あの【小湊妹沢村調教事件】から御幸は小湊妹に視線を向けることが多くなった。

 今までは特に用事がなければ、小湊妹に近寄ることも目を向けることもあまりなかったのだが、あの事件以降、小湊妹の初めての表情を目の当たりにした挙句、野球しか関心のなかった御幸の中に自身も知らなかった感情と感覚を芽生えさせた小湊妹のことが御幸は気になって気になって仕方がなかった。

 そんな御幸の感情など知りもしない小湊妹は今日も今日とてテキパキとマネージャーとしての仕事をこなしていた。

 御幸とて別に暇なわけではない。青道高校野球部員レギュラーとしての酷く辛い練習だってある。
だが、その合間合間に小湊妹に視線を向けては観察することが、ここ最近の御幸の楽しみのひとつとなっていたのだ。
 だからこそ自然と目線を向ける回数は多くなり、見つめる度に新たなる小湊妹の表情や情報を知る。
その度に御幸の心臓は、とくんと音を奏でた。

 小湊妹は寮で暮らしている。
 野球部だが男子部員ではないため青心寮ではなく、青道の女子寮に身を寄せていた。
 仕事は相変わらず真面目。朝から誰よりも早くグランドに現れては朝練の準備をしてくれている良い子だと他の部員からの評価も高い。兄と片割れが幼い頃から野球をやっている影響からか、スコアブックだって読めるしテーピングの知識もある。
小湊妹の大好きな兄達の野球を応援して支えたいと云う気持ちが所々で垣間見れるところも多く、御幸の中では好感度が上がる一方なのだと云うことは御幸の中だけの秘密であった。
 
 野球以外のことでも御幸は沢山の小湊妹を知った。

 小湊妹は長男である小湊亮介のことは【にぃに】、自身の片割れである双子の兄・小湊春市のことは【はるちゃん】と呼ぶ。
 同じ一年・同じクラスでこの間、御幸の心をざわつかせたあの黒い笑みととろりとした優しい笑みの両方を向けられた沢村のことは【栄純くん】降谷のことは【降谷くん】と呼んでおり、三年生の先輩方のことは、兄・亮介に影響されてか【哲さん先輩、純さん先輩】などとも呼んでもいるのを御幸は聞いていた。
 また、先輩マネージャーである藤原貴子・夏川唯・梅本幸子のことは、それぞれの下の名前に先輩をつけて呼んでおり、同じ一年生のマネージャー吉川春乃に対しては自身の片割れである春市との呼び方が被らないように【のんちゃん】と呼んでいた。
 特にドジっ子である春乃とは、まだ知り合って日が浅いとは思えないぐらいに仲が良いように御幸からは見えた。

 そんな小湊妹は、兄・亮介からは【ちい】片割れの春市からは【ちーちゃん】と呼ばれている。

 小湊ちさと、それが彼女の名前であるのだが、兄である亮介曰く、【ちい】と云う呼び方は「小湊家で一番小さいの【ちい】だよ」とのことで、小湊妹の呼び方を三年生達にそう説明しているのを御幸は何気なく聞いていた。
それがあったからなのか、三年生達はこぞって小湊妹を「いもうと」か「ちい」と呼び、一部の二年生も同じように呼んでいた。
 小湊妹と同じクラスである沢村は元々人に独特な渾名を付けて呼ぶことがあり、春市のことは「春っち」、小湊妹のことは「ちぃーの」と呼び、降谷もそれを真似するように呼んでいるのを御幸は知っていた。

 ちなみに御幸は小湊妹を気になってはいるが、名前を気安く呼べるほど仲が良いとは言えず…後、名前呼びをすると小湊兄ズが黙っていないような気もして、それを警戒した御幸は小湊妹を「いもうとちゃん」と呼んでいる。
 本当は名前で呼びたいとは心の片隅で少しは思ってはいるが、とりあえず後が怖いので様子見である。



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 入学式に咲いていた桜はとっくに散り、青々とした木々が風に揺れる頃、昼間は少し動くだけで暑さを感じるぐらいに暖かい。
そんな季節の中を青道高校野球部正捕手である御幸一也は相変わらず本日も沢村と降谷から「球を受けろ!!」「受けてください」と追いかけ回される中をのらりくらりと逃げ回っていた。

