暖かな日差しに照らされながら炭治郎は胡蝶しのぶの管理する蝶屋敷付近を歩いていた。
 手には数時間前に隣町で買った手土産を片手に時折、何かを思い出しては紅いクラックビー玉が仕舞われた懐を片手で触れながら誰に想いを馳せるように柔らかな笑みを溢す姿は、とても穏やかに感じられた。
 そんな事を繰り返しながら足を進めていると蝶が炭治郎の視界の隅でひらひらと舞い、藤の花の香りが炭治郎の優れた鼻に届く。其れと同時に嗅ぎ慣れた匂いがする事に気がついた炭治郎は歩行速度を少し早め、長い一本道を歩き切ると見えて来た曲がり角を曲がり、見えた黄色と猪の被り物の所有者の名を呼んだ。

「善逸!伊之助!」

炭治郎が二人の名を呼ぶと黄色の羽織を纏う我妻善逸と猪の被り物を被った半裸の嘴平伊之助は声がする方へと視線を向けた。
 善逸は炭治郎の姿に手を振ると炭治郎も小さく手を振りながら二人に近づき「良かった‼二人もきちんと怪我が治ったんだな‼」と声を掛けると伊之助は「あったりめーだぁ‼俺様を誰だと思ってやがる‼」と言い、善逸は伊之助を見ながら飽きれたように溜息を吐いた。

「炭治郎が任務で去った後、俺達も二人で任務だったんだよ」

本当、伊之助と一緒の任務は疲れるよぉ…と呟く善逸に伊之助は善逸を指差しながら「コイツ、ずっと泣いてたけどな‼‼」と炭治郎に告げ口するかの様に言うと善逸は人とは思えないぐらいの形相で「お前がぁ‼‼いきなり、鬼に突っ込んで行くからだろぉぉ⁉⁉俺は弱いんだから俺を置いて突っ込んで行くなよぉぉ⁉⁉俺を守れよぉぉぉぉ‼‼‼」と近所迷惑になりそうな程、泣き叫び、炭治郎は苦笑いを浮かべながら「善逸、伊之助、静かにするんだ。ほらほら、蝶屋敷に向かうところだったんだろう?一緒に行こう」と騒ぐ二人を宥め、蝶屋敷に向かって、炭治郎を含めた三人は歩き始めた。

    ♦♦♦♦♦

「こんにちわー」
「お邪魔します」
「俺様が来たぞぉ‼‼」

蝶屋敷の門を潜り、玄関の戸を開けた三人は其々、蝶屋敷の中へと声を掛けるとその声を聞きつけた蝶屋敷の住人である幼い少女三人が奥からひょっこりと顔を出し、炭治郎達の姿を見て笑顔で駆け寄って来た。

「わぁー!炭治郎さん!」
「善逸さんに伊之助さんも!お久しぶりです!」
「お帰りなさーい!」

蝶屋敷の住人でもある、なほ・すみ・きよの言葉に炭治郎と善逸は笑みを浮かべ、何処となく伊之助も嬉しそうな雰囲気を出していた。
 炭治郎は三人に「禰豆子の定期検診に来たんだ。しのぶさん居るかな?」と問い掛けるとなほが「しのぶ様でしたら今、出かけられていてお屋敷に居ないんです…」と答えた後、「でも、伺うことはお聞きしているのでいつものお部屋をお使い下さい!」と言い、炭治郎は礼を告げると善逸と伊之助と共にいつも蝶屋敷でお世話になる際に用意してもらっている一室へと足を運んだ。

 後ろからきよ達も部屋へと向かう炭治郎達について来ており、炭治郎はハッと思い出したかのように手に持っていた手土産である甘味を三人に手渡すと笑顔を輝かせるかのように喜んでいた。

