03
眠り続けるジョシュアを見つめていると他の患者を診終えたタルヤ先生とヨーテが戻ってきた。
それまで聞こえていたのはジョシュアの静かな呼吸と、時折遠くから聞こえる足音だけだった。
二人の足音が近づいてきて、ようやく私は自分が息を詰めたまま座っていたことに気づく。
私の隣に椅子を寄せ腰を下ろすのでそちらを見れば、私の顔を見るなりタルヤ先生は肩を竦ませ笑う。
「呼吸も安定しているし、そんな怖い顔してなくても大丈夫」
そう言って私の眉間を突いたタルヤ先生はジョシュアの方を向いて深く息を吐く。
「……って言っても、若様の状態を知ってるあんたには気休めにしかならないね」
「…………」
普段は服で隠れているけれど、ジョシュアの胸には大きな傷がある。
傷の周りは明らかに肌の硬化が進んでいて、異質さを放っている。
少しずつ、本当に少しずつなのに、確実に広がっている。
ベアラーたちの石化現象と違って時折光を放つそれはまるでジョシュアの命を吸っているみたい。
それに対して私たちができることは薬で痛みを和らげるだけ。
こうして眠っている間にも、体の内側からどんどんボロボロになっている。
眠っているから苦しんでいないように見えるだけで、目を覚ませば痛みに顔を歪める。
その繰り返しを何度も見てきた。
だから、こうして静かに眠っている姿を見るほど怖くなる。
目を閉じているだけなのか。
それとも、このまま二度と目を開けないのか。
そんな考えが浮かぶたび、私は慌てて頭の中から追い出してきた。
けれど、消したはずの不安は、こうして眠る彼の隣に居るとすぐに戻ってくる。
「……少なくとも、十三年前はこんな酷い状態じゃなかった」
「世話になってたっていう施設に居た頃?」
「うん……」
あの日≠フ惨劇から五年の昏睡を経て目覚めたジョシュア。
それだけの歳月が過ぎても快癒したとは言い難い状態で、ベッドから出るどころか体を起こすことすらままならなかった。
なのに、永い眠りのせいですっかり時間の流れに置き去りにされたはずの彼の心は折れるどころか強く激しく燃え上がる。
私が知っているジョシュアは、もっと小さくて、もっと弱くて、それでも必死に前を向こうとしていた。
フェニックスとして、大公家を継ぐ者として、アナベラから寄せられる期待に必死に応えようとして……。
だからこそ、彼の兄であるクライヴもジョシュアを守ろうと盾となることを誓っていた。
けれど今、目の前にいる彼は違う。
身体は大きくなって、力も随分強くなった。
なのに、その身体は昔より傷ついている。
私が知らない十三年間の間に、彼は多くのものを背負ってしまった。
昏睡する前だって身体が弱くて、少し歩いただけでも息を切らして。
それでも誰かに心配かけまいとして、いつも背筋だけは伸ばしていた。あのジョシュアが。
けれど今、目の前にいる彼の身体には、私の知らない傷がいくつも刻まれている。
私が離れている間にできたもの。
私の知らない場所で、知らない誰かと戦ってきた証。
それを見ていると、私だけがその時間から取り残されたみたいだった。
「旅に出て、背負い込むものを増やしたのね……」
私は教団に居た頃と何も変わらない。
ほんの少しの間外の世界を見てきただけで、またこうして苦しむジョシュアの傍にいることしかできないの。
否が応でも自分の無力さが身に染みる。
私は情報を集めることはできる。
人の顔色を読むことも、相手が何を欲しがっているのか考えることもできる。
嘘をつくことだって、今では苦にならない。
なのに、ジョシュアの前ではそれらが何の役にも立たないの。
目の前で苦しんでいるジョシュアの痛みを取り除くこともできないし、痛みを代わってあげることもできない。
石化を止めることも出来ない。
背負ってきたものを、代わりに背負うこともできやしない。
結局、昔と同じ。
私に出来るのは、ジョシュアの傍にいることだけ。
少し変わったのは彼に望まれて隣に座っていることくらい。
でも今は、それが何になるのかわからない。
ジョシュアを守りたいと思う気持ちに反して、私は何一つ持っていない。
「隠れ家に初めて来たときもそうだった。ザンブレクの王子様と二人してボロボロで……」
クライヴもジルもみんなボロボロだったけど、特に二人は重傷で医務室は大騒ぎになってしまった。
ベッドの上で横たわり、苦しそうに上下する胸。