 曲者揃いの投手を輝かせることができるポジション。
 確かにそれが楽しくて捕手をやっている御幸だが、流石に沢村と降谷は曲者揃いの中でもとびきり癖が強く投げることに関しては二人とも暴走することが多い。
先輩であることを意識されていないのか、御幸を敬うこともなく所構わずグイグイと自分たちの心と云うか本能のまま御幸を押しかけては我を通そうとするのである。
 ただでさえ、一人でも相手にするのが大変なのにそんな中にもう一人増えて二人で来られると色々と疲労感も厄介ごとの発生率も格段に上がるのだ。
 故に面倒ごとは、ごめりんこ♡と御幸は自身を追いかけ回してくる二人から逃げ回り、身を隠そうと辺りを見渡していた時だった。

 グランドの外に設置された手洗い場に小湊妹の姿を御幸は見つけたのである。
 よく見ると手洗い場には部活の途中の休憩で使用したプラスチックのコップやウォータージャグがあり、それらを洗うために小湊妹が手洗い場に来たのだと御幸は理解すると作業をする小湊妹にそっと近づき声をかけた。

「よっ、いもうとちゃん」
「あ、御幸先輩お疲れ様です」

 片手を上げながら御幸に横から話しかけられた小湊妹は一瞬、不思議そうな顔をしたが己に声をかけてきた人物の姿を見て御幸だとわかると手を一旦止め、ぺこりと頭を軽く下げた。
さらりとした指通りの良さそうな桃色の髪が揺れるのを横目に御幸は小湊妹の側まで近づくと手洗い場の陰に身を隠すように背を預け、しゃがみ込んだ。

「御幸先輩、サボりはダメですよ?」

「先輩方に見つかると叱られますよ」とちょっと冗談を込めたような声色でそう告げながらも作業を続ける小湊妹を御幸は静かに見上げた。
 御幸が横にいることに対して小湊妹の顔色は特に変わることなく、じゃぶじゃぶと音を立てながら洗い物を次々と進めていく。
迷うことない手つきに常日頃からも台所に立って作業をしていることが伺えた。

「いもうとちゃん、ひでぇー。俺は、あの馬鹿達の被害者なんですけどー?」

 少し大袈裟に冗談ぽく拗ねた様な言い方をする御幸に小湊妹は、ちらりとグランドの方へと視線を向けた。
グランドの向こう側から聞こえる御幸を探す沢村の声に御幸の言った【馬鹿達】が誰のことを指すのかを理解するとすぐに自身の作業している手元へと視線を戻した。


「また、栄純くん達に追いかけられていたんですか?御幸先輩も大変ですね」 
「そうなんだよ、アイツら馬鹿みたいに球を受けろ受けろって朝からずーっと煩くてさぁ。モテる男は、ちょーつらいわ♡」


 だから、サボりじゃないの。ちょっと匿って♡とウィンクをしながら笑う御幸に小湊妹は視線を自身の手元から逸らすことなく、淡々とした声色で「わかりました」と唯それだけを言い、黙々と仕事の続き始めた。

…のだが、それが少し御幸は面白くなかった。

 自身に視線を向けることなく、そう言った小湊妹の態度が御幸は気に入らなかったのである。
 気になっている。あの【小湊妹沢村調教事件】が御幸は、ずっと小湊妹を気になっているのだ。
 あの、兄・亮介が時々見せていた亮介スマイル(黒笑)と同じ笑顔をした小湊妹を見た時、御幸の背中には感じたことのない感覚が走り、その後にさらに見せた、とろりとした優しく褒める表情に腹の底がカッと熱くなった。
 あれ以来、小湊妹の姿を見つけると無意識に目で追ってしまうくらい、御幸は小湊妹が気になっているのに小湊妹は全く持って御幸に興味がなさそうなのが、御幸は気に入らなかった。

 話したいと思っていた。だけどいつも小湊妹の側には兄である亮介か小湊妹の双子の兄である春市が側にいる。
この二人がいないと思った時には沢村と降谷がいたり…なんならマネージャーである春乃や三年生達や御幸と同じクラスである倉持が小湊妹の側に居たりもするのだ。
 そのため、御幸は両手で数えられるかぐらいしか小湊妹と会話をしたことがないのである。
 もっと数えると二人で会話をしたことなど二、三回あったか?ぐらいなのである。

