01
ラギー・ブッチの朝は早い。学生らしく部活の朝練はもちろん、ある生徒曰くトドの様な獅子、レオナ・キングスカラーの世話をしなければならないからだ。
もちろん、そのことについて文句はない。なにせ彼には相応の報酬を貰っている。確かに、腹が立つことも少なくないが、それはそれ、これはこれ。感情一つで得意先を失うほどラギーは愚かではなかった。
最近レオナの部屋を訪ねる際、新たな決まりがラギーの中で増えた。
早朝、扉を開ける前には必ずノックを三回、そして十秒待つ。その後は返事があっても無くてもいつも通り部屋に入る。
部屋の主はこんな微々たる音で目を覚ますことも、ましてや快く扉を自ら開けて迎え入れてくれるような殊勝な男ではないのだが、これは彼が囲ったとある少女への気遣いであり合図の様なものだ。
ラギーだって睦み合う男女の仲に割って入るつもりはない。他人の恋を邪魔するやつはシマウマにけられてなんとやら。そんなお間抜けになり下がるつもりは毛頭ない。
今日も十秒が過ぎる前にがちゃりと音を立てて扉が開かれる。既に身支度を終えた少女、芽唯は頬を綻ばせて微笑むとラギーを室内に招き入れた。
「おはようございます、ラギー先輩。今日も早いですね」
「メイくんこそ。それで、レオナさんは?」
レオナと彼女が一緒に寝ていたであろうベッドに視線を移す。そこは既にもぬけの殻で、大方彼女に起こされ顔でも洗いに行ったのだろう。自分が起こす日もこれくらい素直に起きてくれると助かるのだが……。そんなことを期待するだけ無駄だろうと無意識に嘆息が漏れる。
「洗面所に行ってます。何か手伝うことありますか?」
「あー、大丈夫ッスよ。それより疲れてたりするんじゃないッスか? 大人しく休んでていいッスよ」
揶揄いの意を込めて口角をニヤリと上げてやれば、芽唯は顔を真っ赤にして首を全力で横に振る。
「ら、ラギー先輩が思ってるようなことは何一つないです! いつも言ってるじゃないですか!」
「あららー? オレはなーんも言ってないッスよ? 何を想像したんスかねぇ。やーらしい」
「なっ、なっ、〜〜〜っ!」
「ハハハ、ごめんってば」
そんなに一生懸命否定しなくても何も起きてないことなど重々承知している。綺麗に整えられた寝床……は朝整えたものかもしれないが、自分達の鼻だけは誤魔化すことができない。他のどんなものよりも自分の嗅覚が『二人の間にはなにもなかった』ということを教えてくれる。
晴れて恋人になったと聞いたその日の夜、それまで開いてしまっていた距離を埋めるかのように彼女を手放すことを嫌がったレオナは、困り顔の芽唯を無理やり説得するとそのまま自室に閉じ込めてしまった。
あぁ、なんて手が早い。さすがは肉食獣。室内で行われていたであろう秘め事を想像して、翌朝部屋を訪問するのにかなり勇気がいった。
部屋の前でドアノブに手をかけることも出来ないまま躊躇していると、ガチャリと音を立てて内側から扉が開いた。肩を跳ねさせた自分と異なり、昨夜見た最後の姿と違わず、しっかりと身なりを整えて出てきた芽唯の姿に目を丸くしたのは言うまでもないだろう。
「あ、れ……メイくん? 動けるんスか?」
「はい?」
ラギーの質問に首を捻った芽唯は何を聞かれているのかすらわかってないようだ。
失礼だとは思いながらも彼女の匂いをさりげなく嗅ぐが、普段となんら変わりない──もちろんレオナの匂いはかなりしているのだが──いつもの彼女が纏っている匂いから何一つ変じていなかった。
質問の糸がいまだ理解出来ずに芽唯は目をぱちくりと瞬かせ、昨日はあんな泣きはらしていたのにすっかり腫れも引いて晴れやかな笑みを浮かべている。てっきり今日は疲れ果て、ぐったりとその身をベッドに横たえたまま動けないであろう芽唯を想像していたラギーは、目の前の現実に思考が追いつかない。
兎にも角にも、穢れを知らない少女に自分の汚れ切った思考を晒すわけにもいかず、ラギーはなんでもないッス!と声を張り上げるだけで精いっぱいだった。
「えーっと、レオナさんは?」
「それが揺すったら意外と素直に起きてくれて、部活にもちゃんと出れそうですよ」
にこり、と音が付きそうなほど眩い笑みにラギーはますます自分の汚れが浮き彫りになる気がして目を逸らした。自分はこんな少女を捕まえて何を想像していたんだろうか。ふるふるとかぶりを振って、穏やかな朝に似合わない薄汚れた思考を振り払う。
だが、決して自分は悪くない。年頃の、しかも女性に飢えた男子高校生の中に放り込まれた一凛の花。それを愛でている男がいるのだから、摘み取られた姿を想像するのも自然なことだろう。