呼吸はしっかりしているのに、あの柔らかな瞳が姿を見せることはない。
「私……何日も目を覚まさないジョシュアを見るのが凄く怖かった……」
教団での日々が脳裏をよぎって、私はタルヤ先生に怒られながらもずっとこの場所を離れることができなかった。
握った手のぬくもりも、医務室に漂う空気も、すべて一緒だったから。
あの頃も私は何度もジョシュアの寝顔を見つめていた。
呼吸をしている。胸が上下している。手も温かい。
それなのに、どれだけ名前を呼んでも返事はない。
「ジョシュア、今日はこんなことがあったよ」
「今日のご飯はね──」
「明日はきっと、もっと面白い話ができるから」
そうやって話続けているうちに、自分が何を話しているのかわからなくなることもあった。
それでも、声を止めるのが怖かった。
私まで黙ってしまったら、本当に彼が遠くに行ってしまう気がしたから。
ジョシュア。ねえ、ジョシュア。
教団の施設内に、私が一方的に語る声だけが響き続ける。
最初の頃は、返事がないことが怖かった。
けれど何日、何週間と過ぎるうちに、返事のないことにも慣れてしまった。
それが一番怖かった。
初めは少しでも呼吸が変わればすぐに顔を覗き込んだ。
眉が動けば目を覚ますのではないかと期待した。
でもジョシュアはずっと眠り続けた。
いつしか私は彼が眠っていることを前提に一日を過ごすようになっていた。
朝になれば水を替えて、食事をすればその日の味を話して。
夜になれば「また明日ね」と声をかける。
返事なんてない。
それなのに、そんな毎日が当たり前になっていく。
あんなにも目を覚ましてほしかったはずなのに、私はいつの間にか眠ったままのジョシュアの隣にいることに慣れてしまった。
「ああ……、だから若様が目を覚ました時に泣きながら逃げたんだ」
「な、泣いてなんか……、っ⁉」
タルヤ先生の言葉に思わず立ち上がりかけた私を何かが引っ張る。
握られていた手にほんの少しだけ力がこもった。
ぴくりと指先が動いて、その動きに私は思わず息を呑む。
「また*lの為に泣いてくれたの?」
すとんと椅子に戻されて、ベッドから急に伸びてきた手が頬に触れる。
長い指先がそっと頬を撫でる。
思っていたよりもずっと温かいのに、私の体はぴくりと勝手に震える。
冷たいわけじゃない。むしろ触れられた場所だけが、そこに意識を集めるみたいに熱くなっていく。
昔はこんな風に触れられても何とも思わなかった。
髪に触れられても、手を握られても、隣に座られても。
眠くなれば肩を貸しあったし、転びそうなジョシュアの手をいつも引いていた。それが私の当たり前。
なのに今はどうしてこんなに落ち着かないのだろう。
戸惑う私を他所にずっと離せないでいた左手は私の手を強く握り、右手だけが優しく動いた
「ま、た……?」
彼の言葉の意味も、自分をかき乱す何かの意味もわかりかねて何度も瞬く。
そして妙に耳に残った言葉を繰り返す。
私は何も答えられなかった。
どうしてそんなことを言うのか。何を覚えているのか。
十三年という時間は、私たちの間にあまりにも長い空白を作ってしまった。
私は覚えている。小さなジョシュアのことなら、いくらでも。
けれど、目の前の彼が覚えている「私」を、私は知らない。
「あら、ようやくお目覚めね」
よかったじゃない。そう言って笑うタルヤ先生が席を離れるとジョシュアは瞳を細めて「おはよう、ラリス」と静かに呟く。
瞬きを繰り返しながら動揺する私をよそに彼は私の顔にかかった髪を耳にかけると、私をじっと見つめてふわりと笑う。
昔と変わらない、ジョシュアの笑み。
なのに、何かが違う。
同じ青い瞳。
同じ柔らかな笑い方。
私の名前を呼ぶ声だって、確かにジョシュアのものなのに。
どうしてこんなにも、胸が苦しくなるのだろう。
私に触れる仕草の一つ一つが昔の彼からは想像できないほど自然で、余計に居たたまれなくなった。
「……っも、もういいでしょう! 私、行くからね!」
近い。
そう思った。
それだけなのに息がしづらい。
昔はこんな距離にいたって何とも思わなかったはずなのに。
息が詰まるほど暴れる心臓に気づかないふりをして、身体を起こし始めるジョシュアを横目に逃げるように私は部屋を飛び出した。
通り過ぎる時、ヨーテの視線が背中に刺さった気がした。
何が「もういい」のか、自分でもわからない。
泣いたこと?
頬に触れられたこと?
あんな風に名前を呼ばれたこと?
