昨夜の鬼との戦闘の傷を癒せとの伝令を鎹烏より受けた竈門炭治郎・我妻善逸・嘴平伊之助は近くにあった藤の花の家紋を掲げた屋敷の門を叩いた。
 扉を叩く音と門の前で騒ぐ炭治郎達の声を聞きつけた屋敷に住む老夫婦は鬼殺隊である三人の姿を見てゆっくりと顔を見合わせ、頷くと優しい笑みを浮かべながら三人を屋敷の中へと招き入れてくれた。
 鬼との戦闘での汚れを温かい湯で落とし、屋敷の人間が呼んでくれた医者による治療を終えた三人は用意された食事をありがたく頂いた。
 時折、伊之助が善逸のおかずを横から奪ったり其れに喚く善逸を叱る炭治郎の声が響き渡るなどあったが、数十分後には腹が満たされた三人は療養の為にと与えられた部屋の中に敷かれた布団に横になり身体を休めていた。

 部屋の隅に置かれた、いつも炭治郎が背負っている木箱の中では鬼との戦いで体力を消耗し過ぎたのかすぅすぅと箱の中から禰豆子の寝息が聞こえてくるのを聞きながら炭治郎がうとうとと微睡み始めた時であった。

「音が聴こえなかった」

 炭治郎の隣で同じく仰向けで寝転がっていた善逸がポツリと呟いた。

 炭治郎と伊之助は一瞬、善逸の言っている意味が分からず、眠気を感じながらも善逸の方へと顔を向けたのだが、善逸は、そんな炭治郎と伊之助の方に視線を向ける訳でも無く 唯、じっと仰向けのまま天井を見つめるばかりであった。

「音が聴こえなかったんだ。あの子から…」

 再び、ポツリと静かに善逸の口から呟かれた「あの子」と云う言葉に美しく光る紅い色の瞳が炭治郎の脳裏を過ぎった。
 炭治郎は善逸の名を静かに呼ぶと善逸は素早く布団から飛び上がり、伊之助と炭治郎の方へと勢いよく振り向いた。
 その顔は血の気が無く青ざめており、身体は小刻みに恐怖で震えていた。

「音が‼聞こえなかったんだよ‼‼生きてたらさ、鼓動の音とかさ、血が巡る音とかするわけなんだよ⁉⁉でも‼‼でもでもでも‼‼‼なんにも‼あの子からは何にも聞こえなかったんだよぉぉぉぉぉ‼‼」

「おかしいでしょ⁉⁉」と泣きながら叫ぶ善逸に伊之助は耳を抑え、炭治郎は「善逸、静かにするんだ‼禰豆子が寝ているんだぞ‼」と叱ると善逸は「あらやだ‼禰豆子ちゃんごめんなさいねぇ‼」と素早く謝ったが顔色の悪さと震えは収まらず、善逸はベソベソと泣きながら四つん這いで炭治郎の元へと這い寄った。

「だってさ、あの時、伊之助も炭治郎も禰豆子ちゃんも戸惑った様な音がしてたよ。それってさ、俺以外の三人もさ…【あの子に違和感】を感じたんじゃないの?なんか変だって思わなかったの?生きてる感じがしなかったんじゃないの?」

  善逸が恐怖でぐちゃぐちゃになった顔のままズイッと顔を炭治郎に近づけて真剣な表情で言う言葉に炭治郎は咄嗟に言葉を返すことができなかった。
 何故なら善逸が今、言った言葉は炭治郎もあの時、あの瞬間に感じていたからだった。

 炭治郎は物心ついた時から嗅覚が人よりも何十倍も優れていた。
 其れは人の感情を読み取る事さえも出来るほどのもので其れを使って炭を売っていた村で厄介毎などを解決したこもあるし鬼殺隊に入った今でも素早く鬼の居場所や強さなどを察知することが出来るので炭治郎にとっては無くてはならない大切な器官である。
 物心からついた頃から当たり前に自身の周りにある匂いが紅い瞳を持った自分と同い年ぐらいの少女から【しなかった】のだ。
 そして、自身の横を通り過ぎる迄、その近づく存在に炭治郎は気がつかなかった。

 そんな事は生まれてから初めての経験だった。

 今まで人から匂いがした。喜怒哀楽の匂いを放ち、毎日を生きる。動物も木々も鬼だって【匂い】がするのだ。
 匂いがしないものとなれば、本当に無機質な物か または、現世では既にその命を終えた魂のみの存在である【死者】だけだ。
 偶々だろう、気のせいだ。安心しろ。騒ぐのを止めろと炭治郎は善逸に言ってやりたかったが、善逸が言った「音がしなかった」と言う言葉が炭治郎の言葉を妨げる様に喉に引っ掛かり、言えなかった。
 あの、耳が人より数十倍も良い善逸が「音が聞こえなかった」と言うぐらいなのだ。もしかしたら本当に紅い瞳を持っていた少女は、この世の者では無いのかもしれないと炭治郎は一瞬、思ってしまったのだ。

