07
ぐずぐずと泣き続ける芽唯は夫婦に促され、やっとの思いで立ち上がる。腕の中にはグリムを抱えたままだ。数日離れていたうえ、このグリムは芽唯がよく知るグリムよりも未来のグリムなのだが、毛並みが異様に良いこと以外に特に大きな差はないので抱き心地は変わらない。
「レオナさんってば、私にいったいなにしたの?」
「何もしてねぇよ」
「うそ! 絶対凄い意地悪したんでしょ。こんなに泣き出しちゃったんだよ?」
それよりも、自分を間に挟んで歩く夫婦の方が気になって仕方がない。
赤ん坊はレオナに預け、自分の肩を慰めるように擦る同じ顔。しかも、レオナに対して敬語じゃないなんて。
一度崩壊した涙腺は未だ止まることを知らないが、その傍らで思考だけは冷静になっていく。
慣れた手つきで自分の子を抱きかかえるレオナは妻と芽唯を交互に見ては口角を上げるのでどこまで本当かわからない。妻も芽唯と同じ感想なのか、そんなレオナを見ては深くため息をついた。
「ごめんね私。レオナさんは大人……学園に居たころから成人してたのか……。大きくなっても意地悪なのは変わらないの」
「う、うん……」
私、と語りかけられることに慣れない。どう返事をするのが正しいのかわからない。けれど相手は自分自身だ。敬語というのも変だろう。
曖昧に頷いた芽唯は心細くてグリムを一層ぎゅっと抱きしめる。このグリムすら芽唯が知るグリムとは違うというのだから恐ろしい。それでもこの暖かさは安心できる。
リビングまで戻った四人と一匹が席に着く。もちろんグリムは芽唯の腕の中。向き合うようにレオナと赤ん坊。そしてその隣に……未来の自分、
「……なんで最初にそう言ってくれなかったんですか」
泣きはらした目でレオナを睨めば彼は責められているのをわかっているのに、どこ吹く風と涼やかな顔をする。
「そりゃあ聞かれなかったからな」
当然のことをと言わんばかりにさらっと言ってのけるレオナはそのままスッと目を細めては猫を思わせる笑みを浮かべた。
「どっかの誰かさんは俺が結婚してるってことに意識を持っていかれて、挙句自分が傷つかない為に詳しく聞こうとはしなかった。俺だって誰と結婚したのかと問われれば懇切丁寧に馴れ初めから含めて全部教えてやったぜ?」
なぁ?と芽唯から妻にレオナが視線を映すと彼女はほんの少し頬を膨らませる。
「私に振らないでってば……。私だって多分おんなじことを過去にしてるんだから」
「多分? なんで多分なの?」
「……覚えてないの。正確には忘れちゃった、ってことらしいんだけど」
彼女自身も詳しくは理解していないのか、レオナに説明を求めるように視線を投げかける。
「それが恐らくこの時代から元の時代に戻る条件だから、って前に説明してやっただろ」
「……待ってください。レオナ先輩、帰り方わかってたんですか⁉」
「知らないとは言ってねぇだろ」
「いっ……あ……う〜っ」
そうだ、レオナ・キングスカラーとはそういう男だ。
がばりと思わず立ち上がった芽唯だったが、レオナの返しにすぐに席に腰を落とす。
「こういう子分見るのってなんか久しぶりなんだゾ。最近じゃどっちかっていうとレオナのことシリニシイテルってやつなのに」
「ちょっとグリム! 余計なこと私に言わないで!」
もう、と腹を立てて同じように立ち上がった未来の芽唯はまったく同じようにすぐに座り直す。本当にあれは未来の自分だろう。仕草から何まで鏡のように瓜二つだ。
「……あんなに悩んだ時間って何だったの」
レオナが誰かと幸せになってくれたならそれでいいと、頭の中をぐちゃぐちゃにさせながらせっかく答えを導きだしたというのに。それをあざ笑うようにレオナはとんでもない秘密を隠していた。
自分は果たしてあの日レオナになんと言っただろうか。未来の自分を妻として迎えた男に、……思い出したくもない。
「信じられない……」
玄関前で零した言葉をまたも繰り返しながら頭を抱えた芽唯を眼前の夫婦がくすくす笑う。
身を寄せ合い、肩を並べて笑う二人の薬指では揃いの指輪が煌めいている。本当にこれが嘘でないのなら、自分もあのレオナとこんな風になれるのだろうか。そうであれば、どれだけ幸せな事だろう。
「あっ……でも、忘れないと戻れないって……」
「未来のことなんて知るべきじゃない。当然だろう。お前がこの時代のことを一つでも覚えている限りあの鏡はどこにも繋がらない。所謂ロックが掛かってる状態だな」