それとも──。
昔とは違う目で、私を見ていたような気がした。
それ以上考えたくなくて、私は医務室から遠ざかる。
すっかり暗くなった自室に戻った私は明かりもつけずにベッドに転がり込んで目を閉じる。
動転して気が張っているのか眠気は来ない。
これも全部ジョシュアのせいだ。
私は、あんな風に私を熱っぽく見つめてくるジョシュアを知らない。
私の知っているジョシュアは、もっとずっと小さかった。
私の手を握っていた指は細くて、力を少し入れれば簡単に包み込めてしまうくらいだった。
走るのだって私より遅かった。
階段を急いで降りれば転びそうになって、私が慌てて手を伸ばしたこともある。
アナベラに見つからないよう手を引いてあげて、二人でこっそりと城内を歩き回った。
それなのに今は私よりずっと高いところから私を見下ろしている。
声も低くなって、柔らかそうだった輪郭はシュッとして、手だってふにゃふにゃだったのに今はゴツゴツとして。
それなのに、笑ったときの目だけは昔と同じだった。
だから余計に困る。
知っているはずなのに、知らない。
知らないはずなのに、どこか懐かしい。
そんなジョシュアを、私はどう見ればいいのかわからなかった。
「〜〜〜っ!」
振り切るようにぎゅっと閉じた瞼の裏には結局今のジョシュアの姿が浮かんでいた。
「……母上は自害したよ」
バルナバスに捕まってしまったジルを救出してようやく戻ってきた彼は、相も変わらず湖畔を眺める私の隣に立つとそう言った。
それまでお互いを意識しながらも話す時間なんてまともにとれなかった。
空の色は変り果て、世界各地にはアカシアの群れ。
異様な変化を続ける世界のあちこちで助けを求める声がする。
またフェニックスに顕現して無茶な戦いをしてきたらしい彼と十三年ぶりに初めてまともに向き合えたと思えば第一声がそれ。
「……そう」
まるで他人事のような声が漏れる。
もっと昔の私なら、彼女の死を聞いただけで胸の奥にため込んでいた憎しみが溢れ出していたかもしれない。
けれど今は、何もない。
憎しみすら、世界の変化の中に飲み込まれてしまったみたいだった。
憎くて仕方がないはずのアナベラの死が、凪いだ風のように静かに私の中を通り過ぎる。
「……君は母上が憎かったんじゃ」
「そう……だった、はず」
確認するように問われるけれど、曖昧な返事しか出てこない。
彼女が居なければ国は、父は、母は、今も傍にあったのかもしれない。
確かにその事実は憎いのに、おかしな空の色のせいか、それだけが自分の大切な場所を壊した理由とは思えなくなっていた。
「あの頃と随分変わってしまったからかも」
彼の問いへのまともな答えはそれだけで。
けれど「……そうだね」と微笑むジョシュアの笑みだけは昔と何一つ変わらなかった。
まだ森の小屋に住んでいた頃、本で読んだ物語。
そこに出てくる王子様にそっくりだった少年は、面影を残しながら美しい青年へと成長した。
大公一家にフェニックスの力を継いで生まれたジョシュア。
一方、ベアラーであることを隠して、嘘を纏って生きてきた私。
……今思えば、周囲の大人達が許してくれていたとはいえ、私のような存在が彼の傍で大手を振って歩いていたなんて身の程知らずが過ぎる。
「…………」
「ラリス……?」
ただ、彼の隣に立っている。それだけ。
なのにどうしてこんなにも、そこにいてはいけないような気がするのだろう。
誰も私を追い払わない。
ジョシュアだって何も言わない。
それなのに私は、一歩だけジョシュアから離れた。
まるで、昔からそこにあった見えない境界線を今になってようやく見つけたみたいに。
そんな私に彼はそれ以上何も言わなかった。
誰かに咎められたわけではないのに、彼の隣に何食わぬ顔で立つ自分がただ許せなかった。
◆◇◆
鮮やかな炎が空を焦がす。
焼け落ちていくロザリアの旗。石造りの建物。人の声。
ああ、これは夢だ。
忘れもしない、フェニックスゲートでの……あの夜の夢。
少し離れた場所に居なければ、私もあそこで燃え尽きていたのかもしれない。
ううん。今の私はただジョシュアという強い炎に焦がれて、燻る、種火にもなれない何か。
そう、きっと灰なんだ。
炎は強すぎた。
近づけば温かいはずなのに、私には眩しすぎて、触れようとすれば自分まで燃えてしまう。
それでも私は、その炎から離れられなかった。
炎が燃え尽きたあとに残るもの。
そこに何かがあったことだけを覚えている、なんに役にも立たないもの。
燃えることもできない。
誰かを温めることもできない。
ただ、そこに何かがあったのだと証明するだけ。
今の私も、きっと同じだった。
大人たちに連れられて、私も知らない場所に行くジョシュア。
彼がそこで何をするのか知りたくて、私は両親にも黙ってロザリスを出た。
