それは、とある夏の夜の事だった。

 竈門炭治郎・我妻善逸・嘴平伊之助の三人は先日の任務で大怪我をした為に蟲柱である胡蝶しのぶが管理する蝶屋敷での療養を余儀無くされたのであった。

 照りつける太陽が沈み、昼間に比べれば、まだ暑さは幾分か増しになったが、矢張り気温が高いことには変わりなくここ最近寝苦しい夜が続いていた。
 今も暑さで三人は中々眠ることができず、必死に眠ろうと思いながら何度も寝台の上で寝返りを打つが眠気は一向に訪れない。
 何度も繰り返す寝返り、その度に「あつい」「え、今日めっちゃ暑くない?」「あちぃ…」と言う暑さに対しての呟きが、いつの間にか三人の会話へと発展していった。

 暑さは人の思考を低下させるのか、暑さで疲労している善逸が「たんじろぉ、この暑さ如何にかしておくれよぉ」と言い出したり、伊之助が「山の方が此処より涼しい」と言い始め、出て行こうとするのを止めたりなどなんだかんだとあったが、その騒動の後、善逸が「本当は怖いから嫌なんだけど…涼しくなるならさぁ、怪談話でもする?」と言う言葉がきっかけで怪談話が始まったのであった。

 本当は怖いから嫌なんだと言いつつ任務先で聞いた不思議な話や古くから地方で伝わる怪談話などを善逸が語り、炭治郎と伊之助が其れを聞く。
 時折、善逸が震え、顔を青褪めながは話す光景を見て、炭治郎と伊之助は震え上がることはなかったが寝苦しい夜の体感温度を下げるには良い塩梅となっていた。

「善逸は沢山、話を知っているんだな」
「俺、耳が良いから沢山そう言うの町とかで聴こえちゃうからね…」

「偶に寝てても怖い話が聞こえるからめっちゃ怖い時ある」と溜息をつきながら語る善逸に炭治郎は苦笑いをした後、ふっと伊之助が静かな事に気がついた。
 炭治郎は静かに伊之助に与えられた寝台へと視線を向けると体感温度が下がったからなのか、伊之助がスヤスヤと寝息をたてている姿が見えた。

 炭治郎は「伊之助は眠ってしまったみたいだな」と呟くと善逸も伊之助の方へと視線を向けた後「俺もそろそろ寝るかなぁ」と布団をもそもそと被り直し始め、炭治郎はその光景を横目に「俺は厠に行ってから寝ようかな」と呟き、自身の与えられた寝台から起き上がると部屋の扉を開けた。

「暗いから足元気を付けろよぉー」

 善逸が炭治郎の背中に声をかける。
 炭治郎は、その言葉に「あぁ、ありがとう」と返すと厠へと足を進めたのだが、歩み始めた瞬間、何故か何処からともなく視線を背中に感じた。

「??」

 誰が居るのか?と炭治郎は辺りをきょろきょろと見渡すが其れと云った姿は無く、不思議に思いながら優れた嗅覚でスンッと匂いを嗅ぐが人の気配は無い。

 唯々、視線だけが感じ取れた。

 炭治郎は首を傾げながら取り敢えず、用を済ませようと厠へと向かったのであった。


     ♦♦♦♦♦

 数分後、厠で用を足し終えた炭治郎は蝶屋敷の廊下をひとり歩いていた。

 自分しか居ないと錯覚しそうな程の辺りは静まり返り、窓から差し込む月の光もほんの僅かであるために薄暗い空間が広がるばかりだった。
 昼間と違う顔を見せる廊下は不気味で時折、聞こえる廊下の軋む音や家鳴りに対して不意に先程の善逸の怪談話が炭治郎の頭を過り、歩みが止まる。
  怪談話のことを考えない様にと頭を振り、歩みを進めるが、また思い出して歩みを止めるを繰り返してしまい、其処まで遠い距離ではないのに中々、自身の寝泊りしている部屋へと帰ることが出来ず、見慣れた蝶屋敷の廊下の風景が何処となく炭治郎には恐ろしく感じた。

 余計な事は考えずに早く部屋へ戻ろう。大丈夫、大丈夫だ。すぐそこなんだから怖がるな炭治郎っと炭治郎は心の中で自分を叱咤して再び歩み出そうとしたのだが、何故かその一歩を踏み出すことが出来ず、炭治郎は突然の事に驚き「えっ⁉」と声を上げた。


 だが、その驚きの声も何故か口から出ることは無かった。

 しかも声が出ないと同時に炭治郎は、とある事に気がついてしまったのである。

 部屋を出てから厠に行き、用を済ませて厠を出てから何事も無く動いていた身体が金縛りにあったかの様にぴくりとも動かないのである。
 唯一、眼球と肺…そして思考だけは動かすことが出来た。
 動く眼球で自身の身体をぐるりと見渡すが特に何かに拘束されている様子は無く、辺りに何かしらがあった形跡もない。だが、声が出ない。指一本処か四肢全体を動かすことができない。
 生命維持としての呼吸と脳を動かすことしかできないことに炭治郎は自身の身に起こった突然の異変に心の中で戸惑うことしか出来ずにいた。