「「「ありがとうございます‼」」」
「此方こそ、いつもありがとう!しのぶさん達の分もあるから後でみんなで食べてくれ‼」

そう炭治郎が言うと善逸が「あ、そう云えばアオイちゃんとカナヲちゃんの姿が見えないけど?」と不思議そうに首を傾げながら姿が見えない、蝶屋敷の住人である神崎アオイと炭治郎達と同期で蟲柱の継子である栗花落カナヲの存在を目の前の少女三人に尋ねると少女達はアオイは薬の調合中でカナヲは縁側に居ると言い、炭治郎達は蝶屋敷に来たのであれば挨拶をしないとなっと思い、薬を調合中であるアオイの邪魔になるのは駄目だとアオイへの挨拶は後回しにすることにして先にカナヲが居ると言っていた縁側へと足を向けた。

 蝶屋敷は鬼殺隊の療養施設としての役割もある為に敷地内が広い。
 その中でも縁側はカナヲがよく居る居場所でもある。
 任務や稽古、蝶屋敷内で何も手伝う事が無ければ静かに縁側でシャボン玉を吹いて飛ばしているのを蝶屋敷を頻繁に出入りする炭治郎や善逸達は知っていた。
 今日もそうであろうと思い、縁側へと続く廊下の曲がり角を曲がると矢張り其処には予想通りに縁側に座り、シャボン玉を飛ばしているカナヲの姿がそこにはあった。

 炭治郎達の足音と声が自身に近づいて来る事に気がついたのかカナヲはチラリと炭治郎達に視線を向けるとシャボン玉を飛ばす為の吹き筒から唇を離しにこにこといつもと変わりない笑みを浮かべた。

「カナヲ、久しぶりだな!」
「カナヲちゃぁん‼今日も可愛いねぇー‼」
「めんつゆ‼俺と勝負しようぜ‼」

 ぎゃーぎゃーと騒ぐ三人の姿にカナヲはにこにこと笑みを浮かべなまま「お帰りなさい、三人とも」と三人を迎えた。
 善逸はカナヲの笑みにくねくねと体をくねらせながら嬉しそうに頬を染め、伊之助はそんな善逸を気味が悪そうに見つめている。炭治郎はそんな二人に苦笑いしていると不意に甘酸っぱい香りが鼻を掠めた。
 炭治郎は香りに惹かれるように無意識にその匂いのする方へと視線を向けるとカナヲの隣に湯飲みと羊羹の乗った小皿が何故か二つずつ置かれていることに気がついた。
 仄かに湯飲みから湯気が立っていることから湯飲みに茶が淹れられてからまだ、そんなに時間が経っていないことが窺えたのだが、炭治郎がカナヲの姿を見た時には縁側にはカナヲ一人だけしか居らず、誰かが居たような残り香も気配も感じられなかった。

 炭治郎は不思議に思いながら、すんっと鼻を鳴らしたがやはり湯呑みに注がれた温かな甘酸っぱい香りとこの場にいる者達の匂いしかせず、炭治郎は不思議そうに首を傾げた。
 そんな炭治郎に気がついた善逸はカナヲに話しかけていたのを止め、炭治郎に視線を向けると「なに?どうしたの、炭治郎」と炭治郎を心配するかのように問い掛けた。

 炭治郎は善逸の問い掛けに「いや…」と言葉を一度、濁したがカナヲの横に置かれた二つの湯飲みと小皿が気になり、カナヲに視線を向けながら不思議そうに口を開いた。

「カナヲ、さっき俺達が此処に来る前に誰か来ていたのか?」

――その、なんと言うか…湯飲みが二つあるのが見えて…あと…――

「誰かが居たような匂いがしないから…」

――不思議だな、って思って…――

 と炭治郎はポツリと呟いた。

 数日前にも似た様な不思議な光景に出会った。
 月夜の不思議な出来事。
匂いも音も気配も無しに現れた、黒髪に紅い彼岸花を模した髪飾りと血の様に紅い生地に白の彼岸花が描かれた羽織を纏った不思議な少女の姿…。

