数時間前、一人探偵社の医務室で目を覚ましたふみは外の空気を吸う為に医務室の窓を開けた。 

 ビルの数階…地面より数十メートル高い位置にある医務室から下を見下ろしているとふわりと風が吹いた。風は黒く長い髪を揺らすとまるでふみを誘うかの様に優しく頬を撫でた様な気がした。
 ふみは少し目を瞑り、深く息を吸い込むと窓枠に手を掛け、ビルから自身の異能力:蜘蛛の糸を使用しながら窓から外へとその身を委ねた。
 
 探偵社を唯、その時の衝動と勢いで飛び出して来たふみは特に理由も目的も行く所も頼るところも無く、ヨコハマの街を野良犬が徘徊するかの様にふらふらと彷徨っていた。
 一人、薄着で鞄も持たずにふらふらと歩むその姿は街を歩く一般人に溶け込んでいるものの矢張り、何か異質に見えた。
 ふみは、そんな事を気にする事なく港の方へと足を向けた。
 少し歩いていると以前にも訪れた海が見える場所へと辿り着いた。
 先程歩いて来た街の中とは違い、潮の匂いと波の音が響き渡り、少し歩けば直ぐそこに街があるのに雑音が聞こえず、静まり返った空間にふみは、まるでこの世界には自分一人だけしかいない様な錯覚に陥りそうになった。

「肌寒いな…」

 薄着で港迄来てしまったふみは肌を撫でる風に少しの寒さを感じながら一人、ポツリと呟いたが、人一人いない場所である為、ふみの呟きは誰にも届く事無く風に消えた。
 ふみは風に舞う髪を抑えながら近くにあった長椅子に座るとぼーっと海を眺めながら夢の中での太宰治との会話を思い出していた。

——君の異能力の本当の意味は縁を繋ぐことと地に落ちたモノの救済——

 ふみは自身の異能の本当の意味など太宰に言われる迄知らず、言われなければ此の先も一生知る事などなかったであろう。縁を繋ぐとは何だ。地に落ちたモノの救済とは何だ。
 何をすれば良いのか、其れは自身で無くてはならないのか。
 理由も方法も意味も分からず唯、知ってしまった以上、知らなかった時の様には戻れず、脳内でずっとその事を考えてしまい、少し息苦しさを覚えた。

 ふみは別の事を考えようと頭を横にぶんぶんと振り、片割れについて考え始めた。
 ふみの考えていた儀式は失敗に終わり、ふみは一命を取り止めてしまった。
 あの日、確かに首を掻き切った筈だった。
 自身の頸動脈を切り裂いた瞬間、猛烈な痛みと自身の血とは思えないほどの美しい紅が宙を舞い“あぁ、美しいな”と何処か他人事の様にふみは見ていた。
 あの時のふみは特に死に対する恐怖は無く、実行してしまえば今迄の恐怖は何だったのかと云う程に安堵しか無かった。
 唯、目の前で絶望した様な表情をして涙を流す鏡花には申し訳ないものを見せてしまったと云う後悔はあった。
 あの日、「また、会いたい」と言ってくれた鏡花の純粋な言葉が嘘偽りの無いものだと知っていたからだ。
 何故ならふみは鏡花の事をポートマフィアの暗殺者だと知っていたが鏡花は、ふみの事など知らなかった。だからこそ、あの言葉は嘘では無く純粋にふみに再び会いたいと云う気持ちだとわかっていた。
 だが、ふみはその思いを踏みにじった。
 ふみは分かっていた、銀の居場所がポートマフィアである事を理解した上で龍之介と共に銀を取り返しに行く事があるのなら必ず、鏡花と対峙する事を予測しており、そして、ふみは龍之介の無慈悲な心を誰よりも理解していた。

“龍之介は心無き黒獣をその身に宿している”

 鏡花の事など無慈悲に扱う事など目に見えていた。

“片割れがその様な行いをするのも見たくない…”

