01


 ノースリーチの夜のとばり。
 その名を聞けば大半の者は華やかな娼婦や男娼を思い浮かべるだろう。
 けれど、かつてその場所で働いていたラリスと共に進むジョシュアの中では違うことが渦巻いていた。

「ねえ、ジョシュア……本当に一緒に行くの?」
「もちろん。ここまで来て帰れなんてひどいこと君は言わないだろう?」
「それは……そうだけど……」

 むっと唇を尖らせたラリスの手を黙って引いたジョシュアは「ほら」と急かす。
 今回の旅にヨーテは連れてきていない。
 彼女は同行したがっていたが、タルヤに頼まれた用事で手が離せず何度も気を付けてくださいと念を押されての旅立ちになった。
 他に誰も居ないラリスとだけの旅。
 正直なところジョシュアは少し気持ちが弾んでいた。
 今この瞬間、ラリスは自分の隣にいる。
 拗ねて尖らせた唇も、少し億劫そうな足取りも、困ったように伏せられた瞳も、今は誰にも邪魔されず見ていられる。
 だからこそ、少し意地悪な言葉が飛び出て彼女を困らせてしまっているのだが。

「君が世話になった人なんだろう。僕にも挨拶をさせてほしい」

 娼館で働いていたことに関してはいまだに納得していないが、少なくともラリスの身の安全はその人……夜のとばりのマダムに守られていたと言っても過言ではない。
 当時はジョシュア自身も教団員に密かな頼み事をしていた。
 任務のついでで構わない。どうか彼女を見守ってほしい、と。
 けれど、ラリスの娼婦としての仕事が穏やかな癒し手の範囲で済んでいたのは、ひとえにマダムがあの場所で確固たる地位を築いていたからに他ならない。

「でも……」
「でも?」

 ラリスはぴたりと立ち止まると地面を見る。
 相変わらず居心地が悪そうで「帰ろうか?」と声を掛けたら頷きそうなくらい気分が沈んでしまっている。
 ぽつりと零された言葉をそのまま復唱したジョシュアが覗き込めば、ラリスは逃げるように顔を逸らす。
 風に流された髪が顔にかかって表情は読めないがどこか遠くを見つめている。
 視線の先を追いかければ、遥か遠くには砦の一角がわずかに見える。あそこが目的地・ノースリーチだ。
 二人揃って同じ方向を見つめていれば、ラリスの小さな手のひらがジョシュアの手を少しだけ強く握った。

「あまり……あなたに関わってほしくない。きっと変なこと吹き込まれるから」

 絞り出すようにそう言ったラリスは今度は自らジョシュアの手を引いて歩き出す。
 彼女と歩幅を揃えて歩き出したジョシュアはラリスが何を嫌がっているのか考え続けたが、結局答えは出なかった。

◆◇◆

 砦の南側、市場に入れば地元民たちが取引する活気のいい声が響き渡る。
 いつだったかジルが喜んで買ってきていたパンや値段の割に上質な布。
 それから娼館目当ての客向けに、お目当ての相手に手土産にどうかとお香や櫛といったものが売られている。

「おや、誰かと思えばラリスじゃないか。まさか夜のとばりに戻ってくるのかい?」

 ラリスは足早に市場を抜けようとしていたが、それよりも早く恰幅のいい女性が目ざとく彼女を見つけてしまう。
 店先の商品を見るに彼女は娼婦や男娼相手に商売をしているのだろう。
 つまりラリスは見知った顔というわけだ。
 げっ、と小さく漏らしたラリスは少しだけ咳払いをすると「違うわよ」と首を振ると手を放し、彼女の視線からジョシュアを隠すように立ちふさがった。

「そうなのかい? でも、そんな上品なお坊ちゃん連れてお客じゃないとは言わないだろう?」
「違うって言ってるでしょ!」

 覗き込むようにこちらを見た女性はジョシュアとラリスの顔を見比べると首を傾げた。

「じゃあなんだっていうんだ。まさか、恋人なんて言わないだろうね」
「……っ……、それは……その……」
「ほらやっぱり。坊ちゃん、悪いことは言わないからこの子はやめときな」
「ちょ、ちょっと……!」

 強引にラリスとジョシュアの間に割って入ると女性はジョシュアを頭のてっぺんから爪先まで品定めするように見つめて頷く。
 女性の肩越しに見えるラリスは頬を膨らませて何か言いたげに口を開閉させていたが、最後は居心地が悪そうにそっぽを向いた。
 大方、上手い言い訳が思い浮かばなかったのだろう。
 下手なことを言えば探られる要素が増えるだけ。沈黙を選んだのはおそらく正解だ。

「近くで見れば見るほど綺麗な顔をしてるんだね……。ああ、わかった! 新しい男娼なんだろう!」

 ジョシュアをじっと見つめた女性は納得したように頷くとラリスへと振り返ってその背を叩く。

「まったく、どこでこんな色男見つけてきたんだか! 客を引くようになったら教えてよ、絶対に行くからさ」
「ちょっ、まっ痛っ……! わ、わかった! わかったから!」

 バシバシと背中を叩かれたラリスは逃げるようにジョシュアの手を取ると女性を適当にあしらって彼女の店から逃げるように走り出す。

「よかったら贔屓にしてくれよ! あんたに合う品を入れておくからさ!」
「いい加減にして!」

 背中に掛けられた声に向かって大きく声を上げたラリスは「もう!」と力強く地面を蹴った。
 跳ね上がる泥を気にもせず、服の裾が汚れても見向きもしない。
 そんな姿を見てもあの女性がラリスが娼館に戻ってきたと思い込むとはジョシュアには到底思えなかった。
 咄嗟に振り返って店を見れば、肩を震わせながら彼女は笑って自分たちを見送っている。
 店先に並ぶ品を整えるふりをしながら、何度もこちらへ視線を送る彼女は本気で勧誘しているようには見えない。