 何故か炭治郎は不意に今の光景とあの時の目に焼き付いて離れない光景が重なって見えたような気がしたのだ。
 いつもの炭治郎なら気にせずに問い掛ける事なんてしなかっただろう。だが、今回は何故か炭治郎の中で問い掛けないといけないような気がしたのだ。
 此処で問い掛けなければ、その【何か】は始まらず、知らないまま遠ざかって行ってしまうような気がして止まない。

 きょとんと不思議そうな表情をするカナヲと何かを言って欲しげな炭治郎を他所に善逸と伊之助はカナヲの隣に視線を向け、炭治郎が言ったようにカナヲの横に置かれて入る湯飲みを見て、再びカナヲに視線を向ける。そしてサァーと血の気が引いたかの様に真っ青な表情になり、カタカタと震え始めた善逸を見て炭治郎は直ぐに善逸も自分と同じで何も音が聞こえていなかったんだなと理解した。
 
 何故か途端に静かになった三人にカナヲは少しの沈黙の後、不思議そうな表情のままゆっくりと口を開いた。

「"誰か来てた"わけじゃないよ」

 カナヲの言葉に善逸は安心したように息を吐いた。

 だが、その後に続けられた言葉に善逸の身体は凍り付いたかのように固まった。

――ずっと隣に座っているけど、気づいてないの?――

 その言葉をカナヲが言った瞬間、冷たい空気が四人の間に流れた。
 再び、善逸は顔を青く染め、今にでも恐怖で叫び出しそうな表情をしており、伊之助は猪の被り物をしているので表情はわからないが固まっている様に見える。
 炭治郎も無意識に息を飲みこみ、眼を見開いている。そして、カナヲ以外の三人は素早く顔を見合わせた後、バッと音が鳴りそうなほど勢いよくカナヲの隣を見たが其処には何も見えず、善逸は恐怖で「ひっ…」と声を上げた。

 カナヲは三人の表情に何かを感じ取ったのか、静かに三人の目線の先である自身の隣へと顔を向けると首を傾げた後、誰も居ない隣に向かって「もしかして遊んでいるの?」とまるで自身の隣に【何か】が居て、其れが見えているかのように話しかけているカナヲの姿に三人は息を飲んだ。

 おい、ハナヲ‼誰に話しかけてんだよ‼
 そそそそそうだよ‼カナヲちゃん‼其処には誰も居ないよぉぉ‼た、炭治郎が変なこと言うからぁ‼
 お、俺の所為なのか⁉俺は唯、思った事を聞いただけで…と騒ぐ三人を気にすること無く、カナヲは「また、そうやって遊んでるとアオイに怒られるよ」と何も居ない空間に向かって会話を続けており、其れを止めようと炭治郎が声を掛けようとした時であった。

 炭治郎達の背後から聞き慣れた声が聞こえた。

「皆さん、声が大きいですよ‼お静かに‼」

 此処には療養中の方もいらっしゃるんですからね‼と白い紙袋を持ちながら青い蝶の髪飾りで二つに髪を結った蝶屋敷の住人の一人である神崎アオイが眉間に皺を寄せながら立っていたのである。
 突然、声をかけられた炭治郎は驚いた様に眼を見開きながら「こ、こんにちは、アオイさん。すみません‼騒いでしまって…」と素直に謝り、善逸も驚きで暴れる心臓を両手で押さえながら挨拶をした。

 アオイは騒がしい三人にため息を吐くと伊之助がアオイに向かって「お前は何しに来たんだよ」と問い掛けた。
 アオイは伊之助の問い掛けに手に持っていた白い紙袋を見せるように少し持ち上げると「お願いされていた傷薬の調合が終わったので渡しに来たんですよ」と答えた。
 