 やっと巡ってきたチャンスなのに、小湊妹は素っ気ない。

 これでも俺、顔はいい方だと思うんだけど?確かに昔はチビだったけど今は身長もデカい方だぞ。性格は…倉持からは、よくクソだとか性悪とか言われるけども…友達と呼べる友達もいねぇけど!!などと思いながらも真面目に仕事をする小湊妹に御幸はちょっとムッとしながら、小湊妹のジャージの裾を指で摘んでちょいちょいと引っ張ってみた。

「なぁ、話に付き合ってくんね?」

 ちょっと可愛い子ぶった様に下から覗き込む様な感じで小湊妹に御幸は声を掛けたが、小湊妹は可愛い子ぶった御幸を一切見ることなく「すみません。仕事がありますので」と言うだけでマネージャーの仕事を優先されたのである。

 え、俺、先輩なんですけど?てか、一切こっちを見ることなく言いきるじゃん。と思いながら御幸は目を何度かぱちぱちとさせた後、更にムッとした様に口を尖らせながら、ちょいちょいとジャージの裾を引っ張った。

「いもうとちゃんー、俺ひまー。お話ししてぇー」

 テメェ、しつけぇんだよ!!なに邪魔してんだァ!!と御幸の脳内に倉持の声が聞こえた様な気がしたが、御幸は気にすることなく、ちょいちょいと小湊妹のジャージの裾を引っ張り続けた。

「いもうとちゃーん」
「すみません。仕事中なので」

ちょいちょい

「いもぉーとちゃん」
「仕事中なので」

ちょいちょい

「いーもうとちゃーん」
「…もう少し待ってください」
「もう少しってどれくらい?」
「これが終わるまでです」
「まだまだじゃん、いもうとちゃん」
「……」
「いもうとちゃん、いもうとちゃーん」
「…………」

 御幸は何度もしつこく話しかけた。
それでも小湊妹は見向きもせずに手に持ったスポンジに洗剤を追加してはゴシゴシと洗い物を片付けていく。
少しだけ気温が下がったような気もしたが、御幸は気にすることなく、ちょいちょいと何度もジャージを引っ張ると小湊妹は「もう少し待ってください」と言ったが、それでも我慢できずに御幸は何度も声をかけ続けた。
 それでも小湊妹の優先順位は目の前の仕事で御幸は何度も「待ってください」と言われ続けた。
 そう言うところがあんたはダメなんすよ!!とこの場にいない脳内の沢村の言葉に御幸は、うるせー、ばーかと笑いながら馬鹿にして頭の隅に追いやった。

「待ってください」と、そう言われたならそこで御幸も納得して大人しくしておけば良かったのにしつこく話しかけるものだから等々、小湊妹は御幸の呼びかけに反応すらしてくれなくなった。
 それがまたしても御幸は面白くなくて、つまらなくて、もやもやとした感情が胸の中に広がり何とも言えなくなる。
 しゃがみ込んだ自分の膝の上に肘をつき、顎を置く。それでも小湊妹のジャージを摘んだ手は離さずにちょいちょいと引っ張り続ける。

——…なぁなぁ、いもうとちゃん。こっちみて。ちらりとでもいいからさ、こっちみてくれよ。
確かにマネージャーの仕事も大事だと思うんだけどさぁ、そんなに目線を向けてくれないぐらいさ、俺に興味ない感じ?それはそれで俺、傷つくんだけど。

 なんてブツブツと呟いて小湊妹に嫌味のように聞かせてやりたいと思った御幸であったが、それは何だか嫌われそうな気がしたのでグッと堪えたが、少しぐらいは何か言ってやりたくなりツンッと唇を尖らせたまま少し強く小湊妹のジャージを引っ張り口を開いた。

 大人しく黙っていれば、きっと何もなく洗い物を終えた小湊妹が普通に話しかけてくれたかもしれない。だけど、この行動が何もなかった御幸と小湊妹の二人の関係を大きく変えることになるなんて思いもよらなかったのである。
 この時のことを振り返り御幸は「確かに仕事の邪魔をした。でも、後悔はしてないぜ」と元々キリッとしている眉を更にキリッとして言い放ち、同クラスで唯一の友の倉持洋一に「きしょ」と言われることになるなんて夢にも思わなかった。