 見た目の異変が無いのなら、まさか、鬼の襲撃、または血鬼術か⁉と考えた炭治郎は自身の嗅覚で鬼の匂いを嗅ぎ取ろうと空気を吸い込むが鬼の匂いも血の匂いさえも香ることは無かった。

 だが、何故か炭治郎の鼻になんとも言えないカビ臭い匂いが届いたのである。
 先程までそんなカビ臭い匂いなどしなかったのに其れはゆっくりと炭治郎が居る場所から少し離れた場所から漂って来たかと思うとひたひたと云う足音と共に段々と近づいて来る気配が感じられた。
 しかも、ひたひたと云う足音とカビ臭い匂いに混ざり、ずるずると何かを引き摺る音も混じって聞こえてくる。
 不可解な状況と視界では確認出来ない人物への恐怖、動かせない身体と言葉にならない声、その状況に夏の暑さにより高くなっていた体温が一気に冷え、背中に冷たい汗が伝うのが炭治郎には分かった。

 音と匂いで【そのモノ】が近づいてくるのが目では確認出来ないが炭治郎には分かる。
 自身の背中に部屋から出た時に感じた視線が痛いぐらいに感じられる。

「ふふふふふふふふっ」

 なんとも言えない不気味な笑い声が自身の背後で聴こえ、炭治郎の心臓が恐怖でバクバクと心拍数を上げる。
 呼吸は浅くなり、額からも汗が伝い落ちる。

 そして、不気味な笑い声が炭治郎の耳元で聞こえた瞬間、白い生気のない手が背後から伸び、炭治郎の首を掴んだ。

 掴んだ白い生気のない手の正体不明の持ち主は不気味な笑い声を上げながら手に力を込め、炭治郎の首を締め上げ、炭治郎が抵抗しようにも金縛りにあったかの様に動かない身体では抵抗することが出来ず、恐怖で浅くなっていた呼吸は首を絞められた事により息が出来なくなり酸素を求める様に口を開けることしか出来なかった。

(あぁ、ダメだ…っ…意識が飛んでしまうっ…)

炭治郎が霞む視界の中、そう思った時、炭治郎の耳に聞き慣れた静かな少女の声が届いたのである。


「何やら楽しそうなことをしていますね。そう云う趣味をお持ちなんですか?」


 その声が聞こえた瞬間、先程まで不気味な笑い声を上げていた声が「ひぃっ…!?」と怯えた声へと変わり、炭治郎の首に込められていた力がするりと抜ける。
 其れと同時に金縛りにあったかの様に動かなかった炭治郎の身体が不意に動く様になり、炭治郎は首を押さえながら力が抜けたかのように床に膝をついた。

 浅い息を繰り返しながら、炭治郎は視線を背後へと向ける。そして、視界に映った光景に引きつった表情を見せた。

 白いボロボロの着物を纏ったボサボサの黒髪の青白い顔の女が炭治郎の真後ろに立っていたのである。
 それだけでも驚きと恐怖があったのだが、炭治郎は更にその青白い顔の女の後ろにいた存在に驚いた。

 赤地の生地に白い彼岸花が描かれた羽織を纏い、紅い彼岸花を模した髪飾りをつけた炭治郎と同じく鬼殺隊の隊士であり、炭治郎の想い人である黒髪の少女・壱師紅が気配も音も匂いも無く、平然とした顔で青白い顔の女の耳元に口元を寄せ、話しかけていたのである。

 壱師紅は普段から悪戯好きなところがある。
 音も匂いも気配も感じさせない特異体質とも呼べる体質を利用し背後から人を脅かすことが多く、炭治郎は数多くいる紅の悪戯の被害者の一人でもあった。
 そんな紅が幽霊と思わしき青白い顔の髪の長い女に声を掛けた事により、女もまさか自分が背後を取られ脅かされるなんて思わなかったのだろう。不気味な笑い声を上げていた声は引きつった声へと変わり、血走った目が驚いた様に目を見開いている。

「どんな恨みがあり、この世を彷徨っているのか知りませんが、死者が生者に手を出すのはいけませんね。しかも、生者を助ける蝶屋敷に出没するなんて」

 静かに、でも何処か悪さをした者を叱るような声色をした紅はそう言うと羽織の袖をごそごそと弄り、何かを取り出した。
 筒状になった程よい大きさの物体を大きく振りかぶると紅は容赦無く、青白い顔をした髪の長い女の後頭部へと叩きつけたのである。

「え、えぇぇぇぇぇぇ⁉⁉⁉」
「あくりょーたいさーんでーす」

 ガンガンゴンゴンと容赦無く羽織の袖から出した物体を女に叩きつける紅に炭治郎は驚き、声を上げた。
 女の方も唯でさえ驚かされて吃驚した声を上げていたのにも訳もわからず更に殴られると云う奇妙な展開に驚きを通り越して怯えているようにも見える。しかも、何度も振りかぶる紅の手をよく見るとニヤリと巫山戯た表情をした、こけし人形が握られているではないか。