「そっか……そう、ですよね」
未来を知ってしまう、なんて話は創作にはよくあるテーマだ。作品によってはその事に胡坐をかいて行動を起こさなくなった結果、本来の未来から逸れてしまった……というシナリオだって読んだことがある。
芽唯自身、まさかレオナと自分が結ばれているとは夢にも思わず。こんなに優しくしてもらえるなら、気持ちを寄せてもらえるなら、学生時代に猛アピールをすれば未来を変えられるんじゃないかとあらぬことを考えてしまった。
元の時代に戻った自分がいつか目の前の夫婦になると言われても実感は湧かないが、正直覚えたまま帰ったらレオナとどう接したらいいかわからなくなってしまいそうなので、その点に関しては都合がいい。
「でも忘れるってどうしたら……」
「それなら俺が魔法薬を用意してある。今日の夕方ごろにでも飲めばこっちに居た期間の記憶は綺麗さっぱりなくなるだろ」
「レオナさんね、だいぶ前から今日の為に準備してたの。万が一にも私が帰れなくなったらそれこそ未来が変わっちゃうって怖い顔して」
「おい」
「どうせ意地悪して『何も覚えてない』とか言われたんだろうけど、戻ったらすっごくすっごく心配してもらえるから安心してね」
睨みつけてくるレオナを無視して笑顔で語りかけてくる自分は本当に未来の自分なんだろうか。
あまりにも今の自分たちの関係とは違いすぎて、別の世界の未来と言われた方がしっくりくる。
「……その、帰り方がわかってるならなんで最初に教えてくれなかったんですか? どうせ忘れちゃうなら長時間私がここに居る意味ってないですよね?」
恐らく、そこも過去に彼らが体験した出来事を丁寧になぞっているのだろうが、帰り方が最初からわかっているのに何故レオナは自分を数日に渡りこちらの世界に……自分の傍に置いたのだろうか。
数時間ならともかく、数日分の記憶を消す魔法薬を作るなんて労力に差がありすぎる。普段のレオナなら間違いなく楽な前者を選ぶだろう。
芽唯の問いかけに我が子の頬に指先で触れていたレオナは顔をあげては視線をゆっくり左右に動かす。
「自分の知ってる情報から繋ぎ合わせた状態を再現する為、ってのもあるが……」
サマーグリーンが伏せられ、ニッと口角を上げるのと同時に開かれたそこからギラリと光る瞳が芽唯を射抜いた。
「立ち合いを禁止されて会えなかった分、お前に傍にいて欲しかったから……だな。ライオンは寂しいと死んじまうんだぜ」
知ってるか?と付け足し、妻の腰に尻尾を絡ませたレオナはわざとらしく彼女に寄り掛かる。肩に頭を乗せられ、身体を強張らせた自分はほんのり頬が赤く染まっている。
「そう、そういうの良いから……。ほんと、もう……」
窘めるようにぺしりと尻尾を叩く手にほとんど力は入ってなくて、照れ隠しなのが自分自身じゃなくてもよくわかる。
「……あの鏡、学園に運び込まれてたものと一緒なの。覗き込んだものを幸福にするとも不幸にするとも言われてるっていう、アレ」
「あっ……。私が落ちた鏡……」
元の時代で目にしたときには布を被っていたから気づかなかった。けれどあの日上階から落下した自分が飛び込んだ鏡が教師が曰くつきだと忠告していた鏡なのは確かだ。まさか同じ鏡から別の時代に抜け出していたなんて。
「ちょっとした事情で今はレオナさんと私が所持してるんだけどね、体感的には所有者の望みをかなえてくれてるんじゃないかな、って私は思ってるの」
「望み……」
「だから、レオナさんが寂しかったのは本当だと思う」
ふふ、と笑う未来の芽唯の頬をレオナの尻尾の先がぱしりと叩く。本気で叩いているというよりは、先ほどの彼女と同じく窘めているような優しい動き。
バツが悪そうに本人は視線を逸らしているのが良い証拠だろう。
「つまり……レオナさんが望んだから私が呼ばれた?」
こくりと頷く未来の自分は本当にそう信じているのだろう。
理屈はわからないが闇の鏡に呼ばれたことで異世界に来ている身としては、レオナが呼んだから未来に飛ばされたというのも少し納得してしまう。
きっとエースとグリムの喧嘩に巻き込まれなかったとしても、鏡を興味本位で見に行くか、もしくは鏡自体に呼ばれてどちらにしろ自分は未来に来ることになっていたのだろう。
「レオナさん、私のこと大好きだから!」
なんの躊躇いもなくそう言ってのける未来の自分の笑顔が眩しくて、思わず目を細めた芽唯もきっと笑ったように見えただろう。