 だからこそ龍之介と対峙するのを避け、自身と対峙する様にしなくてはいけないと考えたからふみは鏡花と“縁を結んだ”のだ。
 ふみは自身がした行いも気持ちも龍之介は理解する事なく自身を咎め切り捨てるだろうと思っていた。何故なら鏡花と対峙した際、荷台の中には谷崎が居た。
 谷崎は全てを聞いていた、だとすれば何故この様になったのかを報告し、その事は龍之介の耳にも必ず届いている筈だからだ。

 それが正しければ、龍之介はふみを咎めるだろう。
 何故、知っていながら何も言わなかったのかと声に出さなかったとしても龍之介は無言でふみを責めると…

“だってあの日も無言だったが…瞳は私を責めていた”
——何故、妹を守れなかったのかと…——

 四年前の冷ややかな龍之介の瞳を思い出してしまったふみの瞳に無意識にじわじわと涙が滲むのがわかった。

——矢張り、全ての元凶は私だった——

 ふみは苦しくなる胸をぎゅっと抑えていると突如として声が聞こえた。

「見つけた…っ」

 聞き覚えのある少年の声にふみは、ゆっくりと声の聞こえた方へと視線を向けると其処には息を切らした白髪の少年が立っていた。
 ふみと視線が合うと少年はホッとした様な表情を見せ、泣きそうな顔でふみに近づいてくるとふみに片手を伸ばそうとしたのだが…

「ポートマフィアの…白い死神」

 ふみの呟きにより、その手は ふみに触れる前にぴたりと止まった。

 元ポートマフィアであり白い死神と云う異名を持つ少年・中島敦は、ふみの言葉に一瞬目を見開くとふみに触れようとしていた手を下ろし、悲しそうな表情を浮かべた。

「鏡花ちゃんから聞きました。…知ってたんですね。僕が“ポートマフィアの人間”だと…」

 “何故…”と何処か苦しそうに問いかける敦にふみは視線を敦から再び海へと向けると「蜘蛛は何処にでも巣を作る」と云った。

「その蜘蛛が伝えてくれる情報と云う糸を紡ぎ合わせれば、全てを知る事など造作もない事だ」

 ふみが淡々と敦に伝えると敦は「だから銀さんの居場所も鏡花ちゃんの事も…そして、僕の事も知っていたんですね…」と云うと「なら…僕が犯した罪の事も」と呟いたがふみは何も答えなかった。

「…貴様は私を探していた様だな」

 ふみが敦と出会った時と同じく、海から視線を逸らす事無く問い掛けた。
 敦は、ふみの問い掛けに「えぇ」と応えるとふみは唯、静かに「そうか」と頷いた。

「私を殺しに来たのか」

 敦は ふみの言葉に驚き目を見開いた。
 何故、そんな事をふみが言い出したのかが分からず、敦は如何答えて良いのか戸惑った。
 そんな敦の戸惑いなど気にする事無くふみは再び敦に視線を向けると静かに口を開いた。

「白き死神よ。私を救済私に来てくれたのであろう?」

 闇を閉じ込めた様な光の無い黒き瞳は敦を見つめていた。
 黒く濁ったその瞳の奥は欲しかった物を目の前に置かれ、思い焦がれる様な感情を秘めた瞳をしており、更に敦の胸は哀しみで苦しくなった。

 あの日、ふみの事態を龍之介相手に掛かって来た携帯越しに聞いていた敦は、ふみが精神的不安定であり今にでも自ら命を断ちそうだと云う現状を突きつけられ敦は酷く不安と焦りを覚えた。
 谷崎と共に居たふみを見た時、敦は ふみの異変に気づいていながらも手を伸ばす事はせず、自身を優先させたのだ。
 其れは敵である以上、仕方の無い事であった。だが、敦の中でずっとその事が気掛かりだったのである。
 谷崎と共に去り行くふみの後ろ姿が今にでも消えてしまいそうで酷く胸が痛み苦しくて仕方がなかった。だが、止めようにも心の底から湧き出て止まらない感情が何なのかを敦は理解していた。

