✩御幸一也視点

——最初の印象は亮さんの妹。ただ、それだけだった。

 俺の所属する野球部のレギュラーで三年生の小湊亮介さん(通称:亮さん)の兄妹で四月から新入生として入学・入部してきた亮さんの弟で一年の小湊春市の双子の妹であるその子は、大好きな兄と双子の片割れを支え、応援したいと云う理由で青道高校野球部にマネージャーとして入部した小湊家の末っ子だった。

 一野球部員としてもレギュラー陣の一人としてもお世話になっている亮さんの妹と言うことで男好きのミーハーだったとしても無碍には出来ないかもしれないと俺の中で一抹の不安はあったが、入部したその子は全くそんな不安を感じさせず毎日真面目に働いては先輩マネージャー達から教えられた仕事内容をすぐに吸収しテキパキと熟す手の掛からない子だった。
 しかも、俺が先輩だと何度も言っているのに敬う気配を全く見せない単細胞馬鹿な一年の新入部員の沢村栄純とそんな馬鹿沢村のお目付け役となっている金丸信二と同じクラスらしい…と云うのが最初の俺の中の小湊妹への印象であった。

 まぁ、それは本当に薄らとした感情で、この時の俺は特に小湊妹に対して何の感情も抱いておらず、ただの【小湊家の妹でマネージャー】として見ているだけだった。

 野球ばっかりで他に特に何に興味も執着もない俺。
野球以外は必要ねぇーだろ。と云う感情しか持ち合わせていなかった俺の中で【亮さんの妹】で【唯のマネージャー】である小湊妹の印象がガラリと変わる衝撃的な出来事があったのである。

——まさに雷に打たれた様な衝撃とは、こんな感じなのかと思ったくらいだった。

 それは、新一年生が野球部に入部してから約一ヶ月ほどが過ぎた時だった。

 球を受けろ受けろと馬鹿の一つ覚えのように煩い投手である沢村と同じく投手である一年の降谷暁をのらりくらりと躱しては馬鹿にして揶揄いながら部活を行い、最後に部活終わりの挨拶を皆でするために部員みんなが集まっていた時であった。

 キャプテンである結城哲也さん(通称:哲さん)とその隣に立って居た伊佐敷純さん(通称:純さん)が俺ら部員に向かって声を掛けようとしているにも関わらず、相変わらず馬鹿な沢村は俺に向かって球を受けろとギャーギャーと喚き散らしていた。
周りは空気を読んで静かにしようとしているのに空気を読むのも感じることも出来ない馬鹿沢村は徐々に静かになって行く周りに気づくことなく、俺に悪態をついていた。
 そんな沢村の横では亮さんの弟の小湊が「栄純くん!しー、静かに!!」と小声で沢村を止めようと声を掛け、同じく沢村の隣に居る降谷は沢村が煩いと言いたげな表情を浮かべているが馬鹿な沢村は気づくことはなく「おい‼︎聞いてやがるのかぁ!?御幸一也!!」と騒ぎ続けていた。

 俺、一応先輩なんだけど。てか、今ここで名前を呼ぶな。めんどくせぇことに巻き込むなよ。と思いながらこれ以上、騒いでることに怒った監督の命令で部活終わりでクタクタの身体で全員でグランドを走らされるのも嫌なのでとりあえず、あの馬鹿を黙らせようと声を掛けようとした時だった。

「御幸、そのまま黙ってな」

 馬鹿沢村に声を掛けようとした俺を俺の横にいた亮さんがそう止めたのである。
 俺は思わず、隣にいた亮さんへ視線を向けた。
すると亮さんは、いつもの薄ら笑みではなく時々、純さん達を揶揄う時の様なニヤリと意地の悪い笑みを見せたかと思うと俺から視線を外し、顎でクイっとあっちを見ろと云う様な仕草を見せた。


「あの子がそろそろ叱ると思うからさ」


 亮さんの言葉の意味がわからず、俺は首を傾げていると誰かが沢村の名前を呼んだのが俺の耳に届いた。

「…栄純くん」

 その声は沢村の名を呼んだ。
 凛とした、しっかりと芯のあるような声だった。

 だが、何処かちょっと苛立ちを含んだ様にも聞こえ、俺は反射的に声の方へと顔を向けた。
 そこには身を硬くさせた沢村の姿があり、その沢村の右肩には背後から伸びてきた白い手が乗っているのが見えた。

 先ほどまで馬鹿みたいに俺に悪態をついていた沢村は口元をヒクヒクと引き攣らせながら恐る恐ると云う様に壊れたブリキのおもちゃのように自身の背後を振り返った。
するとそこには、沢村の身体ですっぽりと隠れていて気がつかなかったが、沢村よりも二回りほど小さな身体の小湊妹の姿があった。
 亮さんと双子の兄である小湊と同じ桃色の髪を風が揺らしているが、その顔は下を向いていて俺のところからは見えず、どんな表情をしているかはわからなかった。
 唯、沢村は先程とは打って変わって静かになり、そんな沢村の隣にいる小湊妹の双子の兄である春市の方は「あーあ…」と言いたげに額を抑えている。