「いもうとちゃんのいけずー」

 先輩である俺を無視するんだー。沢村といい降谷といい、今年の一年は先輩を困らせる後輩ばかりじゃねぇかよぉー。とふざけた感じで、でも、少しの嫌味を込めながら御幸が拗ねたようにいった。
 この時、御幸はそっぽを向いており、小湊妹が御幸の言葉に洗い物をしていた手をピタリと止めたことに気がついていなかった。

 シャーシャーと蛇口から水が出る音と遠くからまだ沢村が御幸を探す声が聞こえる。

 その直後、そっぽを向いていた御幸の背中にヒヤリとした冷たい空気が触れたような気がした。

 その空気は冷たいが何処か身に覚えのある感じだった。
 そう、なんか時々、三年生のとある人物から感じる時がある空気だ。
 桃色の髪で、にっこり顔で、時折り同じ学年で三年の伊佐敷や丹波を揶揄う時のような…黙らせる時にも感じるような、身に覚えのある空気に御幸はその冷たい空気が流れて来る方へと壊れたブリキのおもちゃのように恐る恐ると視線を向けようとしたのだが、向けるよりも先に凛とした声が御幸の名前を読んだ。

「御幸先輩」

 恐る恐る、ゆっくりと御幸は声の方へと視線を向けた。
足元からゆっくりと上へと視線を向けていく。小湊妹のジャージの裾を掴む自身の手を通り過ぎ、腰・二の腕・肩と視線を上げていくと御幸は目を見開いた。


 そこには、冷たい空気を纏いながらにっこりと黒い笑みを浮かべる小湊妹がいたのである。


 兄・亮介が時折見せるあの威圧感のある黒い笑顔。
 それと同じ笑みを浮かべた小湊妹が仕事の手を止め、御幸を見下ろすように笑っていたのである。

——っ、沢村に向けていたあの笑顔だ。

 それを自分に向けられている。

 そのことを御幸が理解した瞬間、ぞくぞくと背筋に言葉にできない快感が駆け巡った。
 全身の毛が逆立つような…でも、不快感や嫌悪感と云うものではなく、ぞくぞくとした何かに御幸は喉の奥がぎゅっと絞まるような感覚を感じた。
 文字にするなら【小湊妹に空気も身体もを支配されている】ような感覚なのだと思う。
 ふぅっと御幸が小さく息を吐くたびにぞくぞくと背筋が沸き立つのだ。

 そんなことを知ってか知らずかはわからないが、小湊妹は亮介と同じ笑い方でにっこりと笑いながらしゃがみ込んでいる御幸に目線を合わせるかのように自身もしゃがみ込むと片手で御幸の頬を掴んだ。
 洗い物をしていたからであろう冷たく冷えた手が御幸の熱い両頬に触れる。ぐっと頬を掴んだ手に力が込められて御幸の唇がひよこの様にピヨっと突き出る。

 それでも小湊妹は笑顔を崩すことはなく、にっこりと歪められた唇を開いた。

「私、【仕事中だ】と言いましたよね?」
「……っ」
「【待ってください】とも、言いましたよね?」

 確認する様に御幸の頬を掴んだまま、下から覗き込む様にして話す小湊妹に返事をしようとしたが「まだ話す許可は出していない」と言いたげに掴まれた頬に少し力が加わり、御幸は何も言えなかった。

「犬だって何度か【待て】と言われたら、きちんと覚えて…お利口さんに待てますよ?」

その言葉にまた、御幸の背中に【何か】が走った。

 心臓がどくどくと音をたて、背中を走ったぞくぞくとした【何か】が腹の奥底に溜まっていくような気がした。
小湊妹から目を離すこともできず、言葉を話すこともできない。
それに対して腹の底に溜まっていく【何か】は段々と重く、熱を持ち始める。
熱くなり始めた頬を掴む小湊妹の手が冷たくて気持ち良い。それがまた腹の底の熱になっていく。
 手を振り払おうとすれば振り払えるはずなのに今の御幸にはそれが出来なかった。