「?誰か傷薬の調合をお願いしてたのか?」

見に覚えのないことに炭治郎は善逸達に問い掛けると善逸も伊之助も自分達は違うと首を横に振り、炭治郎は二人の返事に不思議そうに首を傾げた。
 二人が違うのならば、カナヲがお願いしていたのかと思い、視線を向けたがカナヲはにこにことと笑うだけで何も言わず、更に炭治郎が不思議に思っていると不意に視界の端に紅い色の何か見えた。

――あの時と同じ紅だっ‼――

 そう、炭治郎達が気づいた瞬間にはその紅い色は匂いも音も気配も無く、炭治郎の横を通り過ぎ、立っている伊之助と善逸の間を擦り抜けて、いつの間にかアオイの前へと立っていたのである。

 炭治郎と善逸と伊之助は眼を見開き、金縛りにあったかのように身体の動きを止めた。

 あの時と同じであった。
 あの時もその紅い色は匂いも音も気配も無く、それは突如として月夜の暗闇から現れた。
 あの時も通り過ぎるまでその存在を目で認識する事が出来ず、通り過ぎてから皆がやっとその目で姿を認識出来たのだ。
 あの時も同じだったのだ。
 紅い生地に白い彼岸花が描かれた羽織を纏い、紅い彼岸花を模した髪飾りと黒っぽい襟巻きを付けて長髪を上半分だけ結い上げた黒い髪が風に舞い、そして炭治郎達に背を向けたまま、椿の花が落ちるかのように鬼の首を落としたのである。
 
 あの時と違うのは鬼がいないだけで同じ光景が其処にはあったのである。

 気配も音も匂いもなかった【生きているのか死んでいるのか判らない鬼殺隊の隊士】それが今、目の前に居て、存在しているのである。

 息を飲む炭治郎達を振り返る事なく、彼岸花を纏う少女はアオイへと顔を向けており、その表情は窺えない。

「薬の調合、ありがとうございます」

 アオイのお陰で御使いが無事に完了出来ます。と高くも低くも無い、何処か淡々とした声が炭治郎達の耳に響いた。

 初めて聞いた目の前の彼岸花を纏う少女の声に炭治郎の心臓は、どくんっと強く脈を打ち、喉がカラカラに乾いていくような気がして炭治郎は自身の早くなる心臓を抑えるように片手で隊服の胸元を握り、喉を潤すかの様に唾を飲み込むと周りにバレないように熱い吐息を吐いた。
 目の前にいる少女のことなど何も知らないのに声を聴いただけで訳の分からない感情が炭治郎の腹の奥底から湧き出てくる。其れが恐ろしくもあり、何処か切なくて苦しいような…心地良いようにも感じられる矛盾な感情に炭治郎は長男なのに訳のわからない感情に左右されるな‼と心の中で己を叱咤した。

 だが、赫灼の瞳は目の前の紅い色を捕らえて逸らすことは無かった。

「いいのよ、此れも仕事だから。其れにしても…今の皆さんの反応を見る限り、また悪戯したのね?」
「また、姿を隠して揶揄ってたみたい」

 アオイが固まる炭治郎達の姿を見て何かを察したように言葉を紡ぐとにこにこといつもの笑みを浮かべたままのカナヲがアオイに報告するかの様に言った。
 するとアオイは溜息を吐きながら「そうやって脅かしたり揶揄ったりするから幽霊なんて呼ばれたりするのよ!」と叱る様に目の前の彼岸花を纏う少女を指差しながら言った。
 彼岸花を纏う少女は「別にその仇名で呼ばれても気にしてないから別に良いです。と言うか普段から唯、人と関わるのがあまり好きではないし面倒くさいのでそうしてたら揶揄ってるや悪戯してるや幽霊だと言われるようになっただけです」と言うとアオイは「もう‼」と言いながら飽きれた表情を見せた。