 みんなが静かに沢村と小湊妹に視線を向ける中、小湊妹はゆっくりと顔を上げて沢村を見たかと思うと…ニコッと笑った。

そう…ニコッと笑ったのである。

 兄である小湊亮介が時折り見せる、黒い笑み。
 あれと同じように小湊妹も【黒い笑みで】笑ったのである。
そして、身を硬くさせた沢村に向かってこう言ったのだ。

「先輩方がお話ししようとしてるんだよ。そんな時に騒いじゃダメでしょう?」

 凛としたしっかりと苛立ちの籠った声がグランドに響く。
部活をして温まっているはずの身体を冷たい空気が包んでいくような感覚を感じた。
 小湊妹の黒い笑み。去年から何度も見た亮さんと同じ黒い笑みに視界の端で丹波先輩が亮さんと小湊妹に何度も視線をうろうろとさせているのが見え、俺の後ろに立ってるキャプテンの哲さんでさえ、ポツリと「亮介が…増えただと…?」と言う天然発言をしているほどだ。
 俺と同じクラスで野球部員である倉持洋一でさえ、恐る恐る亮さんと小湊妹を見比べては開いた口が塞がらないと言いたげな表情を浮かべていた。

 みんなが小湊妹の黒い笑みから発せられる冷たい空気に固まっていると更に小湊妹は沢村に言葉を続けた。

「…栄純くんは【イイコ】だから、静かに…できるよね?」

 首を傾げながら沢村の顔を下から覗き込むようにそう言って、更ににっこりと笑う小湊妹に俺はハッと息を飲んだ。

 まるで、ところ構わず吠えて噛み付く頭の悪い犬を躾けるような、小湊妹自身の方が格が上なのだと暴力ではなく、言葉と態度で教え込むような調教にも見える目の前の光景に俺は自身の背中がゾクゾクと悪寒に似た様な何とも言えない、甘く鈍い痺れのようなものが走るのがわかった。
 自身に向けられた笑顔ではないのに腹の中の奥の更に奥の方が何かが熱をもったような気がして思わず、ぐっと堪えるように両手の拳を握りゆっくりと息を吐いた。

 目の前では、小湊妹が相変わらず黒い笑みを沢村に向けている。
 そんな笑みを向けられている沢村本人の表情は見えないが、小刻みにブルブルと身体が震えているのはわかる。何なら隣に立っている降谷もぷるぷると怯えるように震えていた。

「できるよね?」

 念を押すように小湊妹は同じ言葉を沢村へと言うと沢村は「できます…」といつもよりも元気のない声で首を縦に大きく何度も振った。
 飼い主に叱られた犬の様に大人しくなった沢村に見守っていた俺以外の部員達は動揺を見せた。降谷は震え、小湊は「やっちゃった…」と言いたげな表情だ。
小湊妹と沢村と同じクラスである金丸はもしかしたらもう既に一度、小湊妹に叱られている沢村を見たことがあったのか、眉間に皺を寄せながら米神を抑えては「あの馬鹿が…」と呟いていた。

 そんな俺たちのことなど気にも止めていないのか、小湊妹は大人しくなった沢村の姿を見て黒い笑みから一転して表情を変えた。

——それは、わんわんと煩く吠えていた駄犬が飼い主の言うことを聞いたのを褒めるかのように、とろりと愛情を込めたような表情で沢村に笑いかけたのである。

 目を細め、慈しむかのようにきちんと言うことを聞いた犬を…上下関係を本能的に理解し、ところ構わず吠えまくっていた駄犬がきちんと【飼い犬】となったのを褒める様に笑ったのである。
 そして、先ほどまで沢村の名前を呼び、怒りを含んでいた凛とした透き通る声もとろりと変わった。


「ちゃんと理解できていい子だね。お利口さんだね、栄純くん」

 そう言い放った小湊妹に俺の心がぐらりと揺れ、震えた。

 先程の怒りを含んだ声とは違い、頭のてっぺんから爪先まで染み込む様な甘く蕩けるような小湊妹の声に俺の腹の奥の奥にあった熱い熱が今度はカッと沸騰して身体の中を湧き上がって
くる様な感覚に陥る。
 口から漏れそうになる熱い吐息に思わず唇を噛み締めたが、その熱が逆流したかのように今度は心臓がバクバクと音を立てる。

 まるで自分の大好きな野球の試合をしている時のような熱さと高揚感と緊張感に俺は思わず、自身の心が震えているのが理解できた。

 【亮さんと小湊の妹で唯のマネージャー】

 唯それだけだったのにこの数分間で俺の中の小湊妹に対しての感情が大きく変化してしまったのである。

 亮さんのする、あの黒い笑みに似た笑いに背筋が甘く震え、更に最後のあの褒めるようなとろりとした声と表情に胸を鷲掴みにされた。

——【イイコ】だから、静かに…できるよね?

——…いい子だね。お利口さんだね。

 あの笑顔、言葉、全てに俺は持って行かれてしまったのだ。

 部活の先輩である小湊亮介と新入部員の小湊春市の双子・妹…

 唯、それだけだったのに野球しかなかった俺の心の中に小湊妹は豪速球を投げ込んできたのだ。

 あーあ、これはやばいわ。

 俺、今めちゃくちゃドキドキしてる。

 あの、沢村に向けられていた黒い笑みを俺にも向けて欲しいと思う俺がいて、更にあの、とろりとした笑顔で「いいこだね、お利口さんだね」と褒めてほしい俺もいる。
 あの背中を駆け抜けた甘く痺れたゾクゾク感も腹の底から駆け上がる熱ももっともっと感じたい。今感じた以上の感覚をもっともっと欲しい。
 冷静を装いながらも口角が上がりそうになるのを片手で口元を覆いながら隠す。

「…やべーわ」

 ポツリとそう俺は誰にも聞こえないように呟いた。
 ドクドクと騒がしい心臓と熱い身体。熱い吐息がわずかに開いた口から漏れる。

 この新しい感情を噛み締めながら、とりあえずは、この部活終わりに小湊妹に何気なく声をかけてみることから始めることにしようと心に決めた。