 そう、敦は ふみと出会ったあの日…
 風に舞うふみの髪から香る匂い。寂しそうに儚い後ろ姿。
 そして、振り返ったふみと目が合った。その一瞬の出来事だったのに…

——敦は、ふみに心を奪われたのだ。

 黒真珠の様な瞳を見た瞬間、酷く泣きたくなったのと同時に“あぁ、会えた”と言う不思議な感情があった。
 何故だか“僕は一生、この人と共に生きていく”と言う不思議な確信さえも頭に過ぎった。
 だからこそ、ふみは大丈夫だろうと敦は頭の何処かで決め付けていたところがあった。

——また、会える——

 出会った時からふみの心がバラバラであった事に気づく事なく、敦は、あの時自身の募る想いをそう誤魔化した。
 だが、実際は大いに異なっていた。
 目覚めたふみは行方を眩ませ、見つけたと思えば敦に対して“自身の死”を求めた。探偵社に入り、やっとふみに手を伸ばせると思っていたのにふみのバラバラに砕けた心に手を伸ばすのは遅かったのかと言う想いが敦の心を駆け巡った。

 そんな敦の気持ちなど知らないふみは敦に言葉を続けた。

「夢の中で…太宰治が出てきて、私に告げた」

——私の欲しいものと必ず繋がっていると——

「私が今、欲しいものは“己の死”だ」

 ふみは黒き眼を敦に向けたまま云った。

「龍之介は私を許さない。私を切り捨てるだろう。こんな屑で最低で妹も守れないガラクタなど要らぬと…
 家族を殺す事は…何よりも重い罪だ。龍之介にその様な罪を背負わせてはならぬ…それに…」

——私も楽になりたい——

 そして、ふみは敦に縋る様に願った。

「白き死神よ…。私を連れて逝って…」

 それは小さな声だった。
 だが、目の前の敦にはしっかりと聞こえており、酷く悲しく…そして苦しそうな表情をみせると顔を伏せた。

「あの時…僕に尋ねましたよね。そして僕の答えに“欲しかった答えじゃない”と貴女は云った」

——本当は、どんな答えがほしかったんですか——

 敦の問いにふみは一瞬動きを止めた。

 本当に欲しかった答えを言ってしまおうかと思った。だが、ふみは本当の願いを言ってしまえば優しい敦は、その願いを叶えようとするだろう。
 そんな優しさなど、今の自身には不要だと思った。
 自身は所詮、“芥川龍之介の一部”だ。優先すべき事は“芥川龍之介”の幸せである。
 だから、ふみは、自身の“本当に欲しかった答え”を深い胸の奥へと沈めると静かに口を開いた。

「“私の死を望む声”だ」

 ふみは最後の嘘をついた。

 その言葉に敦は顔を上げ、真剣な表情を見せると「分かりました」と云った。

「貴女の為に再び僕は白い死神になります」

 ふみは敦の言葉に胸が安らぐ様な気持ちになった。
 これで龍之介にも銀にも迷惑を掛けずに済む、その想いだけで胸がいっぱいになった。

「…方法は?」
「貴様の好きにするが良い。裂くのも絞め殺すのも…」
「楽な方が良いですか…?それとも…」
「欲を言うならば苦しくない方が良いが。…貴様に任せる」

 敦は淡々とふみに尋ねた。まるでふみの最後の願いを聞いてあげるかの様に

「僕に全てを委ねるんですね?」

 敦の最後の問いにふみは、大きく頷いた。

「あぁ、全て…」

——貴様に私の命を預ける。

 その言葉に敦は大きく頷くとふみに近づき、片手でふみの首に触れた。
 ふみが切り裂いた頸動脈の部分は与謝野女医の異能により、綺麗に塞がっており、傷跡すら残っていない。
 ふみは自身の首に触れる敦の手の感触に静かに微笑んだ。

「私の我儘を聞いてくれてありがとう」

 そう言うと静かにふみは目を閉じた。

 敦のもう片方の手がふみの首に触れた。
 少しくすぐったさを感じながらふみは静かに今迄の事を思い出していると敦の手に少し力が篭ったかと思うとその手は、ふみの頭と背中に素早く回され、そしてふみ自身の唇に熱く柔らかなものが触れた。
 ふみは突然の事に閉じていた目を開けると敦のアメトリンの様な瞳と目が合った。
 自身の唇に感じた熱く柔らかなものは敦の唇であり、其れを理解したふみは文句を言おうと口を開いた時だった。
 ヌルリとしたものがふみの口の中に侵入し、ふみの舌に絡みついた。
 唇と違い少し硬く、ぬるぬるとした其れは敦の舌で敦の舌は逃げるふみの舌を逃がさないと言う様に更に舌を絡めた。感じた事のない感覚が一気がふみの身体を襲い、一瞬にしてふみの身体の動きを甘く奪っていった。

