を果たす以外になさそうだ。
◇◆◇
「妙に怒ったレオナさんがなーんにも説明してくれないまま抱き枕にされたの、今でも覚えてる」
くすりと笑う己の妻に尻尾を揺らめかせたレオナは「うるせぇ」と小さく零す。
「お前が覚えてないのが悪い」
「帰る方法が忘れるしかなかったんだから仕方ないじゃない」
鏡を深く研究し、あの日芽唯が未来に飛ばされたことも、その帰還方法が記憶を持ち帰らないことだというのも突き止めたのはレオナ自身に他ならない。
そして学生のレオナが嫉妬し、怒りをぶつけた相手が己であるということも今のレオナはわかっている。だからこそ、あえて返す直前の芽唯を抱き寄せた。
記憶力にはいささか自信がある。当時の自分たちはまだ付き合っていないどころか、互いへの好意をなんとなく隠していた時期だ。……主に隠していたのは芽唯だけだが。そんな少女が行方不明になった挙句、自分以外の匂いを付けて帰ってきたとなれば嫉妬の一つや二つ可愛いものだろう。
「俺がどれだけお前にマーキングしてたかも知らねぇ奴は呑気なもんだ」
あの学園でレオナの匂いを身にまとっているのがどれほどの効力を発揮するか、当時の彼女はきっとまったく知らなかっただろう。むしろ匂いを付けられていた自覚もないに違いない。
「元は自分が過去の自分に意地悪しただけなのに」
「発破掛けてやったんだよ。じわじわと獲物を追い詰めるのもいいが、そろそろ喉笛に噛みついてやれってな」
大事に、大事に、真綿で締め付けるように外堀から埋めて芽唯を囲おうとしていた当時のレオナ。
しかし一週間も彼女が行方不明になった時の心情は今隣に居る妻となった芽唯すら知らない。
彼女が鏡を抜けてどこかへ消えたという情報は学園中に瞬く間に広まった。それこそ『元の世界に帰ったのでは』なんて噂も立つくらいには。
別れを告げることも出来なかった魔獣は自分の軽率な行動に涙し、友人たちも文字通り死ぬほど落ち込んでいた。
レオナすら、異世界になんて早々帰れないだろうと高をくくっていた。それが一週間も姿を消して、周囲がそんな噂を立てれば可能性の一つとして考えなくもない。
最初に過ったのは逃げられたという感情。あれも自分に好意を寄せていたとわかりきっていたので、元の世界に未練があろうとなかろうとすべてを尽くして狩ってやろうと準備をしていたところだったというのに、手のひらから零れ落ちる砂のように一瞬にして芽唯が自分から逃れてしまったように思えた。
実際のところ彼女は未来の自分に弄ばれていたのだが、この出来事はレオナを焚きつけるのには十分だった。そして未来の自分も芽唯にわざと魔法で少し匂いを変えマーキングをしてきた。自分はそれをただ模倣しただけに過ぎない。
「慎重すぎるのも程ほどに、ってことなんだよ。この鏡の扱いと一緒でな」
「どういうこと?」
「さぁな。明日にはお前の親も赤ん坊の顔を見に来るんだ。義姉貴たちが騒がねぇうちに準備進めようぜ」
「もう……!」
鏡を砂にして、道を塞いでしまうのは簡単だ。けれどそれを有効活用しない手はないだろう。
未来の自分から過去に忠告をしたように。
望んだ場所ならどこにでも繋がるこの鏡はレオナと芽唯の大事な大事な宝物だ。
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