その選択が、私が死の運命から零れ落ちるきっかけになるとも知らずに……。
私はジョシュアが居たから生き残れたのに、そのジョシュアはずっとずっと目覚めなかった。
教団で多くのことを学んでいたヨーテは彼の看病を続けるのに、私は小さな傷の手当一つも出来ず、彼女に言われるがままジョシュアの手を握って日々の出来事を語るだけ。
けれど、教団という狭い世界で生きることを強いられた私はあなたに聞かせてあげられることがどんどん少なくなっていく。
今日のご飯はおいしかった。
もらった種が花を咲かせたの。
誰かが新しい本を持ってきてくれたよ。
今日は雨。昨日は晴れてて……。
そんな話ばかりだった。
今日もご飯はおいしかった。でもニンジンがあったからジョシュアはきっと残しちゃうね。
ああ、でもみんなジョシュアを大事にしてくれるからお皿に乗せないでくれるかも。
他愛のないこと以外、話せることが減っていく。
変わらない毎日を繰り返すたびに不安だった。
私の世界が狭くなっていく。
ジョシュアに聞かせてあげられることが、なくなっていく。……ジョシュアに、必要じゃなくなってしまう。
私だけがジョシュアに何もしてあげられない。
ヨーテは看病ができる。
大人たちは薬や、衣服、居場所に、食事に……生きていくためのすべてを揃えてくれる。
みんなが何かしているのに、私にできることは話すことだけ。
それすら……なくなっていく。
無力さを噛み締めながら五年が過ぎて、やっとあなたは目を覚ます。
嬉しくて。嬉しくて。
本当に嬉しかったの。
溢れる涙が止まらなくて、でも周りの人間はそんな私を気に留めない。
あなたを囲んで、痛みはないか、自分が誰かわかるか、どこまで覚えているかとあくまでも優しく問いただす。
あまりにも変わってしまった世界に五年も取り残されてしまったジョシュア。
彼を支えるために教団のみんなが動く。
そしてジョシュア自身も、立ち止まろうとはしなかった。
私だって、そんなあなたの姿が見れて嬉しかった。
それなのに、胸の奥には別の感情が生まれていた。
『ジョシュア様に語りかけ続けてください。それが何よりも、あの方が目覚める力になりますから』
ヨーテにそう言われて始めた役割は私の支えだった。
だから話し続けた。
返事がなくても。何を話せばいいのかわからなくなっても。
今日の食事が美味しかった、なんてどうでもいいようなことしか話せなくなっても。
私が話すことに意味があるのだと思っていた。
それが私に与えられた役目だったから。
けれどジョシュアが目を覚ましたら、その役割はどうなるの?
──ああそうか、私はもう必要ないんだ。
そんな考えが浮かんだ自分が嫌だった。
だから、私はまたジョシュアの代わりに外の世界を見てこようと思ったの。
それがきっと、ジョシュアの力になれることだと信じて。
◆◇◆
「っ…………朝?」
眩しい光が顔に当たって目が覚めた。
夜の冷たさはすっかり消えて、日常の始まりを告げる朝食の良い匂いが運ばれてくる。
なのに、爽やかな朝の始まりに反してざらりとした感情が胸を揺らす。
遠いような、ずっと傍にあったような……そんな気持ち。
「……だから『また』って言ったんだ」
彼の目覚めに私が泣くのは初めてじゃなかった。
ジョシュアが目を覚ました十三年前のあの日も、私は泣いていた。
昨晩の「また」の意味がようやく理解できた。
きっと、これからも私はジョシュアが目を覚ますたびに同じように泣くのだろう。
目覚めてくれたことが嬉しくて。
眠っている間が怖くて。
ジョシュアとのことならなんでも覚えていると思っていたのに、私の記憶のジョシュアは子供の頃のまま止まっていたのかもしれない。
思えば五年前、クライヴとシドに娼館で働いているのを咎められるまでたくさんの人の相手をしてきた。
ただ戦うことが好きな人、家族を守るため、生活の為仕方がなく……。
様々な理由を掲げた人がほんの一瞬だとしても自分の中を通り過ぎて行く日々。
それを止められるのが怖くて避け続けていたジョシュアのことが朧気になるのは仕方がない。
けれど、私は今のジョシュアを知ってしまった。
私に触れる大きな手。
私を見つめる青い瞳。
私の名を呼ぶ低い声。
十三年、私の知らない時間を過ごして生きてきた。
それなのに私の中のジョシュアはいつまでも、あの日星のように輝いた小さな王子様のまま瞬いている。
もう子供ではない。わかってる。
それでも私の記憶の中では、あの日の小さな手も、星のように輝いた瞳も消えてくれない。
今の彼を知ってしまったのに。
どうしたら、私は彼を心の中から追い出すことができるのだろう──。
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