昼と夜が交代を始めた黄昏時のとある廃墟

——彼方此方に四肢が飛び散る血塗れた床の中央にひとりの少年が立っていた——

 前髪を斜めに切り揃えられた、白い前髪。あどけなさの残るアメトリンの様な瞳をした少年は喉元まですっぽりと覆い隠す黒い外套をその身に纏っていた。

【ポートマフィアの白い死神】それが彼の異名であった。

 少年は冷たい無表情のまま、その場を後にするとその廃墟から外へと歩き、外に止まっていた黒い車に乗り込んだ。黒い車の運転手は少年が後部座席に乗り込んだ事をバックミラーで確認するとエンジンを掛け、車を発進させた。

 窓の外、流れ行く風景を横目に少年は静かに目を瞑った。

 少し経った頃、少年は とある悪夢からハッと目を覚ました。

 ドキドキと煩いぐらいに動く心臓と全身に滲み出る脂汗に少年は荒い息をしながら心臓を辺りを掴む様に外套を片手で握り締めると前にいる運転手である自身の部下・広津に車を止める様に指示をした。
 広津は少年の言葉に返事をすると車を横浜港の近くの道路の脇に駐車し後ろを振り返り、広津は少年に「如何なさいましたか」と声をかけると少年は自身の纏う黒い外套の袖で額の汗を拭うと「少し、外の空気を吸いたい」とだけ告げ、車の扉を開けて外へと出たかと思うと横浜港へと歩き始めた。

 広津は溜息をひとつ吐き、車のエンジンを切ると少年を待つ為に外に出て煙草に火を付けた。


——…風が心地良い。

海の見える場所へと歩く少年に風が吹き付けた。

うたた寝で見た悪夢により滲み出た汗と身体の熱さが少しずつ吹き付ける風により冷えていくのを感じなら肺いっぱいに息を吸い込み、海の匂いが近づいてくるのを鼻で感じた。
 少年は車から降りた時からずっと下に向けていた視線を夕日が沈み去く海へと向けた瞬間、突然ハッと息が止まった。

 動いていた足もピタリと無意識に止まり、アメトリンのその瞳が溢れ落ちるのではないかと言う程に目を見開くのが少年自身でも分かった。

 少年の視線の先…その先には、ハーフアップした黒い腰までの美しい髪を風に揺らす、ひとりの細身の少女の後ろ姿があった。
 風が吹く度に少女の黒髪も揺れ、甘く優しい匂いが少年の敏感な鼻を擽り、何故か頭がくらくらとその匂いに酔いしれそうになる。
 少年は、その少女の匂いに誘われるかの様にふらふらとした足取りで少女の背後へと近づくと風に靡く黒い髪に触れる様に手を伸ばした。

 揺れる黒髪の毛先が少年の指先を掠めた。

 唯、それだけで更に鼓動は高鳴り、瞳が無意識に潤んだ。

 掠めただけなのに声にならない歓喜を上げる心に少年は普段の自分との違いに戸惑い、この体が自分のものではないのかも知れないとまで思った。

——あと少し、もう少し…あと少しで僕は彼女に…

 自身の鼓動が目の前の少女に聞こえるのではないかと云う程に速くなるのを感じながら息をゴクリと飲み込んだ。
 この少女に触れた瞬間、自分の中の“何かが変わる”そんな事さえ思った。

 だが、その手は少女に触れる事は無かった。

 少女が背後の少年の気配に気が付いた様に振り返ったからである。
 くるりと振り返った少女と目が合った少年は再び目を見開いた。
 黒真珠の様な瞳に釣りあがった目、形の良い眉に横髪の毛先は白く脱色した様な色をしており、白い肌に紅く色付いた艶やかな唇が見え、少年はハッと息を飲むと少女から視線が反らせなくなった。

アメトリンの様な少年の瞳と少女の黒真珠の様な瞳がお互いの瞳を捉える。

 目を見開いていた少年に対し少女も驚いた様に目を見開き何かを呟いたが近くに居たにも関わらず、少女の呟きは少年には聞こえなかった。

——二人の間を強い風が通り抜けた。

 少年はハッとした様に少女に伸ばしていた手を下ろすと目の前の少女に声を掛けようとしたのだが何を言えば良いのかが分からず、キュッと唇を噛み締める事しか出来ずにいた。

「血の匂いがする」

 少女の透き通った声と言葉に少年は、ドクリと心臓が高鳴った。
 先程の任務の事を思い出し少年は狼狽える様に少女から視線を逸らすと何も言えず、そんな少年に少女は気にする事無く、ポケットからハンカチを取り出すと少年に差し出した。
 少年は突然、差し出されたハンカチに驚き戸惑いながら少女に視線を向けると少女は「怪我をしているなら使うが良い」と言うと少年は恐る恐る目の前のハンカチを受け取った。