 青白い顔をした髪の長い女の幽霊に無表情の黒髪の少女がこけし人形で殴りつけると云う歪な光景に炭治郎の肝もヒヤリとして幽霊の顔色と同じぐらい血の気が引いていく。
 心なしか幽霊の女の方も涙目になっている様に見え、何度もこけしが振り下ろされる度に身体が透けてゆくのが目に見えて分かった。

 それでも無表情で振り下ろされる、こけし人形の攻撃を食らう幽霊が少し、炭治郎には可哀想にも見えた。


「はらいたまえーきよめたまえー」


 そして、数秒と経たない内にゴンッと云う音を最後に女の姿は、すっかり消え果て静かな廊下に炭治郎とこけし人形を持った紅だけが残された。
 紅は静かに紅い瞳で辺りを見渡すと「除霊完了ですかね」と呟き、手に持っていたこけし人形をひと撫ですると再び羽織の袖の中へとこけし人形を仕舞った。

「大丈夫ですか、炭治郎くん」

 紅は膝をついたままの炭治郎の前にしゃがみ込むと首を傾げながら炭治郎へ声を掛ける。炭治郎は少しの間、唖然としていたがハッと我に返り、紅の名を呼ぶと紅は「はい。壱師紅です。大丈夫そうですね。良かったです」と無表情のまま言った。

「紅、あの、今のは…」
「??…あぁ、良くないモノですよ。大丈夫です、多分もう来ませんよ。除霊しましたんで」
「あぁ、それは良かった…じゃないんだ‼除霊と言ったか‼⁉一方的に殴ってたようにしか見えなかったんだが⁉⁉」

 炭治郎が紅に詰め寄り、目をまんまるとさせながらそう言うと紅は不思議そうな顔をしながら『えぇ、ぶん殴りしたよ』と答えた後、炭治郎に先程の行動について説明をし始めた。

 カナヲと二人での任務を終え、胡蝶しのぶに呼ばれていた紅は夜遅くに蝶屋敷を訪れていたのである。
 しのぶへの用事を終え、帰ろうと廊下を歩いていたところ、偶々炭治郎が白いボロボロの着物を纏った髪の長い黒髪の…如何にも幽霊です。と主張している女に首を絞められいるところに遭遇したのだと言うではないか。
 取り敢えず、炭治郎を助けなければと思った紅は以前に読んだ書物で【幽霊は不意な事に弱く、また物理的な攻撃は意外に効果がある】と書かれていたのを咄嗟に思い出し、その読んだ書物では幽霊は鈍器でボコボコにされ簀巻きにされた後にその周りで泥鰌すくいを踊られると言う除霊と言い難い除霊をされていたのである。

 ならば、不意な事に弱い云うことならいつも炭治郎や師範にするように後ろから驚かせば良いのではないか?
 後は…素手で殴るのは痛いから素手より殺傷力がある鈍器に似たもので攻撃を…と考えた結果、任務先の町で買った(紅曰く可愛い)こけし人形を羽織の袖の中に仕舞っていることを思い出し、炭治郎を助けるべく、こけし人形を手に幽霊へと出陣したのだと言う。

「いやー、怪談話が書かれた書物もいざと言う時に為になりますね」
「あ、うん、そうだな…」

 無表情でうんうんと頷く紅に炭治郎は色々と今迄のことを思い出し、自身の心臓を落ち着ける様に小さく溜息を吐くと紅に優しく微笑み、紅の手をぎゅっと自身の手で握った。

「それにしても…助けてくれてありがとう、紅」

 紅は炭治郎の言葉と笑みにちょっと驚いたように目をキョトンとさせると「御礼は羊羹で良いですよ」と告げた。
 その言葉に苦笑いをする炭治郎に視線を少し逸らしながら紅は「そろそろ寝ないと駄目ですよ。私も帰りますから」とスッと立ち上がり、座ったままの炭治郎も立ち上がらせると繋がれた手をゆっくりと離した。

「うーん…眠れるだろうか…」

 さっきの事が衝撃的過ぎて寝れるか心配だと困ったような表情を見せる炭治郎に紅は少し考える素振りを見せた後、そっと羽織の中からある物を取り出し炭治郎の手に握らせた。

 固く細長い筒状になった木に丸い玉のようなものが乗っている。
 目は、ゆるりと三日月を象ったような目をしており、口元もニヤリと巫山戯た笑みを浮かべている。

 紅が炭治郎に握らせた物は先程、幽霊をぶん殴る際に使用していた、こけし人形だった。


「何か有れば、それで殴れば万事解決ですよ」

 幽霊にも実在する人間にも効果抜群です。と紅い瞳をきらりと輝かせる紅に炭治郎は動きを止めた後「すまない‼此れは要らない‼」と素早く、こけし人形を紅へ返却したのだった。


 これは、とある夏の夜の出来事の話。