 小さな白い手の拘束を御幸は振り払えなかった。

「ねぇ、せんぱい」

 小湊妹は言葉を続けた。
下から覗き込む様に御幸を見る視線に御幸の中にまた熱さが溜まっていく。
 小湊妹は怒っている。勝手にやって来たくせに構ってかまってと煩く、しつこい。仕事中だと言っても何度もジャージの裾を引っ張りちょっかいをかける。
何度【待て】と言っても聞かない御幸に内心では苛々していたのかもしれない。
それでも優先すべきは目の前の仕事で御幸は二の次だったのに御幸のいつもより抑えた嫌味、「いもうとちゃんのいけずー」と云う言葉に小湊妹の苛々が心の我慢のハードルを少し飛び越えてしまったのだ。
 本当は冷ややかな目を御幸に向けて「煩い」とピシャリと言ってやりたかった。でも、小さい頃からいつも言われていた兄・亮介の言葉を妹はいつも怒る時に思い出すのだ。

【いい?怒りを露わにしたら相手の思う壺だからね。きっちりと笑顔で黙らせるんだよ】



「せんぱいは、人なのに【待て】も出来ないんですか?」


 小湊妹は、にっこりと威圧感満載の笑顔でそう言い放った。
 御幸の目が更に丸くなる。心なしか何かを我慢するかのように未だジャージを摘んでいた御幸の手にきゅっと力が込められたような気もしたが、それを無視して小湊妹はまだ言葉を続けた。
 

——それとも…せんぱいも【待て】が出来るように犬と同じで身体に教え込まないとダメなのでしょうか?


 その言葉に御幸の背筋には、先程とは比べ物にならないくらいのぞくぞくとした【何かが】通り過ぎた。
 ビクッと腹が震え、思わず口から「ひぅっ!!」と声が出そうになったが、震える腹にグッと力を込めて耐える。それでも息は殺しきれず、吐息となって口の隙間と鼻から漏れ出していく。
鍛えられいるはずの下半身が情けなく震えているような気さえもして御幸は戸惑いながらも小湊妹から視線を外すことができなかった。

「…せんぱいは、」
「っ…」

 ごくりと御幸の喉が鳴る。
 小湊妹に何を言われるのだろうか。それだけが何だが熱に冒されたような、ぽわぽわとした脳内で御幸が今考えられることだった。
 いつもだったらどんな時でも冷静に周りの状況を確認して的確な指示を与えれるのに何故か今は冷静ではいられず、熱さだけを感じる。


「いいこ、だから”待て''ができますよね?」


 【いいこ】、その言葉にまた御幸の喉がごくりと鳴った。
尋ねるように…いや、御幸に言い聞かせるように小湊妹は言った。
 あの時もそうだった。
 ところ構わず吠えて噛み付く頭の悪い犬を躾けるような、小湊妹自身の方が格が上なのだと暴力ではなく、言葉と態度で教え込むような怪しくて艶めかさが含まれているような調教にも見えたあの時の光景。
それが今度は沢村ではなく、御幸自身に向けられているのである。

 それに気づいた御幸の身体に甘く、鈍い、痺れのようなものが駆け巡る。

 きっと倉持や伊佐敷が今の御幸の姿を見たら指を差して笑うだろう。
情けない、いつもの飄々とした生意気な態度は何処に行ったんだと、きっと大笑いして馬鹿にする。

 だけど、今の御幸には、この目の前の【ご主人様】を振り解くほどの力が出なかった。


——あぁ、情けない。本当に自分でも笑っちまいそうなぐらいに情けない。
わかってる。理解しているよ。でも、目の前の【ご主人様】から目が離せねぇんだよ。


 聞かれているのだ。尋ねられているのだ。【いいこ】になれるか?と問われているのだ。 
 だから御幸は答えねばならなかった。
でも、頬を掴まれたままでは言葉にできない。目の前の小湊妹に尋ねられた内容について答えることができない。御幸はジャージを掴んでいる手とは反対の手で自身の頬を掴む小湊妹の手に恐る恐る触れた。
 案外、御幸の頬を掴んでいた手は簡単に外れ、御幸はそのまま小湊妹の手を握ったまま、ふぅーっと息を吐いて、緊張で震える唇を薄く開いた。


「いいこ、でき…ます」


声が震える。
沢村が見たら、なんすか!?いつもの俺に対する態度と違いすぎるだろ!?と騒ぎそうなほど弱々しい声色に情けなさが募る。
それでもじっと、にっこりと笑いながら自身を見つめてくる小湊妹に御幸は、また繰り返すように言う。

