「満月天音(みつつきあまね)」

ノウム・カルデアの廊下を歩いていた天音は突然に呼ばれた自身の本名にバッと背後を振り返った。
 其処には黒く美しい髪を揺らし、ふわふわと地面から浮遊する自身のサーヴァントである金星の女神・イシュタルが居り、天音の驚いた表情をにやにやとした意地悪な笑みを浮かべながら見つめていた。
 天音はイシュタルの口から紡がれた自身の本名に何処か焦りながらイシュタルの元へと駆け寄り「な、何故、その名前を⁉︎」と声を荒げた。

「何がかしら?満月天音」
「何がって…な、何で隠してた私の名字を知ってるんですか⁉︎」

「私の本名は一部の人しか知らない筈なんです‼︎」と困ったように眉を寄せ、頭を抱える天音にイシュタルは此処ぞとばかりに「あらあら、満月天音」「何かあったのかしら、満月天音」「どうしたのかしら、満月天音」と自身のマスターである天音の本名を語尾のように言葉の最後に告げるので天音は更に頭を抱え、小さく唸りながらその場に蹲み込んだ。

 そんな天音の姿にイシュタルは内心、揶揄い過ぎたかと思い、少しだけ焦りを見せた。
 マスターである天音は、気が弱く泣き虫なところがある。何時も困ったように眉を八の字にしており、笑顔より困った顔をすることの方が多かった。その為、そんな天音を揶揄うサーヴァントも少なくは無く、困り顔が更に困り顔になり最後には泣く事も多い。
 側から見れば気が弱すぎるし鬱陶しいと思う人も居るかも知れないが天音とは幼少期から一緒であるマシュは天音の事を「出会った当初の天音は笑いも泣きもしない無表情な子でした。あ、でもひとつだけ…寒いと言う言葉はよく呟いていましたね…」と語っていたので幼少期の天音の事を考えると負の感情の方が若干強いが感情を表に出す事をするようにはなったのだと思われた。

 そんな困り顔で気弱で泣き虫なマスターである天音を一部のサーヴァントは過保護かと言いたくなる程、気に掛けている。

 其れは天音の初めてのサーヴァントである百合の王妃であったり何処かの黒い聖女や医神と婦長が矢鱈とマスターの健康に気を使っていたりなど何かと他のマスターのサーヴァントより天音のサーヴァント達は天音を気にかけていることが多い。
 しかも、イシュタルにとって一番やっかいなのは己と対になる存在である冥界の女神・エレシュキガルだ。
 この女神もイシュタルと同じく天音が召喚したサーヴァントであり、自分にあまり自信の無いエレシュキガルは気弱な天音に共感を持てる事が多く、更に自身を理解してくれるマスターである天音が傷ついたり悲しんだりしていると必死に護ろうする。しかも今回この事を知り、更に原因がイシュタルだと知れば、エレシュキガルは容赦はしないだろう。
 イシュタルは後の事を考え、溜息を吐くと「揶揄い過ぎたわね。はいはい、ごめんなさい」と素直に謝り、天音の頭をポンッと撫でた。天音は伏せていた顔を上げ、涙目でイシュタルを見上げると「うぅ…今後…その名字で呼ばないでくださいね」と呟いた。

「何でそんなに嫌がるのよ。自分の名前の一部でしょう?」

 イシュタルが何故こうにも天音は自身の名字を呼ばれるのを嫌がるのかと疑問に思い、其れを問い掛けると天音は、また顔を伏せて言い辛そうにポツリポツリと呟いた。

「私、昔、お前の名字は変だと揶揄われたんです」

「みつつきってきつつきみたい」「日本語で満月って書くの?泣き虫な天音ちゃんには、そんな綺麗なもの似合わないね」と幼少期に揶揄われ、自身の名字が嫌で仕方がない。異国の地で親に捨てられ孤児院に入った時は名字は言わずに名だけを告げていた。なのに何故かカルデアに来た時には自身のプロフィールにはW満月天音Wと記載されていたらしいのだ。
 何故かは分からないがカルデアにはバレていた自身の本名を見た天音は気が遠くなる気がしたのだと云う。

 カルデアは外国人スタッフが多く、皆が名前で呼び合う事が多い。また天音は古くからカルデアに居るのでスタッフ達は天音が名字で呼ばれるのを嫌がるのを知っており、新しいスタッフに対して自己紹介するときに天音は自身の名字を告げずに名前だけを伝えることが多かった為、名字で呼ばれることなんてほぼ無かったのである。
 故にイシュタルの口から告げられた隠していた自身の名字に天音は大きな精神的ダメージを受けたのである。

 ずーんっと音が聞こえそうな程、過去のことを思い出し落ち込む天音にイシュタルは少しの沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。

「私はマスターの名字、マスターにピッタリだと思うけど」

イシュタルの言葉に天音の肩がぴくりと動きを見せた。だが、顔を上げない天音をイシュタルはジッと見つめながら更に言葉を続けた。

「満月って月のことでしょう?メソポタミアで月の神…まぁ、私の御父様とも一説には言われてたりするのだけど、月の神は大地と大気の神…そして豊穣神とも言われているの。そして…もう一つ別名あってね」

——またの名を【暦の神】——

「暦の…かみ?」

 聞き慣れない言葉に天音は伏せていた顔を上げ、目の前のイシュタルを見上げる。
 イシュタルは天音から目を逸らすこと無く、自身の前で蹲み込んだままの天音を見下ろしたまま言葉を紡ぐ。

「暦の神は他の誰にも真似出来ない力を持っていたとされているわ。それは…」

——【遠い日々の運命を決める力】——

 イシュタルの言葉に天音は、キョトンとした表情を見せた。

「ほら、マスターにピッタリでしょう?」
「ど、こがで…すか?」

意味が分からないと戸惑いを見せる天音にイシュタルはグイッと自身の顔を近づけるとスラリと細い指で天音の額をピンッと弾いた。

 痛がる天音を見て、イシュタルは楽しそうに緩りと口元を歪ませた。

——辛さも悲しみも全てを押し込めて、大切な自分達の遠い日々の運命を取り戻す為に戦っているところがよ——

 その言葉をイシュタルは天音には告げず、自身の心の中で呟くと額を押さえて涙目な自身のマスターである天音に背を向け、そのまま飛び去って行った。

     ♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎

「あぁ、そう言えば何処かの国では、もう一つ別の一説があったわね」

 カルデアの廊下をふわふわと浮きながら移動するイシュタルは涙目だった自身のマスターを思い出しながらフッととある一説の話を思い出した。

——とある国では、月と金星は夫婦であると考えられている。

「…ふふ、泣き虫な旦那様ってね」

 イシュタルは一人ポツリと呟き、小さく微笑んだのだった。