いつか自分もあんな風になれるのだろうか。幸せだと全身で表現して、迷いなく彼に好かれていると言える自分に。
まだ想いを通わせあってもいないのに、自分と同じ時代を生きるレオナと同じようになれたらどれだけ幸せだろうと強く思った。早く、早く、レオナに会いたくて仕方がない。
◇◆◇
夕焼けの草原の大地を沈みかけた陽が照らす。
窓から差し込んだ光を浴びた三人と一匹。一人はレオナ特製の魔法薬を持っている。
「戻ったらオレ様にいーっぱいツナ缶食わせるんだゾ!」
「はいはい、約束してあげたいけどそれも忘れちゃうからお返事できません」
「えーっ⁉」
「ふふ、ごめんねグリム。でもグリムの為にいつもツナ缶はストックしてるんだからそれで許して?」
自分の知る親分よりもとっても毛並みの良いグリム。すくなくともこの未来では変わらず相棒が傍にいてくれることが嬉しかった。
帰るためにはそれすらも忘れなければいけないが、もっともっとこの不思議な相棒のことを大事にしようと心に誓う。
「それじゃあ、私そろそろ帰ります。お世話になりました」
「世話つってもお前の家みたいなもんだしな。別に気にすんな」
「そうそう、それにお世話されたのはレオナさんの方なんだもん」
「お前なぁ……」
妻の言葉に肩を落としたレオナは芽唯を手招きする。
片手に薬瓶を持ったままの芽唯がおずおずと近寄れば、大きな体に抱き寄せられる。
「せ、先輩……⁉」
すり、っと肩口に顔を寄せ足には尻尾まで絡ませられて身動きが取れなくなる。まるでマーキングのようなそれに固まっていると、隣から未来の自分が何かを察したように「あーあ」と漏らす。
数秒続いたそれから解放された芽唯は過去のレオナにすらされたことがない強烈なスキンシップに腰が抜け、ふらふらと鏡の方へと後退る。
未来のレオナにとっては自分とこうしたことをするのは普通なのだろうが、芽唯にとってはまだ片想いの相手。ばくばくと大きな音を立てる心臓が爆発しないことを祈る。
「ま、元の時代に戻ったら精々頑張れよ」
「何をですか……?」
「すぐそうやって意地悪する……」
「帰ればわかる。お前の惚れた男がどういう奴か、ちゃぁんと覚えろよ?」
「えっと……」
なるほどね、とどこか納得した未来の自分はレオナを呆れたようにじっと見つめ、そんな視線をからからと笑い飛ばすレオナの姿は何度見ても不思議でならない。
「そら、早く飲めよ。これ以上先延ばしにすると薬の効果は保証出来ねぇぞ」
「は、はい!」
あぁ、もう戻らなければいけないのか。
いざ帰るために鏡と向き合うと、あんなにも早く戻りたかったのに自分がレオナと結ばれたという夢のような世界にさよならを告げるのが名残惜しい。
「本当に私も……同じ道を辿れるかな……」
瓶に口付ける前に手が止まる。どうしようもない不安を吹き飛ばして欲しくて縋るようにレオナに振り返る。
「……サバナクローの精神は?」
「不屈?」
「わかってるじゃねぇか。安心しろよ。生憎、お前が泣き叫んでも手放してくれるような優しい男じゃないんでね。俺は狙った獲物は逃がさねぇ主義だ」
「それって……」
「いいから、おら、さっさとしろ!」
「んぐっ⁉」
レオナの言葉にまた疑問が湧いてくる。しかし続けて質問をしようと口を開いた隙を狙ってレオナは瓶を掴むと無理やり芽唯の口に押し込んだ。
「ん〜っ!」
突然のことに口に流れ込んできたそれを無意識に呑み込んだ芽唯に流し込むようにレオナが瓶に角度を付ける。
高くなるのに比例して瓶の中身は減っていく。ごくりごくりとすべてを飲み干す頃には視界も意識もすべてが歪む。
「それじゃあな、精々過去の俺に気を付けろ」
ニヤリと笑うレオナの横で未来の自分はクスリと笑う。
「レオナさん、それじゃあ逃げて欲しいみたいですよ」
「あァ? 逃がさねぇって言っただろ」
「……らしいので、頑張ってね、私。レオナさん意地悪だからいっぱい泣かされちゃうだろうけど、それでもすっごく幸せだから」
ふらふらとしながらなんとか声を拾っているとトンッと肩を押されて後ろ向きに倒れ込む。
じゃあねと手を振る未来の自分と最後の最後に柔らかく笑うレオナの姿を目に焼き付けて、あの日この時代に迷い込んだ時のように。芽唯の体はまた鏡へと沈んでいった。
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