その日は突然の雨だった。

任務の為にヨコハマの街へと出ていたポートマフィアの暗殺者である泉鏡花は近くにあった公園に設置された日除けの下へと雨宿りする為に入った。
 髪から滴る雨を自身の着物の袖で拭いながら鏡花の青い瞳は雲に覆われた空を見上げた。その視線の先である西の方角の空は黒い雲に覆われており、鏡花は形の良い眉を顰めると溜息を吐いた。

——雷が来そう。

 そう心の中で呟いた時であった。

 空を見上げていた鏡花の耳に誰かが此方に走ってくる足音が聞こえた。
 跳ねる水の音と知らない人物の気配に生きて来た環境の所為もあり鏡花は足音の方に視線を向け身構えているとひとりの黒髮の少女が日除けの下に飛び込んで来た。
 ハーフアップした長い髮は雨に濡れたのかしっとりと濡れており、着ている洋服も雨が染み込み色を変えている。
 黒髮の少女はスカァトに染み込んだ雨を絞るとぼたぼたと数滴、雫が落ちた。其れを鏡花は、ボーっと見ていると黒髮の少女は、やっと鏡花の存在に気がつき、驚いた様に一瞬、目を見開くと「先客が居たのだな」と鏡花に告げた。鏡花は少女の言葉に「気にしなくて良い」と応えると少女は「すまない、雨が止むまで共に此処の下で雨宿りさせてくれ」と伏し目がちに頼み、鏡花はコクリと頷いた。


 何分経ったのか分からない。
 止まない雨を鏡花と少女は無言で見つめていた。
 雨に濡れた体が少し冷たく感じ、鏡花は小さなくしゃみをひとつするとそれを聞いた少女は自身の濡れた外套を脱ぎ、鏡花の肩へと掛けた。

「⁉︎」

 突然の事に驚く鏡花に少女は黒真珠の様な瞳を少女に向けると「濡れているが何かを羽織らないよりはマシだろう」と言い、鏡花は少女の行動に戸惑いながらも小さな声で「ありがとう」と呟いた。
 その声は何処か、少し泣いている様に聞こえた。

 鏡花は少女の優しい行動に胸の奥がぎゅっと苦しくなる気がした。
 人を殺したくない一心でポートマフィアを裏切り、逃げ出した鏡花であったが貧民街・裏路地・ヨコハマの街を自分の居場所を求め彷徨い歩いたが結局、三十五人殺しである自身にこの世の何処にも居場所がないと言う事が分かっただけだった。

——裏切り者は処刑される。

 其れを理解していながらも鏡花はポートマフィアに戻る事しか出来ず、そんな鏡花を受け入れてくれたのは、ひとりの少年だった。
 彼は側に居てくれると言った。“この世の何処にも居場所がない”などと言わせないとこの手を握ってくれた。

——彼以外は私に見向きなどしない。

“そう思っていたのに目の前にいる少女は、何故こんなに私に優しくするのだろう”

 そんな気持ちが鏡花の中にあった。

 だが、少女はそんな鏡花の気持ちなど知る事無く、側にあったベンチに座ると鏡花に「雨が止むには当分掛かりそうだ、立って待つのは辛いだろう。座って待とう」と言うと自身の隣に視線を向けた。
 鏡花は少し戸惑いながらも少女の隣に恐る恐る座った。

「寒くはないか?」
「大丈夫。貴女が上着を貸してくれたから寒くは無い」

“貴女は…?”と鏡花が尋ねると少女は「私は生まれてから風邪を引いた事などないから大丈夫だ」と優しく応えてくれた。鏡花は「そう」と返事を返すと雨が降る空を見上げた時であった。
 稲光が空を照らし、ゴロゴロと地響きの様な音が鳴り響いた。それは雷だった。
 鏡花は嫌いな雷に身体をビクつかせると震える身体を抑え込む様に少女が掛けてくれた外套をぎゅっと握った。

——怖い。何故、こんな時に彼は居てくれないのだろう。

 そんな事を思いながら再び聞こえた雷の音に目を瞑った時であった。 

 鏡花の外套を握りしめる手が優しい温もりに包まれた。

 鏡花は驚き目を見開くと震える自身の手に隣にいる少女の手が重なっているのが分かった。鏡花は手を見つめた後、ゆっくりと少女へと視線を向けると少女は少しちらりと鏡花に視線を向けた後、視線を自身の足元にへと向けた。

「雷が苦手でな。…良ければ、手を握っていて欲しいのだが」

黒髮から見える白い耳が少し紅く染まっているのを見て鏡花は目をきょとんとさせると再び、視線を重なった手に戻し—— 目の前の少女の手を握った——

「わ、たしも…雷が嫌い」

 温かな温もりに鏡花は無意識に涙が溢れそうになるのをグッと堪える様に少女の手を握る手に力を込めた。

「…そうか。では、何が好きだ?」
「豆腐と兎」
「豆腐と兎か。両方共、煮ても良し焼いて良しの食材だな」
「…兎は食べない。見るのが好き」
「そうか。それは、すまない」

 気まずそうに視線を逸らした少女に鏡花は「気にしていない」と答えると少女は無表情ながらもホッとしているのが鏡花にはわかった。

「貴女は何が好き?」

 今度は鏡花が少女に尋ねた。すると少女は少し考える様な素振りを見せると「食べれる物は何でも好きだ。あぁ、後黒猫も好きだ」と応えた。

「黒猫食べるの?」
「いや、黒猫は食べない。唯、愛らしくて好きなだけだ」

 雷が鳴っているのに少女と話していると不思議と恐怖が無かった。

——こんな時間が続けば良いのに——

 鏡花は、心の底からそう思った。だが、世界は鏡花には優しくなかった。
 少しして雷は止み、雨も上がった。
 優しく楽しかった少女との二人っきりの時間は終わりを告げたのだ。
 鏡花は少女の手を離したくなかった、でも、そんな我儘は言っていられないのも理解していた。彼女は一般人、自分はマフィア。生きる世界が違い過ぎるのだ。

 鏡花は繋いでいた手をゆっくりと離すと少女へと向き直った。

「雨は止んだから帰る」
「あぁ、そうだな。ひとりで帰れるか?」
「大丈夫。いつだってひとりだったから」

鏡花がそう呟くと少女は目を見開いた後、鏡花の頭を優しく撫でた。

「私も“ひとりだ”」

 鏡花の頭を撫でる少女の表情は無表情でありながらも黒い闇を閉じ込めた様な瞳の奥は泣いている様な気がした。

「名前、知りたい…貴女の名前」

 鏡花は何故かこの少女の名を知らなくてはいけない気がした。
 少女は鏡花の問いに「ふみ」と名乗ると鏡花は噛み締める様にふみの名を呼んだ。

「私は、鏡花。好きな物は豆腐と兎。嫌いな物は犬と雷」

——また、貴女に会いたい——

 鏡花がそう言うとふみは、少し間を空けた後、自身の胸元のリボンをシュルリと外すと鏡花の首に掛かった母の形見の携帯に付いていた兎のマスコットにリボンを結んだ。

「可愛い…」

鏡花がそう呟くとふみは「御呪いだ」と言った。

「また、会える様に“縁”を結んでおいた」

“機会があればまた、会える”

 ふみは鏡花に少しだけ笑みを見せると鏡花に背を向け歩き出したのであった。

 鏡花は小さくなっていくふみの背中を見つめながら肩に掛かったふみの外套をぎゅっと握り締めるとふみと反対方向へと歩き始めたのだった。