(ラリス……君、揶揄われてるよ)

 そんなことを伝えてしまえばラリスは今すぐ反転して、今度こそ彼女に文句を言ってしまうだろう。
 やっと夜のとばりに向かいだしたのだからと言葉を胸の内に留めたジョシュアだったが、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。

◆◇◆

 砦を抜けると市場がある南側とはがらりと空気が変わる。
 兵士の駐屯場や貴族の住居、そして目的地である娼館が立ち並ぶ北側は賑やかさとは程遠い。
 街を歩く男女はおそらく兵士と娼婦で、腕を絡めたり抱き合ったり。
 わざとらしい甘い声を響かせながら、ひと時の触れ合いを楽しんでいる。

「はぁ……」

 その様子に軽くため息をついたラリスは繋いだ手を一瞥すると一瞬だけ悩むそぶりを見せたが解きはしなかった。
 むしろ離れないでほしいと言わんばかりに手の力が強まる。その事実に、ジョシュアの胸は少しだけ軽くなる。
 北側へ抜ける際、関所の番兵に呼び止められるのではと思ったが彼らもまたラリスを見て先ほどの店主のように揶揄い半分で道を譲った。
 ジョシュアのことをどう思ったのかはわからないが「嬢ちゃんをよろしくな」と肩を叩かれたので、少なくとも敵意は持たれていないだろう。

「気分が重そうだね。大丈夫?」
「大丈夫……じゃないけど……。もっと大変なのはこの後だもの」

 そう言って肩を落としたラリスは街を見渡す。

「ここ、何も変わってない。相変わらずびっくりするくらい平和だけど」
「嫌……なのかい?」
「そうじゃないけど……。ちょっと居心地が悪い。おばさんだけじゃなく門番だってニヤニヤしてたでしょ」
「うん」
「なんていうか、生暖かいというか……。ずっと子ども扱いされてる気分」

 後ろ髪をかきあげたラリスはため息をつく。
 少し影の混じった表情だけを見れば年相応の女性に見える。
 けれど、きっと先ほどの店主も門番も。この街の誰もがラリスの内面を知っているからこそ親のように接してしまうのだろう。
 ラリスからしてみれば不服だろうが、ジョシュアは少なからず安堵した。
 つまりそれは全員とは言わないが、多くの者がラリスを守るべき相手と認識しているということだ。

「ねえジョシュア」
「ん?」
「絶対変なこと言われると思うけど、本気にしないでね」

 ぎゅっと握られた手のひらはまるで縋りつくようで、ジョシュアは少しだけ言葉を選ぶ。

「内容次第……かな。君のことなら僕は冷静でいられないから」
「だ、大丈夫よ。だって、ほら。こんなに平和なんだから」

 焦ったように周囲を見渡すよう促すラリスは「ね?」とジョシュアの顔を覗き込む。
 普段なら恥ずかしがって自分を避ける癖に、どうしてこういう時ばかり彼女は正面から見つめてくるのだろう。
 少しだけ街の空気に飲まれかけていたジョシュアは喉を鳴らすと、深く息を吐いてラリスの頬に手を伸ばす。
 触るだけ、ほんの少しだけ。
 そう言い聞かせて澄んだ丸い瞳を見つめ返したジョシュアは数度頬を撫でるだけだと自分を律した。
 柔らかな頬に触れながら顔を近づければラリスは数度瞬いて、けれどやはり逃げはしない。

「ラリス……」

 自分たちの隣を通り過ぎる兵士たちが「俺も今日誰かに相手してもらおうかな」と呟く声がやけに響く。
 周囲からしてみれば恋人同士の触れ合いすらも娼婦とその客にしか見えないのだろう。
 躊躇いながらも親指の先でラリスの唇をなぞったジョシュアは額と額を合わせて目を閉じる。

「わかったよ」

 そう言って離れても、ラリスは変わらず不安そうな瞳でジョシュアを見つめた。

「ほら、早く店に行かないと。夜が更けたら娼館はもっと忙しくなるんだろう?」
「そ、そうね……」

 まだまだ陽が高いとはいえ時間は止まってくれない。
 それに職業柄、娼婦やマダムたちが忙しいのはこれからだ。
 早く帰りたいと望むなら、会うのは早いに越したことはない。
 頷くラリスが歩き出すのでジョシュアは静かに胸をなでおろす。

(なんとか話題は逸らせた、かな)

 ラリスには悪いが、話によっては少し問い詰めることも辞さないつもりだ。
 この街には自分の知らないラリスの思い出がある。
 会えなかった時間を埋める術は何も今だけじゃない。
 むしろ、過去をなぞって汲み取ることは得意分野だ。
 緊張しているのは彼女だけではないのだと伝わらないように、静かに、静かに息を吐いた。

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