そんな朝のやりとりを何度も交わし、今では揶揄い交じりに弄ることが出来るようになったのだから慣れとは恐ろしいものだ。
真っ赤になった芽唯を宥めていると洗面所からレオナが姿を現した。支度を済ませた芽唯と違い、未だ就寝時と変わらない姿でうろついているのがなんとも怠惰な彼らしい。
妖精たちが起こした騒動の時、舞台上で周囲を魅了していたあの姿は一時の幻だったのだと思う。あれだけヴィルに仕込まれた立ち振る舞い方も今では元通り。足が地面を擦り、姿勢も悪く、歩くときに頭が揺れる。肩で風を切りながら移動するレオナを見れば、ヴィルはまた「王子じゃなく玉子なんじゃないの」と罵るに違いない。
欠伸をかきながら戻ってきたレオナを見て芽唯は小走りで駆け寄ると、既に準備してあった制服一式を手渡した。
「早く食堂に行きましょう。お腹すいちゃいました」
「ん……」
魔法を使って一瞬で着替えたレオナは気怠そうに後頭部を掻くと、思い出したように髪留めを芽唯の掌に落とす。自慢の鬣は多少は手櫛で整えたのだろうが、完璧とは言い難い。
「あ、そっか。先にこれやらなきゃですよね。それじゃあベッドに腰かけてください」
座る様に促され、大人しく彼女の後ろを歩くレオナは何か言いたげにラギーを見やる。
その視線に嫌な予感がしたラギーは逃れるように周囲を見渡すが、芽唯が通うようになってからあまり散らかることが無くなったこの部屋で特に仕事など見つからなかった。かつての光景が信じられないほど綺麗に整えられ、逆に居心地の悪さを感じるのはどういうことか。とにかく何も言われないうちに退室しようと二人に背を向けたその時、後ろでギシリッと音が鳴る。
「おい」
ベッドの悲鳴に被せるように低い声で獅子がうなった。
「……なんスか?」
振り向きながら極力笑顔を心がけて返事をしたが、頬が引きつったのをレオナは見逃さないだろう。
「あとで覚えとけよ」
あぁ、やっぱり。
たかだか扉一枚挟んだところで自分たちの会話は筒抜けだったのだろう。自分の番に対してお前は何を言っている、と鋭い視線が問いかけてくる。例え聞こえていなくとも、ほんのり赤らんだ頬や自分達とは形の違う耳を見れば一目瞭然だとは思うが。
「……昼にデラックスメンチカツサンドじゃダメッスか?」
「新作も買って来い」
「りょーかい」
あれを手に入れるにはどのタイミングで教室を出れば間に合うだろうか。昼食前の授業がなんだったか、今日の予定を思い出しながらラギーはようやく部屋を後にすることが出来た。
扉が閉じるとき、不思議そうな顔をしながら手を振っていた芽唯は自分達のやり取りの意味を分かっていないだろう。
(アンタを揶揄った罰が当たったんスよ)
余計なことを言わなければよかったと少し前の自分の軽率な行いを悔いりながら、大食堂へと向かうべく足を動かした。
◇◆◇
「それで? レオナさんとは結局どこまで進んだんスか?」
「へ……?」
木漏れ日の中、昼食を手渡すと芽唯は突然の質問に首を傾げた。
新作──苺を使った菓子パンでいかにも女子が好みそうな品──だけが入った袋を受け取りながら芽唯は視線を泳がせる。いつもならレオナが腰かけているはずの定位置に座ると、ラギーは己の分の袋を広げ、彼女に渡した物からはだいぶランクが落ちるが、それでも腹を満たすには十分な自分の昼食を手に取り一口齧る。
「えっと、レオナ先輩は……?」
おずおずと口を開くと助け船を求めるようにレオナの名を出した芽唯はどこか小さく見える。こういう所が庇護欲というものを駆り立てるのだろうか。可愛いとは思うが、他人に対して特別な気持ちが芽生えたことのないラギーには少し難しい感情だった。
「寮長会議ッス。あれ、知らなかった?」
「はい。昼食は用意しなくていいとは聞いてたんですけど、いつも通り来るように……とだけ」
居心地が悪そうにそわそわと周囲を見渡すも本当にレオナが来ないと悟った芽唯は、大人しくて手渡された袋からパンを取り出すと少しだけ目を輝かせた。
「それ、手に入れるの大変だったんスよ」
授業の終わりを知らせる鐘が鳴り響くのと同時に教室を飛び出し全力疾走。なるべく出入り口に近い席を確保するところから始めた作戦が功をなし、何とか最後の一つを手に入れることが出来たのだった。
ちらちらと時計を見ながら5分前には鞄の中に荷物をねじ込んでいた自分にトレインが厳しい視線を送っていたが、この際仕方のないことだと割り切っている。教師の反感を買うのが怖くてレオナの後ろを歩くことなど出来るわけもない。そんな行儀のいい生徒ならまずこの学校に入学を許可されていないとも思うが。
「これ、次に麓のベーカリーが来るとき新作として出るって聞いたときからおいしそうってレオナ先輩と話してたんです!」