 そんな炭治郎の心を読み取ったのか、善逸は更に叫ぶ様に言葉を続けた。
 
「やっぱりあの子、幽霊だったんだよ‼‼じゃないと皆、動けなかったなんて可笑しいじゃんか‼‼しかも‼しかもさ‼俺たちは見えてたのに鬼は首が斬られるまで認識してなかったじゃん⁉やややややっぱり‼幽霊だよぉぉぉぉぉ‼‼やだよぉぉぉぉぉぉぉぉ‼‼呪われちゃうじゃんかぁぁぁぁぁ‼‼俺、死にたくないよぉぉぉぉぉぉぉぉ‼‼‼」
「わかった、わかったから叫ぶのを止めるんだ善逸‼」

 涙でぐちゃぐちゃな顔で炭治郎に縋ろうとする善逸を炭治郎は困った様な表情で宥めていると炭治郎の隣の布団で仰向けで寝転がっていた伊之助が善逸の煩さに腹を立て、自身の枕を善逸の汁塗れの顔面目掛けて力を込めて叩きつける様に放り投げた。

「ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ‼⁉⁉」
「うるせぇんだよ‼‼この弱味噌がぁ‼‼」
「い、伊之助‼なんて事をするんだ‼」

善逸は痛みのあまり、両手で顔を押さえながら床にゴロゴロとのたうち回る様に転がり、炭治郎は慌てた様に善逸へと駆け寄りながらも伊之助を叱った。
 伊之助は悪びれる事無く、女の子と間違いそうな程、美しい顔を怒りで歪ませながらのたうち回る善逸を鼻で笑うと善逸は、すぐさま起き上がり 伊之助を指差しながら怒りを露わにした。

「お ま え なぁ ‼‼‼何してくれとんじゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ‼‼謝れよ‼‼俺に‼‼今すぐ謝れよ‼‼‼」

 鬼の様な形相で伊之助を指差しながら怒る善逸であったが、伊之助は善逸の怒号が煩いと言わんばかりに己の両手で両耳を塞ぎ、口を開いた。

「ぎゃーぎゃーうるせぇんだよ‼お前らはビビリ過ぎなんだよ‼確かにな‼俺様もあの紅目の奴の気配は感じなかった‼彼奴が横を通り過ぎるまで分からなかった‼だけどな、鬼をぶっ殺したって事は俺様たちと同じ鬼殺隊の人間ってやつじゃねぇか‼」

「それなら、彼奴が生きてようが死んでようが同じ鬼殺隊の人間なら騒ぐ必要はねぇだろ」と騒ぐ善逸とおろおろとする炭治郎に向かって伊之助は言い放つと再び、ごろんと音を立てながら布団へと仰向けに寝転んだ。
 伊之助の言葉に炭治郎と善逸は呆気に取られたのか口をぽかーんと開けたまま静止していた。

 確かに伊之助の言葉に納得出来た。
 あの静かに突然現れた少女が死者であろうが生者であろうが関係ない。
 【鬼を倒した】と言うことは変えようが無い真実で、あの少女が纏う白い彼岸花が描かれた紅い羽織の下から見えた、背中に掲げられた【滅】と言う文字は己達も背負う【志】であり【意思】でもあるのだ。
 その文字を背に掲げる少女は同じ鬼殺隊の人間、故に恐れる必要は無い。

 伊之助にそう教えられた炭治郎と善逸は顔を見合わせると「そうか…」「そうだよなぁ…」と呟き、納得した様に頷くと先程迄の騒がしさは消え、落ち着きを取り戻した様だった。
 そんな二人に伊之助はフンッと鼻を鳴らすと静かに目を瞑り、数秒後にはグーグーと寝息を立て始めた。
 善逸も涙や鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を近くに置いてあったちり紙で拭き取ると己に与えられた布団へとのそのそと向かい、大きく溜息を吐く音が聞こえたかと思うと静かに横になった。
 炭治郎は、そんな二人を優しい眼差しで見届け、善逸達と同じ様に布団へとその身を預け、目蓋を閉じた。

 真っ暗な視界の中、伊之助の寝息に善逸の鼾が混じり始めたのを静かに聴きながら、うつらうつらとし始めた意識の中…炭治郎の目蓋の裏に黒髪に血の様に紅い羽織を纏う少女の姿が思い浮かんだ。

 満月を背景に此方を振り返り、鬼を見つめる紅い瞳は憎しみでも哀れみもない【無】が広がるばかりで喜怒哀楽、全ての感情の匂いが幾ら待てども炭治郎の鼻に届くことは無かった。
 生きているのか死んでいるのかさえ、感じさせないほど静かな存在なのに不思議と恐怖や恐れの感情は湧かず、唯、あの時は、鬼を見つめる紅い紅玉の様な瞳に目を奪われた事を炭治郎は薄れ行く意識の中で思い出した。

 自身と違う、紅く美しい瞳が満月の光に照らされ光輝く光景は何とも言葉に出来ない感情を感じさせ、大きな高鳴りが胸を駆け廻り、静かに心の奥に温かな明かりを灯した。

 名前も知らない、紅い瞳の少女。

――もし、あの子が俺と同じ鬼殺隊の隊士であるのなら…

「なまえを、ききたい…な」

――そして、

「あのひとみで、みつめ…られ、たい、な…」

 ポツリと紡がれた言葉を最後に炭治郎も静かに眠りについたのであった。