 そんなアオイを気にすること無く、少女はアオイの手から薬を受け取ると羽織の中に仕舞い、ゆっくりと炭治郎達を振り返った。

 紅い羽織が舞い、黒い髪が風に揺らめく。
 そしてあの時、鬼を見つめていた紅い紅玉の瞳が炭治郎の赫灼の瞳と重なり合った瞬間、炭治郎の中で声にならない感情が弾け、心の奥底から熱い何かが湧き出てきた。
 息が出来ずにはくはくと空気だけが口から漏れだし心臓は壊れたかの様にどくどくと高鳴り、全身を巡る血が沸騰したかのように熱くて煮えたぎる湯の中に身体をぶち込まれたかの様に一気に体温が上昇して行くのがわかった。

 熱くて堪らないのに目の前の紅い瞳から眼を逸らすことが出来ずに戸惑い、自身から何とも言えない甘酸っぱい匂いがする。
 カナヲ達が飲んでいた湯飲みに注がれたものよりも甘酸っぱくてクラクラする程の匂いに炭治郎は内心混乱した。
 視界の端では善逸が炭治郎を見つめながら耳を押さえ、何だか怯えている様にも感じられたが今の炭治郎は善逸に声を掛けている余裕などなかった。

 いつもの炭治郎なら笑顔を見せ、自己紹介をしていただろう。だけど、今の炭治郎は「あ、うっ…」と何処かもじもじとしており、目の前の彼岸花を纏う少女は不思議そうに首を傾げると炭治郎へと手を伸ばし、その痣のある広い額に手を当てた。

「ひぇ⁉」
「熱でもあるんじゃないですか?」

 焼いたネギでも首に巻きます?それとも甘藍(キャベツ)帽子でもしますか?と言い始めた少女の行動に炭治郎は石像の様に固まり、その様子を見ていたアオイは少女に向かって「ネギを巻くのも甘藍帽子も迷信よ、紅」と告げた。

「あ、そうだったんですか。知らなかったです。前に師範に実行しちゃいましたよ」
「え⁉……紅ったら…」

 アオイは彼岸花を纏う少女の発言に飽きれたような表情を見せた。

「べに…?」

 アオイが言った【紅】と言う、聞き慣れない単語に炭治郎は飛んでいた意識を素早く戻すとアオイの言葉を鸚鵡返しのように呟いた。
 炭治郎が呟いた言葉に少女は炭治郎に触れていた手を下ろし、不思議そうに首を傾げると「はい。何でしょう?」と返事をした。
 突然、返事をした少女に炭治郎は驚き、赫灼の瞳がこぼれ落ちそうなほど見開かれた表情を見て彼岸花を纏う少女は「あぁ、」と呟き、艶やかな唇をゆっくりと開いた。

「自己紹介が未だでしたね。初めまして、鬼殺隊隊士・階級は甲 壱師 紅(いちし べに)と申します」

――数日前に応援要請を受けた際にあなた方にお会いしましたね――

 無表情で淡々と炭治郎達を前にして話す少女の名は壱師 紅(いちし べに) 階級は甲

 あの日の月夜に見た少女は鬼でも幽霊でも幻覚でも無く、炭治郎達と同じ鬼殺隊の隊士で今を生きる生者であった。
 炭治郎は紅が生者である事に静かに心の中で安堵した。
 死者であるのなら炭治郎が幾ら手を伸ばしても届きはしない。でも、生者であるので有れば、例え伸ばした手からすり抜けてしまっても実体があるのだから何度でも手を伸ばし掴むチャンスはあると炭治郎は心の中で素早く判断したのだった。

 何故、此処まで自身がこの不思議な彼岸花を纏う少女に執着しているのか、其処までは炭治郎自身も深く理解出来ていない。
 唯、あの紅い瞳が脳裏に焼き付いて離れず、恋しいと思うと同時にあの瞳に自身を映して欲しいと強く思うのだ。