嬉しそうに頬を綻ばせる姿にこちらも自然と口元が緩む。レオナの命令だったとはいえ、買ってきたかいがあるというものだ。
自分に買い出しを言いつけたレオナもさぞかしこの瞬間を見たかっただろうに、急な寮長会議とはついてない。
後でこのことを自慢しようものなら、さらに機嫌を損ねかねないので口にすることはないが、ほんの少しだけ留飲が下がる。
「そりゃよかった。たーんと味わって食べてくださいね」
「ありがとうございます、ラギー先輩!」
一言お礼を言うと芽唯は少し悩みながらもようやく場所を決められたのか、大きく口を開いてがぶりとパンに齧りつく。
「お礼はレオナさんに言ってください。いつも通り支払いはあの人なんで」
淡いピンク色のクリームは恐らく苺が練りこまれているのであろう。パンからはみ出さんばかりに挟まれたそれを頬に付けたまま芽唯が笑う。
「それで、最初の質問の答えがまだなんスけど?」
「あ、はは……。何も進んでない、です」
観念したのか、恥ずかしそうに零すと芽唯は誤魔化すようにもう一口パンを齧る。むにゅっとはみ出たクリームが彼女の小さな手を少し汚す。
「……キスすらも?」
「ない、です」
具体的な言葉をぶつけても芽唯は首を横に振る。本当に意外だ、などと思うのは些か失礼だろうか。いや、相手はあの獅子だぞ。レオナだぞ。極上の餌を縄張りに連れ込んでいるのに、本当に手を出していないのか疑っても許されるだろう。
「はー……ほんっっっとに大事にされてるんスねぇ」
昼食を片手に持ったまま、後ろ手で身体を支えながら晴れ渡った空を見上げる。澄み切った空を一羽の鴉が横切るのを見てラギーは瞼を閉じた。
あれ以来、レオナは何度も芽唯を部屋に泊めた。
色々と理由を付けてはオンボロ寮に帰ろうとする芽唯を、優しく甘い声音で引き留める姿は最初こそ寮生の注目を浴びたものの、今では誰も気に留めなくなっていた。
ちらりと片目で芽唯を盗み見ると、視線に気づいたのか小さく口を開く。
「その……私も初めて泊った日…………。あ、お付き合い始めてからですよ。イソギンチャクの時じゃなく……」
もごもごと口籠りながらも紡がれる言葉に耳を傾ける。
「何かしら、は……されるんじゃないかな、と覚悟してたんです」
「へぇ……?」
初心だとばかり思っていた少女は、意外と男女関係に対しての知識をある程度は持ち合わせていた。以前、詳しく聞いてみたところ、恋愛経験自体はないものの、元の世界での友人たちとの会話や、レオナに手紙を書く際に図書館でその手の小説を読み漁りまくった結果の知識らしい。
その時の習慣が抜けないのか、元々読書好きということもあり今も一冊の本が彼女の鞄からほんの少しだけ顔を覗かせている。
「レオナ先輩って大人じゃないですか。二十歳だし、いろんなこと知ってるし……。だから、私のことを好いてはいても、そういう魅力は感じないのかな……とは最近ちょっと思ってます」
不安げに紡がれる言葉に嘘はないだろう。最後は小さく消えゆくような声音だったが、獣人の聴力は最後の一音まで丁寧に彼女の本音を拾い上げた。
「も、もちろんレオナ先輩が遊びで交際をする人だなんて思ってないですよ! すごく拗れた時もあったし……、そうまでして私とお付き合いするメリットがあるとは思えないですし」
伏し目がちに丸く大きな瞳を少し潤ませ、右往左往させると瞼を閉じる。レオナの気持ちを疑っているわけではないが、不安な気持ちが膨れ上がるのは止められないのだろう。
「ま、メイくんがそう思うのも仕方がないことだとは思うッス」
なにせ外野の自分達ですら、二人の進展の遅さに長らくヤキモキしていたのだ。当人である芽唯はそれ以上の想いを抱えていてもおかしくない。
食べかけだった昼食を一気に口に押し込むとラギーは身体を起こし、芽唯を正面から見つめる。ぐっと近づいた距離に身体をびくつかせた芽唯だったが、その真剣な眼差しに逃げることなくこちらを見つめ返す。
「オレの方からそれとなく聞いてみる、って手もあるッスよ?」
もしかしたら彼も何かしらの理由で手を出しかねているのかもしれない。他人の恋路に深入りするつもりはないが、多少の手助けくらいはしてもいいと思える程度には二人と自分は無関係ではないと自負している。
「本当、ですか……?」
「こんなことで嘘ついてもしょうがないっしょ」
己の提案に芽唯は数秒思案すると縋る様な眼差しで見上げてくる。
「お願い……します」
ぎゅっと握られた小さな拳からまた少しクリームがはみ出した。
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