「あ、ありがとうございます」

 上手く話せているだろうか、そんな事を思いながらもそう言った少年に少女は「使った後は捨てて構わぬ」と伝えると少年から目を逸らし、再び視線を夕日が沈む海へと向けた。
 少女の関心が自分に向けられなくなった事に少年は自身の心がずしりと重くなりズキンっと痛んだ気がした。

「あ、の…」
「何か…?」

 少年がか細い声で少女に話しかけたが少女は視線を逸らす事無く海を見続けた。その姿に少年は少し悲しさと息苦しさを感じながらも少女の背後から少女の隣へと移動すると再び少女に声を掛けた。

「海、好きなんですか…?」

少年の問いに少女は「別に」と答えた。

「海は好きでも嫌いでも無い。私は唯、ひとりで考え事をしたくて此処に居るだけだ」

 そう言った少女は矢張り真っ直ぐと前を向き海を見ていた。少年も少女を真似するかの様に真っ直ぐ前を向き、海を見つめていると今度は少女から少年に声を掛けた。
 少年は声を掛けてきた少女に視線を向けるとその夕日に照らされた横顔を見つめた。

 その少女の横顔が少年には泣いている様に見えた。

「貴殿は死にたいと思った事はあるか」

 突然の質問に少年は驚き目を見開いた。少女は返事の無い少年に眼を伏せると「すまない、変な事を聞いたな」と謝ると再び口を開いた。

「此れは私一人の呟きだ。頭のおかしい者が話していると思えば良い」

——私は死にたいと思った事がある。…否、“思った事がある”では無いな。
“常日頃から思っている”と言った方が正しいかも知れぬ。

「そう思い始めた原因は、はっきりと分かっており、その原因を排除さえすれば永遠の心の安らぎが手に入る事も理解している。……だが、私は、その原因を排除する事も自身の喉元を掻き切り自害する事も出来ずにいる」

——謂わば臆病者なのだ。

「痛いのも苦しいのも辛いのも嫌いだ。臆病者で何も出来ず、中途半端な存在。
こんな者が生きていたって意味がないのは理解している。

だけど…どうすれば良いと思う、少年」

少女は隣にいる少年にそう尋ねると少年は少し間を空けてから「僕も…」と呟いた。

「僕も痛いのも苦しいのも辛いのも嫌だし怖いです。……死にたくない、死ぬ事が怖い。
僕は生きたい、だから僕はいつだって足掻くんです」

——だから、貴女も足掻いて生きればいい。


「……聞きたかったのは、そんな言葉ではない」

少年は、その言葉に驚き目を見開いた。

「矢張り、誰も私の欲しい答えをくれぬ」

 少女は悲しそうに呟くと踵を翻し少年に背を向けて歩き始めた。
 少年は、その後ろ姿が寂しそうに見えてしまい咄嗟に少女の手を掴み、少女は驚いた様に目を見開きながら後ろを振り返った。再び重なり合った視線に少年は一瞬にしていくつかの自身の不思議な行動についての理由が理解出来た。

——あぁ、僕は…

 高鳴る鼓動を抑えながら少年は少女に声を掛けねばと思った。今、此処で何もせずに彼女を逃せば一生、会えない気がした。

 其れはダメだ、絶対にダメだ。

 何としてでも繋がりを…“縁”を繋がねばならない。

 そう、少年の中の誰かがそう叫んでいた。

 自身の中にいる白虎なのか、将又、一体化した死神が叫んでいるのか。
 其れとももっと違う何かなのか…理由は分からないがとりあえず分かるのは——彼女を離すな——と言う事であった。

 物理的な事じゃなくていい、何でも良いから彼女との縁を離さない様に紡げと少年の中で叫んでいた。

「名前っ…教えてください、貴女の」

 考えに考え抜いた結果、こんな言葉しか出なかった。
少年が尋ねると少年は目をキョトンとさせながら「ふみ」と名を名乗った。少年は心の中で少女の名を覚える様に連呼すると掴んだふみの手に自身の指を絡めた。

 其れは、まるで逃がさないと言う様な仕草に見え、ふみは少し目を見開いた。

「僕は中島敦。覚えててください」

 少年・敦の言葉に少女・ふみは首を傾げると「何故」と言った。敦は、ふみの手を握りながら空いている片手でふみの黒い髪を一房掬い、口づけを落とすと云った。

「貴女にまた、会いたいから…」

 ふみを見つめる敦の瞳は目の前の少女が愛おしいと言う感情と自分だけの物にしたい、自分だけを見てほしい自分だけを愛して欲しいと言うどろどろとした感情が入り混じっている様に見えた。

——此れがポートマフィア・中島敦と武装探偵社新人・芥川ふみとの出会いであった——