 生きている事を知り、そして、壱師紅と言う名も知った。
 その二つのことを知っただけなのに何故だか、胸に切なさと愛おしさが込み上げてくる。

 震えそうになる身体を抑える様に炭治郎は唇を少し噛みしめた。其れでも収まることを知らないドキドキと高鳴る鼓動に意を決して目の前の少女へと話しかけようと口を開いたが、名前と同じ紅色の瞳が炭治郎をぼんやりと見つめている光景を見て頬が再び熱を持ち、声が出なかった。

 少女の表情は無表情のまま変わること無く感情が読み取れない。
 匂いも音も気配も無い。姿さえも目を逸らせば一瞬にして消えてしまいそうな存在に見える、この世の者とは思えない不思議な少女・壱師紅は、はくはくと口を開けたり閉じたりする炭治郎を見て沈黙しているとハッと何かに気がついたかの様に自身の隊服のポケットに手を突っ込み、炭治郎に何かを差し出した。

 そして、相変わらずの無表情のまま紅は、ゆっくりと艶やかな唇を開いた。

「鼻が垂れそうなら塵紙をどうぞ」

いや、違うんだ‼‼炭治郎は思わず叫びそうになったのをグッと堪える。「花粉症ですか?今からの季節は辛いですね」と語る、無臭・無表情で感情が読み取れない紅に対して「す、すまない。ありがとう」と告げると紅から塵紙を受け取った。
 炭治郎は断じて花粉症などではない。寧ろ、山育ち故にちょっとやそっとでは何も起きない健康そのものである。だが、今目の前にいる紅は淡々とした声で「鼻がかぴかぴになるのは辛い」とまだ、花粉症について話していたがその姿も何処か炭治郎の胸にくるものがあった。

 そして、今の紅とのずれた会話で炭治郎の心にほんの少し余裕が出来たのか、炭治郎は一度、紅にバレない様に深呼吸をすると赫灼の瞳を紅へと向け、息を吸い込んだ。

「俺の名前は竈門炭治郎だ。この間は助けてくれてありがとう‼」

――実は、ずっと君が気になっていたんだ‼――

 本当はそう告げたかったが、何故?と聞かれると理由をきちんと答えられないと思ったからその言葉は紅には告げず、自身の名前とあの月夜の礼を炭治郎は述べた。
 すると紅は「鎹烏に告げられたまま応援に向かっただけなのでお礼の言葉など不要ですよ」と丁寧に言うが炭治郎は紅との会話を少しでも長く続けていたくて更に言葉を続けた。

「いや!助けてもらったのは事実だから御礼は言うぞ‼そうだ‼君のことをその、何と呼べば良いだろうか…?階級は上で鬼殺隊の先輩だろうが…同い年にも見えるし…その…」

 頬を染めながらチラチラと紅を見つめる炭治郎に紅は少し考える様な素振りを見せた後、「御好きにお呼びください。敬語も不要です」と淡々と告げた。

「い、良いのか⁉好きなように呼んでも⁉」
「はい、どうぞ。私は炭治郎くんとお呼びさせていただきますね」

紅がそう言うと炭治郎は恐る恐る何度も紅の名を噛み締めるように呟いた。
 「炭治郎から更に凄い音がするぅ…」と涙目で更にぎゅっと両耳を塞ぐ善逸と「ナンカイツモトチガウネ…」と片言で話す伊之助を見た紅は不思議そうに首を傾げた後、「蒲公英くんと猪頭くんの御名前は何と言うのですか?」と尋ねると二人に尋ねているのに何故か炭治郎が「耳を押さえているのが我妻善逸で猪の被り物をしているのが嘴平伊之助だ‼」と答え、紅は「あぁ、お二人もカナヲの同期の方々ですか」と言った。
 カナヲは紅の言葉ににこにこと笑みを浮かべたままコクリと頷いた。