「ふっ…んんっ…や、…っ」

 ぐちゅぐちゅと自身と敦の口から発せられるいやらしい音にふみは、苦しい、やめてほしいと願った。
 そう願っても敦の舌はふみの舌に絡みつき、歯列をなぞり訳のわからない感覚がぞくぞくと全身を駆け巡り、ふみの脳内と身体をとろとろと溶かしていった。

「んっ…はぁ…ちゅっ」
「んんっ…っ…」

 息が出来ず、ふみは目の前が白く霞んでいくのが分かった。
 このままでは意識を飛ばしてしまうと言うところで敦は、ふみの舌をじゅっと吸うとちゅっと言う音を立てながらふみの口と自身の口を離した。
 離れた二人の間には銀色に光る糸が繋がり、ふみは自身の唇から垂れる何方のものが分からない涎を拭う事無く、酸欠状態の肺と脳に酸素を送る様に息を大きく吸い込んだ。

 そして、目の前で自身の唇を赤い舌でペロリと舐めている敦を睨みつけた。

「なぜっ…このような、ことを…」

 ふみが息を荒くさせながら途切れ途切れに問いかけると敦はフワリと微笑んだ。

——僕に全てを委ねると云ったでしょう——

 この言葉にふみは大きく目を見開いた。

「そう言う意味で云ったのではない‼︎私はっ…んっ」

 声を荒げるふみの唇に敦は、またしても自身の唇を重ねると舌を絡ませた。そしてゆっくりと唇を離す。

「ふっ…そんな意味で言ったんじゃないとしても確かに貴女は僕に“全てを委ねる”と言いました。
そして、殺す方法も“僕に全て任せる”と…僕は貴女に死んで欲しくない。
 やっと…やっと手を掴む事ができるのに…貴女に触れる事が出来るのに…貴女を失いたくない…」

 敦の瞳は真っ直ぐとふみを見つめていた。
 真っ直ぐな敦の瞳が眩しく、ふみは顔を逸らそうとしたが敦の手は、ふみが目をそらす事を許さないと言う様にふみの頬に触れた。

「だけど、貴女は死を望んだ。だから僕は…貴女が望むから再び死神になった。
 そして、貴女は僕に“命を預けた”なら、もう貴女は僕の物だ。
 僕の許可無しに死ぬ事は許されない存在となった」

 敦は、頬を赤く染めながら恍惚とした表情を見せた。だが、その瞳はギラギラと光りふみを絶対に逃がさないと言う様に見えた。
 ふみは、顔を歪ませながら「騙したなっ…」と呟いたが敦は首を横に振った。

「騙していません。僕は貴女を殺します。

でも、其れは“すぐに”じゃない…」

 敦は自身とふみの鼻が触れるぐらいの位置まで顔を近づけると微笑んだ。

「ゆっくり…じっくり…何年、何十年掛けて…僕は貴女を殺します。こうやって…」

 ふみの唇に敦は再び自身の唇を重ねると今度は直ぐに離れた。

「だから貴女も何年、何十年掛けて…僕の吐く息を吸って…息絶えてください。
これが、僕の決めた“貴女の殺し方”です」

 その言葉にふみは、ポロポロと涙を流した。

「酷い人っ…死を望む私に…こんな、方法を選ぶとは…」

敦は涙を流すふみの瞼に優しく口づけを落とした。

——僕は死神ですから。

——貴女の死は僕が決めます。

「僕の一生をかけて…貴女を殺してさしあげます」

 敦の言葉にふみは涙を隠す様に敦の胸に顔を埋めた。

 酷く、優しく安心する匂いがふみの鼻をくすぐった。