「いいこに…できるか、ら」

 何も反応がない小湊妹に何だが視界が潤んでいくような気がする。このまま長時間続けられたら真面目に泣くかもしんねぇ、なんて思いながら小湊妹を見つめていると小湊妹の雰囲気が一転した。

「…そうですか」

 先程まで小湊妹が纏っていた冷たい威圧感は一瞬にして消え失せ、潤む視界の中で見えた小湊妹の表情に御幸は息を飲んだ。


「ちゃんと理解できて、いいこですね」


 目の前の小湊妹は笑った。

 それも先程見せた冷たい威圧感のある笑みではなく、沢村を叱った後のあの時と同じ、悪さをする駄犬が飼い主の言うことを聞いたのを褒めるかのように、とろりと愛情を込めたような表情で今度は御幸に笑いかけたのである。
 目を細め、慈しむかのように愛情が自身に向けられていると錯覚しそうなほどの優しいとろりとした笑み。
怒りを含んでいた凛とした透き通る声もとろりとした蜂蜜が混ぜ込まれたかのような声色へと変わり、御幸の名前を呼ぶ。

「御幸せんぱいは、おりこうさんですね」

 小湊妹は一年で御幸は二年。これが沢村や降谷が言った言葉であれば「だから俺、先輩なんだけど」と言い返せるのに小湊妹には言い返すことが出来なかった。
 むしろ今まで腹の奥に溜まっていた熱がカッと沸騰して湧き上がり、血が全身を駆け巡る。それと同時に小湊妹から言われた「いいこ」「おりこうさん」と言う言葉が何度も御幸の頭に反響して言いようのない歓喜に似た感情に心が震える。
 バクバクと鳴る自分の心音が耳元で聞こえるぐらいにうるさく感じて、走ってもいないのに全身が熱くて仕方がない。

 感情の判断ができず、どうすればいいのかわからない。嫌なのかと聞かれたら嫌じゃないとは答えられる。
嫌なんかよりも寧ろもっと見てほしいし、触れてほしいし、叱ってほしいし、褒めてほしい。
 一気に流れ込む知らない感情に御幸は小湊妹の手から己の手を離すと自身の口元を押さえた。

 そんな御幸を見て小湊妹は満足したのか、スッと立ち上がった。

 ガチャガチャと御幸の頭上から音が聞こえるが、動くことも視線を向けることも出来ず、グルグルと己の体の中を駆け巡る熱い熱とバクバクと煩い心臓を落ちつけることに必死になることしかできない。

「御幸先輩」
「!?」

 小湊妹が御幸を呼んだ。御幸は恐る恐ると云うように小湊妹へと視線を向けると小湊妹はしゃがみ込む御幸を見下ろすように笑っていた。
 太陽に照らされて兄・亮介や片割れである春市と同じ髪色の髪がキラキラと輝くように光り、揺れる。

 また煩く、御幸の心臓が跳ねた。

「いいこにしないと、ご褒美なんてもらえないですよ?」


——なので、【まて】を覚えることを頑張ってくださいね。


 にっこりと少し威圧感が込められた笑みを浮かべながら小湊妹は御幸にそう言い放つと洗い終えたであろうジャグ達を手にしゃがみ込む御幸に背を向け、部室の方へと歩き始めた。

 御幸は、その己よりも小さく凛と背筋が通った背中を見送りながら深く息を吐くことしか出来なかった

 確かに御幸は、あの沢村に向けられていた黒い笑みを向けて欲しいと思ってはいた。更にあの、とろりとした笑顔で「いいこだね、おりこうさんだね」と褒めてほしいとも思っていた。
 だが、いざ目の前に、それも至近距離で自分に向けられるとどうしてもいいのかわからなくなった。
嫌じゃない。でも、どうすれば良いのかわからない。
 唯、あの二つの笑顔が向けられた時に己の背中を駆け抜けた甘く痺れたゾクゾク感も腹の底から駆け上がる熱もあの時、沢村に向けられていたのを見た時とは比じゃないぐらいに感じられた。

 熱くて、苦しくて、怖い。けど心が震える程の歓喜と快感とこの上ない恍惚とした感情に御幸は「ははっ…」と小さく声をあげて笑った。

「クセになるかも…」

 野球以外に夢中になりそうなものを見つけ、その快感とも思わしき感情を知ってしまった男の瞳はギラギラ輝いていた。