 そんな、少しの穏やかな時間が流れている時だった。

 バサバサと翼が風を切る音が聞こえ、一羽の黒い鎹烏が紅目掛けて飛んで来たのである。
 紅は静かにその鎹烏へと慣れた手つきで手を伸ばすと鎹烏は紅の腕へと止まり木に止まるかの様に止まり、紅の額をその鋭い嘴でごつんっと一突きした。

「あいたっ」

痛みで声を上げる紅を気にすること無く、その鎹烏は再び紅の額を突くとそのまま翼を広げ、何も告げることなく飛び去って行ったのであった。
 突然の事に驚く炭治郎達を他所に紅は静かに溜息を吐くと「帰りますね」と一言、告げたのである。

「え、もう帰るの?」
「紅、好物の羊羹、残ってるよ」

 突然の紅の言葉にアオイとカナヲが「もう少しゆっくりしていけば?」と紅へ声を掛けるが変わらずの無表情でも何処か不機嫌そうな声色で「師範が早く帰って来いと言ってるようなので」と先程の鎹烏が飛び去った方角を見ながらそう呟いた。

「さくらんぼ緑茶と羊羹、未だ口は付けてないので何方かどうぞ」

――では、任務であった際は宜しくお願いしますね――

「あっ…待ってく、れ」

 紅い羽織を翻し、さっさと背を向け歩き出す紅を引き止めるかの様に炭治郎は手を伸ばしたが、その手は紅に届くことは無く、紅は炭治郎達から数歩離れると炭治郎達が瞬きをした一瞬で姿を消してしまったのであった。
 その事に善逸は声にならない悲鳴を上げ、伊之助は石の様にピクリと動けなくなった。
 アオイとカナヲは慣れているのか特に驚きを見せること無く、アオイは再び、煩い善逸を叱り付ける様に声を荒げ、カナヲは再びシャボン玉を飛ばし始めた。

 炭治郎だけは静かに紅が去って行った方向を見つめた後、紅の手を掴めなかった手に視線を移しぎゅっと拳を握った。
 もう少しだけ話したかったなぁ、何て柄にも無く思い小さく溜息を吐いた後に長男なのにこんなに弱気になってちゃいけない、しっかりするんだ‼名前も聞けた、しかも呼び捨てでも良いと言ってくれたんだ‼取り敢えず、一歩は近づけたんだから‼と己を納得させる様に気合を入れるとカナヲの横へと腰を掛けた。

 カナヲは炭治郎が自身の横に腰掛けたことを横目で見るとシャボン玉液を一度置き、炭治郎に先程、紅が口は付けていないから大丈夫だと言った
湯呑みを差し出した。
 炭治郎は礼を言いながら受け取るとくんっと仄かに温かい茶の香りを嗅いだ。
 その甘酸っぱい香りは、先程の紅との目を合わせた際に自身から発せられた匂いを何処と無く、思い出させた。

「良い香りだ。でも、これは御茶なのか?」

 炭治郎が尋ねるとカナヲはコクリと頷いた。

「さくらんぼ緑茶。紅が手土産に持ってきてくれたの」

 紅は羊羹に合うお茶を選ぶのが上手なの、と言うカナヲ。
 自分は紅の事を知らないことの方が多い、だけど先程のカナヲとの会話と今の言葉を聞いて、カナヲは紅の事をよく知っているんだなと思うと少し炭治郎の胸がもやもやとした気がした。
 自分の知りたい彼女の事をカナヲは知っている。それが何だか悔しいような…。
 理由も分からない嫉妬心が炭治郎の胸の中を駆け巡り、そんな感情を悟られないように炭治郎は静かに湯飲みに口をつけ、茶を飲んだ。

 甘酸っぱい香りと共に爽やかな味わいが広がり、炭治郎の口からほっと吐息が漏れると同時にまた、あの焦がれる紅い瞳を思い出した。

「紅…」

――今度は、もう少し長く話したい――

「また、会いたいな…」

 炭治郎の小さな呟きは風に溶けて消えたのだった。